2005年09月26日

No.65

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.65 2005/09/24

------クロスオーバー-------------------------
「女性観」をめぐる問題

日経新聞の文化欄に連載されている小説『愛の流刑地』は、今やネットでは「あ
いるけ」と略され、揶揄されたり批判されたりしているようですね。文章の描写
もさることながら、挿絵に裸が描かれたりしているので、イスラム圏の東南アジ
アなどでは完全にポルノと見なされるようで、日系企業などで日経の海外講読を
いったん中止するような動きまで出ていると聞きます。

批判が大きいのは、「女性は男性より深い快楽を感じる」というような文言が無
反省的に使われるからでしょう。これってあくまで男性側からの主観の問題でし
かありませんからね。こうした表現の背後には、男性本位・女性蔑視の見方がこ
びりついているように思えます。歴史的に振り返ると、実はこれ、西欧の古代お
よび中世の女性観にまで遡ることができます。例えば代表的なものに、偽アルベ
ルトゥス・マグヌスの『女性の秘密』という書があります。先に文庫で出たジョ
ゼフ&フランシス・ギーズ『中世ヨーロッパの城の生活』(栗原泉訳、講談社学
術文庫)にはアルベルトゥス本人の作であるかのように紹介されていますが、こ
れはどうやら弟子筋の誰かが書いたものだろうということです。『女性の秘密』
はアリストテレス注解の抜粋本で、ギーズの本によると、そこでは女性を質料、
男性を形相ととらえ、「質料は不完全であるがゆえに形相を取ろうとする、よっ
て女性は不完全ゆえに男性と一体になることを望み、より大きな快楽を得る」と
いった議論が展開し(p.120)、また、男性の快楽は種の放出だけなのに対し
て、女性は種の放出とその受け取りという二重の快楽を得るのだ、と論じられて
いるようです。

この「女性が放出する種」という点について、興味深い論考があります。以前に
も言及したカルメラ・バフィオーニ編『アヴェロエスとアリストテレスの遺産』
(Alfred Guida Editore、2004)という論集に所収の、編者バフィオーニによ
る論考「アヴェロエスの発生学と『女性の種』問題についての補足注」
(pp.159-172)がそれで、そこでは次のような話が展開しています。

上に記したように、アリストテレスはその質料形相論から、人間の誕生を男性の
種の形成力のみによる作用として捉えています。女性は質料をもたらすという限
定された(貶められた)役割しか担っていません。これに対し、もう一つの考え
方として、ヒポクラテスからとりわけガレノスを経由して受け継がれた説があり
ました。それが、男性だけでなく女性も種を放出し、両者の協同によって人間が
形成されるという考え方です。この立場では、女性はより重要な役割を担うこと
になります。こちらは早くからシリアを経由してアラブ世界に入り、そこでの医
学思想の伝統に組み入れられました(イスラム世界はもともと、女性を軽んじる
ようなスタンスは取っていなかったのですね)。とはいえ、徐々にアリストテレ
ス思想の受容が前面に出て、この「女性の種」説は次第に後退していきます。ア
ル・ファーラービーやアヴィセンナ(イブン・シーナ)は、人間発生論に関して
明らかにアリストレス寄りになります。ガレノスへの好みを多少とも示している
らしいアヴェロエスの場合は、一方でアリストテレス的な立場へを強く反映し、
人間の誕生における「女性の種」の役割は否定するものの、質料形相論的枠組み
の中で、女性の役割は少なからず重要であることを改めて論じているといいます
(この論考の内容を、アヴェロエスは論点をずらしながら、貶められた女性像を
救っているのだ、というふうに読んでしまうのはちょっと行き過ぎでしょうか
ね?)

西欧でも、アヴェロエス思想が本格流入する13世紀には、質料が単なる受容体
ではなく、形相を受け取る力という意味での力を宿している、という考え方が拡
がっていきます。上の偽アルベルトゥス本では、アリストテレス思想に取り込ま
れる形で「女性の種」が解釈(歪曲?)されているようですが、では質料の力の
見直しにともなって、思想史的な意味での「女性観」に微妙な変化のようなもの
は生じなかったのでしょうか?このあたりの問題については、そのうち少し詳し
く調べてみたいところです。

いずれにしても、西欧の古代・中世においては、壮大なコスモロジーがまず背景
にあって(質料形相論は巨視的な世界観を織りなすものです)、その上に思想的
な女性観が成り立っていたわけで、現代とはだいぶ事情が異なっています。中世
の女性観は、そうした世界観に位置づけ直して理解しなくてはならないもので
しょう。一方、俗っぽい新聞連載小説に代表されるきわめて現代的な、主観的で
いかにも無根拠な「蔑視」は、たとえかつての(しかも西欧流の)そうした女性
観の残響を残すものだとしても、やはり別ものです。一つの亜種・亜流といって
もよいでしょう。ネット上でいろいろな批判が加えられるのも時代的に理にか
なっていることと思いますが、それ以上に、現代においてもそういう「蔑視」を
支えるような、何か新たなイデオロギーのようなものが台頭してこないとも限り
ません。そのあたりに警戒することも必要かもしれません。


------中世の古典語探訪「ラテン語編」------
第15回:所有代名形容詞

白水社から『ラテン広文典』(泉井久之助著)が限定復刊されましたね。これは
嬉しいですね。古典語用ではありますが、入門用として、また後から確認するた
めの文法書として実に有益な一冊です。ここでは文法事項の復習を行っています
が、今後は適宜、同書にも言及させていただくことにしましょう。また、この
コーナーは中世ラテン語の文法の復習ということで、今後はなるべく中世的な特
徴に的を絞ってピンポイント的に見ていくことにします。

