2006年07月10日

No. 84

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.84 2006/07/08

------新刊情報--------------------------------
ちょっと取り上げるのを忘れてしまいましたが、平凡社ライブラリーでヤコブ
ス・デ・ヴォラギネの『黄金伝説』が上下巻で出ました。中世のいわばベストセ
ラーの一つです。またこの夏は、同じく中世のベストセラー、トマス・ア・ケン
ピスの『キリストにならいて』も岩波文庫版が重版となるようです。さらにアウ
グスティヌス『告白』も、岩波文庫のワイド版で上下巻で出るようですね。で
は、最近のほかの書籍もリストアップしておきましょう。

『色で読むヨーロッパ』
徳井淑子著、講談社選書メチエ
ISBN:406258364X、1,785yen

中世後期を中心とした、色彩にまつわる生活史のようです。色彩の意味論はとて
も重要なテーマです。類書といってよいのかどうかわかりませんが、ミシェル・
パストゥロー『青の歴史』(筑摩書房)などもありますね。

『中世の身体』
ジャック・ル・ゴフ著、池田健二・菅沼潤訳、藤原書店
ISBN:4894345218、3,360yen

大御所ル・ゴフの最新の邦訳。原書は2003年に出た"Une histore du corps au
Moyen Age"です。西欧史の中で忘れられた存在だった身体にスポットを当て、
苦行僧、異教世界、聖ルイ、衣服のモード、スポーツ、宮廷風恋愛などなど、
様々な事象を身体の面から論じているようです。余談ですが、前に取り上げた
ピーター・ブラウンは、ル・ゴフの『煉獄の誕生』を批判しています。ル・ゴフ
が中世盛期とした煉獄概念の萌芽は、もっと古い7世紀くらいの彼岸概念の変化
に求められるべきだというのですね。うーん、中世史は一筋縄ではいかないなあ
ということを、改めて思わせてくれます。

『神秘と詩の思想家メヴラーナ−−トルコ・イスラームの心と愛』
エミネ・イェニテルズィ著、西田今日子訳、丸善
ISBN:4901689525、3,150yen

これ、まったく知らなかったのですが、メヴラーナというのは中世のイスラム
(ペルシア)詩人・神秘思想家ルーミー(1207〜73)のことなのだそうです。
シリアで学問的研鑽を積み、その後37才にして托鉢僧に弟子入りして神秘主義
を体得、メヴレヴィ教団という一派を創始したという人物で、『精神的マスナ
ヴィー』という長大な詩集を残しているということです。散文作品の『ルーミー
語録』は井筒俊彦訳で中央公論社から出ていたようなのですが、現在は品切れと
か。本作も貴重な研究書だと思われます。

『ジャンキンの悪妻の書−−中世のアンティフェミニズム文学伝統』
ウォルター・マップほか著、瀬谷幸男訳、南雲堂フェニックス
ISBN:4888963746、3,465yen

中世にある種の女性蔑視の考え方が息づいていたことは周知の事実ですが、具体
的にそれがどういう形をとって表現されていたかというのは案外知られていない
と思います。その意味では、ウォルター・マップ(12世紀の歴史家)、テオフ
ラストゥス(前3世紀)、聖ヒエロニムス(4世紀)のテキストを集めた同書
は、その女性蔑視の伝統がどのようなものだったのか、何が忌み嫌われていたの
かを捉え直す格好の一冊でしょう。同時に、それがどう薄められていくか、とい
う問題も探ってみたいところですね。


------短期連載シリーズ------------------------
ピエール・アドのプロティノス論から(その1)

唐突ですが、短期連載シリーズというのを始めてみたいと思います。もっぱら参
考文献の一部分をまとめながら、3〜4回程度にわけて要点や問題点を見ていく
というシリーズにしたいと考えています。今回取り上げるのは、フランスの古代
思想史家ピエール・アドのプロティノス論の一部です。中世と直接関係するもの
ではありませんが、プロティノス思想は中世の思想を読む上で意外に重要です
し、なによりアドのその手法が面白いので、ちょっと取り上げてみたいと思いま
す。

アドの基本的な考え方は、古代の哲学の学派というのがまるで宗教の教団にも比
されるもので、学派に入るということは、生活習慣から思考の方法まで、そのス
タイルをすべて変えてしまうことになる、というものです。この説に従う場合、
現代の私たちがそうした古代思想を理解しようとする際にも、もちろんその思想
内容の体系的理解も大事ですが、その思想が導く生活実践的な側面、その姿勢に
まつわる部分もまた、同様に重要だということになります。テキストそのものだ
けでなく、周辺情報をも丹念に読み込み、一種の「追体験」を模索していかなく
てはならない、というわけです。

アドの著作『プロティノス、またはまなざしの純真さ』("Plotin ou la
simplicite du regard", Folio essais, Gallimard, 1997)の場合にもそうした立
場が生きています。『エンネアデス』で展開されるプロティノス思想は、新プラ
トン主義の一種総覧のような趣がありますが、アドはこれを読み解きながら、そ
の体系ではなく、思惟の実践的部分の核心を浮かび上がらせようとします。たと
えば、外部世界の知覚をめぐる問題があります。アドは、プロティノスの思想体
系の中に視覚の問題を位置づけるのではなく、次のような実践へと目を向けてい
きます。

