2006年07月24日

No. 85

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.85 2006/07/22

*夏休みのお知らせ
本マガジンは隔週の発行ですが、夏休みのため次号は8月26日の発行となりま
す。どうぞよろしくお願いします。

------クロスオーバー-------------------------
研究書の付録のたのしみ

広い意味での研究書(校注本や原典翻訳なども含む)は諸外国でも基本的に高価
な場合が多いですね。ですから、たとえ隅から隅まで読むというわけではなくて
も、やはり二重三重に役立てたいと思うのは人情というもの。そういう意味でも
注目されるのが、本文以外の付録部分です。時にはそれだけで書籍の半分近くを
占めるような場合もありますし、それが当の書籍購入の基本動機になることすら
ないとはいえません。

たとえばラテン語訳アヴィセンナの校注本の1つ『霊魂論』4〜5巻("Liber de
anima seu Sextus de Naturalibus IV-V", Louvain, Editions orientalistes,
1968)の巻末には、アラビア語とラテン語の詳細な語彙表が付いています。こ
れはちょっとした辞書として引けます。アラビア語とギリシア語の語彙集なら、
亜英対訳版のアヴェロエスの『アリストテレス「霊魂論」中注解』("Middle
Commentary on Aristotle's De Anima", Brigham Young University Press,
2002)
の巻末のものがなかなか便利です。

そればかりではありません。アヴィセンナつながりで言うと(笑)、ダク・ニコ
ラウス・ハッセの『ラテン西洋におけるアヴィセンナの「霊魂論」』(D.N.
Hasse, "Avicenna's De Anima in the Latin West", Warburg Institute, Nino
Aragno Editore, 2000)
という本の巻末のインデクスは、同書での「霊魂論」
(アヴィセンナ)の引用箇所のものなのですが、それに中世の西洋ラテン世界の
著者たちがその同じ引用を参照しているリストまで付いています。ここまでやる
とは、というくらい素晴らしいリストになっています。こういう語彙集やインデ
クスは、実はただ眺めていても結構面白いですね。国内の書籍でも、たとえば
オッカムの研究書である渋谷克美『オッカム哲学の基底』(知泉書館、2006)
などは、本論に関連したオッカムやスコトゥスのテキストを、巻末に羅日対訳で
収め、注までつけています(羅仏対訳本って、もっとあってもいい気がしま
す)。

これらの巻末の付録がそれだけでも興味深いのは、まずもって研究対象に対する
著者(および編集者)の並々ならぬ思いが伝わってくるような気がするからで
す。今世界的に、人文系を中心として出版業がじり貧になってきているというよ
うな話を、最近業界の関係者に改めて伺ったのですが、いわば安普請な出版とな
ると真っ先になくなるのが、語彙集やインデクスといった巻末付録のような気が
します。出版のそうした流れはなかなか変わらないでしょうけれど、なんらかの
歯止めがかかってほしいものです。願わくば、国内・国外のいずれにおいても、
良質な書籍が消えることのないよう、そして巻末の付録にもさらに磨きがかかる
ように。


------短期連載シリーズ------------------------
ピエール・アド「プロティノス論」から(その2)

ポルピュリオスの「プロティノス伝」は、次のような一文から始まります。「私
たちと同時代に生まれた哲学者プロティノスは、肉体に存在していることを恥じ
ているように思えた」。さらに続くのはその「奇人ぶり」です。出自を明かすこ
とを頑なに拒み、肖像すら作らせなかったといいます。また結腸の病気がありな
がら治療を拒んだりもしていたのですね。さらにその禁欲ぶりなどに触れた箇所
もあり、そこから描き出される人物像は、アドの表現を借りれば「永続的な緊張
状態、苦しみの中で生き、病気を人間の正常な状態と考えた」人という感じに
なってしまいます。