というわけで今回は所有代名形容詞の注意点です。男性形の人称変化はmeus、
tuus、suus、noster、vester、suusです。中性形、女性形は語尾がそれぞれ-
a、-umになるのでした(中性1人称複数はnostrum、vestrumという形もあり
ます。3人称のsuusが単複同形になる点も大事なポイントですね。

中世ラテン語でとりわけ注意が必要なのは、この所有代名形容詞や前回の人称代
名詞での再帰用法です。古典ラテンではsuusが使われれば、所有者は主語があ
らわす人となります(主語とは別の所有者ならejusとなります)。
Praecepit ut se ad tumultum suum marmoneum ducerent.(彼は彼らに、自
分を自分の大理石の墓へと連れていくよう命じた)
*seもsuumもpraecipioの主語を表すのであって、duceoの主語を表すのではあ
りません。

ところが中世ラテン語では、この再帰用法は曖昧になっていき、再帰的ではない
ものにまでsuusが使われたりします。
Non est nostrum lacrimosis expendere verbis quid sibi in itinere contigerit.
(旅の途中で彼(≠主語)に起きたことを、わたしたちは涙なしには語れな
い)。
*本来ならこのsibiはeiであるはずのところです。

また、suusに代えてpropriusが使われるようにもなっていきます。
Domum proprium repedavit. (彼は自分の家に戻った)

このあたり、文法規則が変わっていく様を見ているかのようで、とても面白いで
すね。

(このコーナーは"Apprendre le latin medieval", Picard, 1996-99をベースに
しています)


------文献講読シリーズ-----------------------
プロクロス『神学提要』その12

今回は『原因論』の提題11(100から102節)と、それに対応するとされる
『提要』の提題172、174を見てみます。この対応関係は、『原因論』の羅独対
訳本("Das Buch von den Ursachen", Felix Meiner Verlag, 2003)から取って
います。いつものように原文は次のURLに挙げておきます。
http://www.medieviste.org/blog/archives/000598.html

# # #
『神学提要』:
(172) あらゆる知性は、永遠なるものに、また存在の存続を通じて不変である
ものに密接に関係している。
 不動なるものを原因として生じるものは、すべて存在において不変である。知
性は不動であり、あらゆる点で永遠であり、永遠のもとにとどまる。またそれが
もたらすものはすべて、その存在によってもたらされる。知性が永遠であり、変
わらないのであれば、それがもたらすものも変わらない。時に存在の、また時に
非存在の原因になるのではなく、つねに存在の原因であり続ける。

(174) あらゆる知性は、知解によって、それに続くものをもたらす。その創造
は知解にあり、知解は創造にある。
 知性の対象と知性とが同一で、それぞれの存在はおのれの中にある知解力と同
一であるならば、知性はその存在を通じて創造するものを創りあげ、存るものを
存在へと導く。また、知解を通じて、導かれるべきものを導くだろう。存在と知
解はともに一つであり、知性とその中にあるすべての存在とは同一である。知性
が存在を通じて創造するならば、存在は知解とイコールであり、知性は知解を通
じて創造する。
 知解力は、知解する中で現実態となる。知解力は存在と同一である。存在は創
造の中にある(不動のままに創るものは、つねに創造の中に存在を有してい
る)。そして知解力は創造の中にある。

『原因論』:
100 あらゆる知性は、破壊もされず時間の中にくだることもない、永遠の事物
を知解する。
101 つまり、知性が動きのない永遠なるものであるなら、それみずからが、破
壊も変化も被らず、生成と消滅に陥ることもない永遠の事象の原因をなしている
のである。そして知性は、おのれの存在によって事物を知解する以外になく、そ
の存在とは退廃にいたらない永遠なるものなのだ。
102 そうであるなら、破壊されうる事物(……)は身体性[corporeitas]から
生じていると言えるだろう。つまり時間の中の身体的[corporeus]原因によるの
であって、永遠の知解可能性を原因とするのではない。
# # #

一者による世界創造が一者の知性の作用によるものだという話を端的に表した箇
所です。知解(知的理解)というのは、本質を捉える(=創る)という知性の働
きということで、捉えられた本質も、それを捉える知性も、ともに不変・永遠の
相のもとにある、というわけです。

100節に提題172が、101節に提題174が対応するとされていますが、だいぶ趣
が違いますね(むろん、訳のせいもあるのですが……(苦笑))。提題172はそ
れ自体が、提題76(不変のものを原因とするものは不変)、提題169(知性は
永遠)、提題26(原因そのものの不変)などの言及から成り、提題174にも、
提題167(知性とその対象は同一)などが組み込まれてます。対応関係から外れ
る102にはcorporeitas(身体性)といった語が出てきますが、これは質料と同
じような意味で用いられているものと思われます。あえて身体性と言っているあ
たりに、あるいはアリストテレスの『霊魂論』あたりの残響を感じ取ることもで
きるのかもしれません。

こうしてみると、『提要』そのものが入れ子状といいますか、一種の相互参照系
のようにも見えてきます。あるいはそうした『提要』のもつ特徴から、『原因
論』の編集プロセスが導かれているのかもしれない、という気もしてきます。各
提題の重複部分を削除し、核心部分だけを取り出してみると、それらはいかにも
再編集可能なパーツであるかのように見えてきます。あとはそれをどう組み合わ
せてまとめなおすか、なのですが、そこにはおそらく、逸名の編纂者が抱く包括
的な思想、戦略、解釈が介在しているはずです。その意味では、『提要』もそう
ですが、『原因論』では個別のパッセージもさることながら、全体的な構成も等
しく重要になってきそうです。そのあたりも今後、参考書などを見つつ、形式と
内容の双方から考えみたいと思っています。


*本マガジンは隔週の発行です。次回は10月08日の予定です。

投稿者 Masaki : 2005年09月26日 07:43