2005年12月04日

No. 70

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
silva speculationis       思索の森
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.70 2005/12/03

------新刊情報-------------------------
早いもので今年ももう師走です。今年の秋は中世関係の書籍はいつになく不作な
感じでしたが、それでもぼちぼちと出ています。年末年始に見てみたいところで
すね。

『中世のドイツ カール大帝からルターまで』
ハインツ・トーマス著、三佐川・山田訳、創文社
ISBN 4423460610、8925yen

紹介文によると、「ドイツ」という名がアルプス以南に発する他称で、長い文化
接触の末に受容されていったものだということを論じた画期的な一冊なのだそう
です。ドイツのアイデンティティ形成を中世にまで遡って論じているようで、な
るほど確かに東フランク王国以来のドイツは、ローマ帝国に固執していくのでし
た。そのあたりの政治意識というのはとても面白い問題ですね。

『西洋中世世界の発展』(岩波全書セレクション)
今野國雄著、岩波書店
ISBN 4000218743、2835yen
『西洋中世世界の崩壊』(岩波全書セレクション)
堀水庸三著、岩波書店
ISBN 4000218751、2835yen

この2冊は岩波全書の復刊。前者は10から13世紀、後者は14、15世紀を中心と
して中世世界の概観をまとめたもので、すでに堂々たる古典という感じです。

『西洋中世学入門』
高山博・池上俊一編、東京大学出版会
ISBN 4130220195、3990

史料の読み方、活用の仕方などを網羅的にまとめた手引き書のようです。古書体
学や度量学、印章学、図像学などが目白押し。これは押さえておくべき、また活
用できそうな一冊です。しかも結構廉価なのが嬉しいですね。


------中世の古典語探訪「ラテン語編」------
第20回:奪格の用法(2)

前回に引き続き奪格の用法をまとめましょう。起点を表す本来の用法のほか、奪
格には手段の奪格と場所の奪格があるのでした。

手段の奪格というのは、読んで字のごとく手段(広義の)を表します。道具の意
味もあれば、単なる付帯状況の意味もあり、「〜で」「〜とともに」という意味
になります。基本的に、cumなどの前置詞とともに用いられます。
- glaudio occisus est. (彼は刃で殺された)
- cum esiscopo venit. (彼は司教とともにやって来た)

単純に付帯状況を表す場合、名詞だけなら必ずcumをつけますが、形容詞などで
限定されている場合にはcumはつけてもつけなくてもよいというルールがありま
す。
- cum ira(怒って)→ cumは必須。
- cum magna voluptate (大きな喜びとともに)→ magna voluptateだけで
も可。

単純に様態を表す用法もあります。余談ですが、様態を説明する際の時制は、ラ
テン語の場合完了形を使うのですね(フランス語なら半過去にするところで
す)。
- copore fuit amplo atque robusto... (彼は大きく強壮な体つきだった)

さらに経過した時間を表す用法もあります。
- Henricus septem annis Italiam devicit. (ヘンリクスは7年かけてイタリアを
征服した)

一方、場所の奪格は起点以外の場所を表し、inなどの前置詞を伴います(動作が
なされる場所を表します)。古典ラテン語では都市名などにはinがつきません
が、中世ラテン語ではinが多用されるようになります。
- in Alexandria moratus est. (彼はアレクサンドリアにとどまった)

また、これに関連して日時を表す用法もあります。正確な日時を示す場合には前
置詞をつけませんが、そうでない場合にはinが付きます。
- exeo tertia hora(私は3時に出かける)
- In illo tempore (その当時)

(このコーナーは"Apprendre le latin medieval", Picard, 1996-99をベースに
しています)


------文献講読シリーズ-----------------------
プロクロス『神学提要』その17

今回は『神学提要』の提題47を見ておきます。47と48は、対応する『原因論』
では順番が逆になっています。原文は以下に掲げておきます(今回と次回は都合
により『原因論』の訳出は割愛します。ご了承ください)。
http://www.medieviste.org/blog/archives/000654.html