ところがアドは、自著のプロティノス論("Plotin ou la simplicite du regard")
の、とくに第6章を通じて、プロティノスのテキストそのものや歴史的状況など
をもとに、そうしたプロティノス像に反論を加えていきます。これがたとえばプ
ロティノスの草食主義は、実はピュタゴラス派以来の伝統としてあり、禁欲とい
うよりは身体へのケアによるものだったと言います。病気についても、それ自体
を求めていたのではなく、身体的活力が過剰だと、かえって魂の均衡を乱してし
まうという考えにもとづいていたとされます。苦しみについても、それを求めて
いたのではなく、ストア派の「プレメディテーション」(苦痛を先取りすること
でよりよく耐えるという技法」にすぎないのだと考えています。

いきおい、そこで浮かび上がる人物像は、純真で、度量が広く、好意的で、シン
パシーをもった人ということになります。そもそも、当時の哲学者というのは哲
学教師というよりは精神的指導者だったというのがアドの基本的テーゼですか
ら、奇人であるよりもそういう人物像でなければ、弟子が慕わないはずだ、とい
う推論も背景にはあるのかもしれません。いずれにせよ、この二つの見方、どち
らに軍配を挙げたらよいでしょう?アドのこの本を読む限りでは、アドのテーゼ
はかなり説得力があるようにも見えるのですが、「エンネアデス」の晦渋なテキ
ストを見ると、また違った印象を受けてしまいます(「プロティノス伝」には、
その文書があくまで弟子たちのために書かたものだ、ということを示唆する箇所
もあるのですが)。これは困った……というか、一種の知的緊張を強いられる思
いがします。検証のためには、「プロティノス伝」や「エンネアデス」に戻らな
いわけにいきません。で、その際、そのテキストから何を読み取るのか、という
問題をアドは間接的に突きつけているとも言えそうです。「エンネアデス」を、
もはや漠然とは読めなくなってしまう……それはすでにしてアドの術策の中にあ
るということかもしれません。
(続く)


------文献講読シリーズ-----------------------
グイド・ダレッツォ『ミクロログス』その13

今回は9章と10章を一気に見ていきましょう。

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Capitulum IX
Item de similitudine vocum quarum diapason sola perfecta est

Supradictae autem voces prout similes sunt, utpote aliae in depositione,
aliae in elevatione, aliae in utroque, ita similes faciunt neumas adeo ut
unius tibi cognitio alteram pandat. In quibus vero nulla similitudo monstrata
est vel quae diversorum modorum sunt, altera alterius neumam
cantumque non recipit; quod si compellas recipere, transformabit.
Utpote si quis vellet antiphonam cuius principium esset in .D., in .E. vel in .
F., quae sunt alterius modi voces, incipere, mox auditu perciperet quanta
diversitatis transformatio fieret. In .D. vero et .a. quae unius sunt modi,
saepissime possumus eundem cantum incipere vel finire. Saepissime
autem dixi et non semper, quia similitudo nisi in diapason perfecta non est.
Ubi enim diversa est tonorum semitoniorumque positio, fiat necesse est et
neumarum. In praedictis namque vocibus et quae unius modi dicuntur,
dissimiles inveniuntur; .D. enim deponitur tono, .a. vero ditono; sic et in
reliquis.

9章
音の類似性、ディアパソンのみが完全に類似すること

上で述べた音はかように類似する。すなわち、あるものは上昇で、あるものは下
降で、またあるものは両方で。それらの類似する音が旋律(ネウマ)をなすので
あり、一つが理解できれば、ほかも理解できるようになる。逆にまったく類似性
が示されない場合や、旋法が異なる場合には、ほかの旋律や曲を受け入れること
はできない。仮に受け入れを強要すれば、変形が生じてしまうだろう。
例えばアンティフォナの始まりをD、E、Fなど、異なる旋法の音で始めたいと思
う場合、どれほどの変形が生じたかは、相違から聴覚的に即座にわかるだろう。
逆に多くの場合、同じ曲は、例えば同じ旋法に属するDとaのどちらで始めるこ
とも終えることもできる。ここで「常に」ではなく「多くの場合」と言ったの
は、ディアパソン以外、類似は完全ではないからだ。
トヌスやセミトヌスの位置が多様である場合、旋律(ネウマ)も多様にならざる
をえない。先に示した、同じ旋法に属するとされる音も、類似しない場合が生じ
ることがあるのだ。Dからはトヌス分下がり、aからはディトヌス分下がるなど
の場合である。他の場合も同様である。

