2005年10月10日

No.66

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.66 2005/10/08

*今号は都合により、短縮版とさせていただきます。


------中世の古典語探訪「ラテン語編」------
第16回:関係詞

今回は関係詞を復習しておきましょう。関係詞というのは早い話、一語を節で
もって修飾する際に、その一語と節とをつなぐ役割をするものですね。ラテン語
でも多用されます。

基本は先行詞とよばれるその被修飾語と、性・数が一致することです。格は節の
中での働きに応じて変化します。puella quae venit(やって来る娘)という場
合、関係代名詞は女性・単数なので、quiやquodではなくquae、しかも修飾節の
主語になっていますから主格のquaeとなります。

先行詞が不特定なものを指す場合には、明示されません。qui bene amat bene
castigat(よく愛する者はよく罰する)という場合、不特定な先行詞としてisな
どが省略されていると考えてもよいでしょうし(is qui bene ...)、agit qod
cupit(彼はやりたいことをやる)という場合も、idなどが省略されていると見
なしていいでしょう(agit id quod ...)。

こうした代名詞が先行詞にくっついて、限定性を強める場合もあります。
terram quam a monachis acceperat(僧侶たちから受け取った土地)に対し
て、eam terram quam a monachis acceperat(僧侶たちから受け取ったその
土地)というと、まさにその土地、という感じで意味が強まります。

ラテン語では、関係詞を先行詞の前に置くこともできるのでした。Quas
scripsisti lietteras legi(あなたが書いた文字を私は読んだ)の場合、本来の語
順ならlegi litteras quas scripsistiとなるところです。さらに関係詞が前に出る
ことで、接続詞的な意味を担う場合があります。これも頻繁に目にするもので
す。
--- Ad te scripsi. Quas litteras non accepisti. (私はあなたに手紙を書いた。
けれどもあなたはその手紙を受け取らなかった)
--- Coenobium edicifavit, Quod hodie pene est destructum. (彼は修道院を
建てた。けれどもそれは、今やほとんど破壊されている)

また、-cumqueという接尾辞を関係詞につけると、「〜なものすべて」の意味
になります。quisquis、quidquid(quicquid)も同じ意味になります(こちらは
男性形と中性形のみ)。
--- Quicumque id fecerit anathema erit. (これをする者はみな、破門になるだ
ろう)
また、関係副詞にはubi、quo、unde、quaなどがあります。

(このコーナーは"Apprendre le latin medieval", Picard, 1996-99をベースに
しています)


------文献講読シリーズ-----------------------
プロクロス『神学提要』その13

今回は『提要』の提題103と、『原因論』の提題12(103節から108節)を見
てみましょう。例によって原文はこちらに掲げておきます。
http://www.medieviste.org/blog/archives/000607.html

# # #
『神学提要』:
(103)あらゆるものはあらゆるものの中に、それぞれに固有の形で存在する。
存在の中には生命と知性が在り、生命の中には存在と知性が在り、知性の中には
存在と生命が在る。ただし時には知性的に、時には生命的に、時には存在的に在
る。
 それぞれは原因により、または実体により、あるいは参与により在るのであ
り、それゆえ第一のものの中に、残りのものは(第一のものを)原因として在
る。第二のものにおいては、第一のものは参与の対象として、また第三のものは
(第二のものを)原因として在る。第三のものにおいては、それに先行するもの
は参与の対象として在る。存在の中に生命と知性はあらかじめ在るが、それぞれ
が特徴づけらるのは実体によってであり、原因(というのも原因は別様だから
だ)や参与(それが参与するものは別様に存在するからだ)によってではない。
ここでの生命と知性は、実体的生命、実体的知性として存在的に在る。生命の中
に存在は参与の対象として在り、知性は生命を原因として在る。ただしいずれも
生命的に存在する(この場合実体は生命のもとにあるからだ)。知性の中に生命
と存在は参与の対象としてあり、それぞれ知性的に存在する(知性にとっての存
在とは認識能力をいい、知性にとっての生命とは認識そのものをいうからだ)。