# # # #
『神学提要』
(47)自立するすべてのものは、部分をもたず単一である。
 自立しながらも部分をもつのであれば、みずからが部分を支えることになり、
その全体をみずからに向かわせることになって、あらゆるものがみなあらゆるも
のの中にあることになってしまう。これはあり得ない。したがって自立するもの
は部分をもたない。
 だがそれは単一でもある。もしそれが複合的であるならば、それには劣るもの
と優れたものがあることになり、優れたものは劣ったものから、また劣ったもの
は優れたものから生じることになって、全体が全体以前に存在することになる。
これではみずから生成したことにならず、要素となるものが先行しそれが支えを
なすことになってしまう。ゆえに自立するものはすべて単一なのである。
# # # #

訳は割愛してしまいましたが、これに対応する『原因論』の194節から198節に
ついても簡単に述べておくと、対応しているのは194節から196節までで(それ
ぞれ、提題と本文の2つに対応しています)、197節に補足があり(「部分があ
れば自立していない、単一ではない」)、198節で再び冒頭の提題(lemma)
を繰り返して結論としています。

実はこの、提題(lemma)があってそれに解説を本文として付けるという形式
は、『原因論』の中世での受容に大きな影響を与えたらしいのです。以前言及し
たダンコーナ・コスタの論集の収録論文によると、『原因論』への注解を早くに
(と言っても13世紀半ばですが)記している人物にロジャー・ベーコンがいる
のですが、彼はこの提題と本文の作者は別人だと考えていました。そして提題の
方の作者はアリストテレスだと考えていたのです。こうした見方は『原因論』の
ラテン世界への流入時からあったもののようですが、とりわけベーコンの表明は
その後の注解に影響を及ぼし、ガンのヘンリクスやボクフェルトのアダムスな
ど、多くの注解者がそうした考え方を踏襲していきます。多少なりとも異彩を放
つアルベルトゥス・マグヌスは、『原因論』とアラビア哲学との親近性を見、本
文はユダヤ人哲学者が独自の見解を添えて記したものだという説を唱えますが、
やはり同じ思考の枠組みを継承しているようです。

そんな中、現代の観点からしても最も的確な解釈をしていたのがトマス・アクィ
ナスでした。トマスはプロクロスの『神学提要』と『原因論』の関連を踏まえ、
アリストテレス寄りの批判的観点でプロクロスを検討します。そしてその一方
で、『原因論』がプロクロスに対してもつ相違点と、偽ディオニュシオス・アレ
オパギタの文書に対してもつ類縁性について鋭い洞察を巡らしていくのですね。
プロクロスがそのコスモロジーにおいて設けている精緻で細かな階層が、『原因
論』ではディオニュシオスを通じて「修正」されている(一神教的に縮約されて
いるわけです)、というのがトマスの認識だったようです。このあたり、トマス
の慧眼を改めて思い知らされます。前々回に触れたブラバントのシゲルスなど
も、トマスの注釈を下敷きにしているといいます。アリストテレス作ではないか
という錯誤のせいで、『原因論』は当時の最良の知性がこぞって注解に取り組ん
だ一冊だったわけですが、このようにトマス以前と以後とでは、その受容にも大
きな断絶が生じているのですね。

さて足早につまみ食いしてきた『神学提要』と『原因論』ですが、次回でとりあ
えずの区切りにしたいと思います。次回は『提要』の提題48を見て、さらにア
ラブ世界での受容と『原因論』の成立についてごく基本的なことを整理しておく
ことにします。お楽しみに。


*本マガジンは隔週の発行です。次回は12月17日の予定です。
------------------------------------------------
(C) Medieviste.org(M.Shimazaki)
http://www.medieviste.org/
------------------------------------------------

投稿者 Masaki : 2005年12月04日 08:54