Capitulum X
Item de modis et falsi meli agnitione et correctione

Hi sunt quattuor modi vel tropi, quos abusive tonos nominant, qui sic sunt
ab invicem naturali diversitate disiuncti, ut alter alteri in sua sede locum
non tribuat, alterque alterius neumam aut transformet aut numquam
recipiat.
Dissonantia quoque per falsitatem ita in canendo subrepit, cum aut de bene
dimensis vocibus parum quid demunt gravantes, vel adiiciunt intendentes,
quod pravae voces hominum faciunt; aut cum ad praedictam rationem plus
iusto intendentes vel remittentes, neumam cuiuslibet modi aut in alium
modum pervertimus, aut in loco qui vocem non recipit, inchoamus.
Quod ut exemplo pateat, in Communione Diffusa est gratia, multi
propterea, quod erat incipiendum in .F. uno tono deponunt cum ante .F.
tonus non sit; sicque fit ut finis Communionis eiusdem ibidem veniat ubi
nulla vox est. Cantoris itaque peritiae esse debet quo loco vel modo
quamlibet neumam incipiat, ut ei vel si motione opus est, affines voces
inquirat. Hos autem modos vel tropos graece nominamus protum,
deuterum, tritum, tetrardum.

10章
再び旋法について、および曲の誤りの見分け方と修正方法

4つの旋法またはトロープスは、誤用によりトヌスと言われたりもする。それら
は本質的な違いによって互いに区別され、一つの旋法が占める場所をもう一つの
旋法に譲ることはできないし、一つの旋法がもう一つの旋法による旋律を変形し
たり、受け入れたりすることも一切ない。
不協和もまた、誤って歌う場合に侵入する。下降に際して正しい音の位置からわ
ずかでも省いてしまったり、上昇に際して付け加えてしまったりする場合、人の
発する音は正しくなくなってしまう。また、先に述べた原理に対して過度に上昇
または下降したりすれば、任意の旋法の旋律を、別の旋法へと歪めてしまうか、
あるいはまた、音が対応しない位置で始めてしまうことになる。
例を挙げるなら、聖体拝領誦「Diffusa est gratia」の祈りにおいて、
「propterea」のくだりはFで始めるべきところなのだが、多くの人はトノス1つ
分下降する。ところがFの前にトノスの開きはない。そのためこの聖体拝領誦の
終わりでは、対応する音のないところにまで到達してしまう。以上のことから、
歌い手は、旋律がどの位置で、あるいはどの旋法で始まるのかを熟知し、移調を
余儀なくされる場合でも、類似性のある音を探せるようにしなければならない。
それら旋法ないしトロープスを、私たちはギリシア名でプロトゥス、デウテル
ス、トリトゥス、テタルドゥスと呼ぶ。
# # #

今回の箇所もこれまでの続きになっています。「ネウマ」はここでは完全に旋律
の意味になっていると思われます。ここしばらくテクニカルな話になっているの
で多少ややこしい感じもしますが、要するに移調をめぐる話だと理解すればそれ
ほど面倒な内容でもありません。

10章の後半に聖体拝領誦「diffusa est gratia(恩寵が分け与えられた)」とい
うのが出てきますが、これは「御身が唇には慈しみが置かれぬ」などと訳されて
いるようです。「Diffusa est gratia in labilis tuis, propterea benedixit te Deus
in aeternum」という歌詞で、16世紀のウィリアム・バードがこの歌詞に作曲し
たものがとりわけ有名ですが、グイドの時代のものを復元した楽譜もあるようで
(モンペリエ写本)、仏語訳に再録されています(ここでは割愛します)。ま
た、旋法名はそれぞれギリシア語の序数をとったもので、第一、第二、第三、第
四旋法となり、それぞれレ、ミ、ファ、ソが終止音となります。

こういった話はまだ次の章にも続いていきます。今回は時間の関係でできません
でしたが、次回あたりには、また少し思想史的な脱線もしたいと思います。


*本マガジンは隔週の発行です。次回は8月26日の予定です。

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投稿者 Masaki : 2006年07月24日 13:00