『原因論』
103 あらゆる第一のものは、そのうちの一つが他の中に在るような形で、他の
ものの中に在る。
104 それはつまり、生命と知性が存在の中に在り、存在と知性が生命の中に在
り、存在と生命が知性の中に在るからだ。
105 しかしながら、知性の中の存在と生命は二つの「アラキリ(alachili)」
つまり知性であり、生命の中の存在と知性は二つの生命、存在の中の知性と生命
は二つの存在をなしている。
106 このようであるのは、第一のもののうちの任意の一つは、原因か結果のい
ずれかだからにほかならない。結果は原因の中に、原因の形で在り、原因は結果
の中に、結果の形で在る。
107 われわれは簡潔に次のように述べよう。任意の事物に原因の形で働きかけ
る事物は、まさにそれが前者の原因であるという形でその前者の中に在る。ちょ
うど魂の中に感覚が霊魂的な形で在り、知性の中の魂が知性的な形で在り、存在
の中の知性が存在的な形で在り、知性の中の第一の存在が知性的な形で在り、魂
の中の知性が霊魂的な形で在り、感覚の中の魂が感覚的な形で在るように。
108 われわれは次のように結論づけよう。上に述べたことにもとづき、魂の中
の感覚、第一原因の中の知性は、それぞれの形で在る。
# # #

『原因論』の105節に出てくるalachiliは、アラビア語で「知性」を意味するal-
aqliだと思われます。アラビア語版の残滓がこんなところに見られるのですね。

今回はいきなり存在と生命と知性の話がでてきていますが、これらの概念はプロ
クロスの体系論に密接に関係しています。イタリアの研究者ダンコーナ・コスタ
の『原因論研究』("Recherches sur le Liber de causis", Vrin, 1995)の最初
の論考が、このあたりのことを実に端的に整理してくれています。プロティノス
の体系では、発出の関係は3つの項から成っていました。つまり一者、知性
(ヌース)、魂です。ところがプロクロスは、一から多が生じることになってし
まうというアポリア(同質のものからは同質のものしか生じない、とされるから
です)を解消するために、2番目の位相をさらに細かなレベルに分けるのでした
(このアイデアはイアンブリコスから継承したものとされます)。一者から直接
に知性が導かれるのではなく、そこに「真の存在」とか「実際的な存在(実
有)」とか言われるものが置かれる、と考えるのです。これはいわば知解可能な
ものということで、それを知解する知性に先行します。そしてこの知解可能なも
の(実有)と知性という二つの原理の関係が生命であるとされるのです。存在、
知性、生命は、このように体系の二つの位相とその相互の関係性に対応するもの
なのですね。提題103の内容は、実有を通して見れば、それを知解する当の知性
や、知性との関係性である生命もまた実有として捉えられ、知性から見れば、実
有(存在)もその関係性である生命も知性として捉えられ、生命から見る場合も
しかり、ということになります。

プロクロスのテキストがこうした体系に支えられているのに対し、『原因論』で
は存在・生命・知性の3項に言及したあと、すぐさまやや曖昧な比喩の形で魂・
感覚・知性の関係が引き合いに出され、いつの間にか、第一原因(一者)におけ
る知性と、魂における感覚がパラレルであるという話に「すり替わって」いま
す。なんだか奇妙な感じですね。

上のダンコーナ・コスタの論考の主要論点の一つは、『原因論』がプロクロスだ
けでなくプロティノスをも参照している、という議論です。内容的に、『原因
論』はプロクロスの体系をいわば簡略化していて、その結果プロクロスよりもプ
ロティノスの体系に近づいていると指摘されます。プロクロスの場合には知性と
実有は同時に存在してはいてもイコールにはならないのに対して、『原因論』で
は知性と実有は単一・同一の現実をなしている、というわけです。また実際に、
プロティノスのアラビア語に翻訳された版との類似性は31の全提題のうち14に
散見されるといいます。

こうした点も念頭に今回の箇所を見直してみると、確かに『原因論』のほうで
は、第一のもの(一者・第一原理)において知性・生命・存在が一体になってい
ることが強調され、『提要』にあった原因・実体・参与という3つの「在り方」
は省かれて、すべてが原因と結果の関係に集約されてしまっています。こうし
て、第一のものは知性を導き、魂は感覚を導くという話へと横滑りしていくわけ
ですね。魂の中に感覚が霊魂的な形で在る、というあたり、確かにプロティノス
的な感じもします(とはいえ引用というわけでもないようですが)。少なくと
も、ベースになっている体系的な考え方が異なっていることがおぼろげながら感
じ取れます。

影響関係・引用関係の実証的な議論には今のところとうてい深い入りできませ
ん。とはいえ、『原因論』がプロクロスのテキストからどう逸脱しているかとい
う問題は、なかなか面白い部分です。このあたり、次回も引き続き検討してみた
いと思います。


*本マガジンは隔週の発行です。次回は10月22日の予定です。

投稿者 Masaki : 2005年10月10日 22:14