プロティノスが推奨する感覚世界との接し方は、「肉眼による視覚を、精神の眼
による視覚で延長する」というものだといいます。感覚世界の先に、形相の(イ
デーの)直接的な意味を求めるというこのスタンスを取ると、プラトンとは逆
に、感覚世界と形相世界との間は一続きだ、ということになります。この形相世
界について、プロティノスはそれをエジプトの表意文字にたとえていて、それ自
体が見たままに直接意味を与えるもの、としています。そしてその直接的意味に
触れることが、観想とという営為にほかならない、とされるのです。形相を織り
なしているのは形相みずからの生命であり、観想はそうした生命との合一にほか
ならない、とも言われます。

弟子のポルピュリオスは『プロティノス伝』の中で、やはり弟子で信心深いアメ
リオスが師匠のプロティノスに「神殿に行きましょう」と言ったところ、プロ
ティノスは、「私が神々のところに行くのではなく、神々が私のところに来るべ
きだ」(ekeinous dei pros eme erxesthai, ouk eme pros ekeines)と述べた、
という話を記しています(10章35〜36)。弟子たちはプロティノスの涜神的な
思想にとまどっているようなのですが、アドはこの部分を取り上げ、プロティノ
スが考えていたであろう意味、すなわち、神殿に行くのではなく、おのれが神殿
にならなくてはならない(内的な観想という営為によって)という意味を引き出
しています。観想による神的なものへの合一は、そのまま死生観をも規定してい
くことになります。

アドによると、近代の思想(ゲーテの言う「根源現象」、ベルクソンの「直接的
なもの」など)も、形相をつかさどる生命というプロティノス思想から着想を得
ているといいます。上の涜神的な物言いなどからは、現代思想(アガンベンの
「涜神」)に通じるものすら引き出せそうな感じもします。人間の限定的な理性
を批判的に捉えるという意味で、プロティノスはもしかすると、今なお「新し
い」と言えるかもしれません。
(続く)

------文献講読シリーズ-----------------------
グイド・ダレッツォ『ミクロログス』その12

今回は8章の残りの部分です。さっそく見ていきましょう。

# # #
In eodem vero cantu maxime .b. molli utimur, in quo .F.f. amplius
continuatur gravis vel acuta, ubi et quandam confusionem et
transformationem videtur facere, ut .G. sonet protum, .a. deuterum, cum
ipsa .b. sonet tritum. Unde eius a multis nec mentio facta est; altera vero .
[sqb]. in commune placuit. Quod si ipsam .b. mollem vis omnino non
habere, neumas in quibus ipsa est, ita tempera, ut pro .F.G.a. et ipsa .b.
habeas .G.a.[sqb].c.; aut si talis est neuma, quae post .D.E.F. in elevatione
vult duos tonos et semitonium, quod ipsa .b. facit, aut post .D.E.F. in
depositione vult duos tonos, pro .D.E.F. assume .a.[sqb].c. quae eiusdem
sunt modi et praedictas depositiones et elevationes regulariter habent.
Huiusmodi enim elevationes et depositiones inter .D.E.F. et .a.[sqb].c. clare
discernens confusionem maxime contrariam tollit.

とはいえ、同じ歌において、Fとfが低音ないし高音で多く含まれる場合、私たち
はb mollを多用する。そういう場合、なにがしかの混乱が生じ、変換がなされる
ように思われる。Gをプロトゥス(第一旋法:D)、aをデウテルス(第二旋法:
E)、bをトリトゥス(第三旋法:F)としたりするのである。そのため、多くの
書ではbについての言及がなかったりする。もう一つの#については一般に認め
られている。b mollをいっさい使いたくない場合、それがある場所の旋律を次の
ように変えればよい。たとえばFGabなら、代わりにGa#cとするのである。ある
いはまた、DEFからトノス2つとセミトノス1つ分上昇する旋律になっている場
合−−bのせいでそうなる−−、もしくはDEFからトノス2つ分下降するような場
合、DEFの代わりに同じ旋法のa#cを用い、先に述べた正規の下降・上昇となる
ようにする。このように、DEFとa#cの間の上昇・下降を明確に区別すると、害
をなす混乱を最大限取り除くことができる。

De similitudine vocum pauca perstrinximus, quia quantum in diversis rebus
similitudo conquiritur, tantum ipsa diversitas, per quam mens confusa
diutius poterat laborare, minuitur; semper enim adunata divisis facilius
capiuntur.

Omnes itaque modi distinctionesque modorum his tribus aptantur vocibus.
Distinctiones autem dico eas, quae a plerisque differentiae vocantur.
Differentia autem idcirco dicitur, eoquod discernat seu separet plagas ab
autentis, caeterum abusive dicitur. Ergo omnes aliae voces cum his
aliquam habent concordiam, seu in depositione seu in elevatione, nullae
vero in utroque se exhibent similes cum aliis, nisi in diapason. Sed horum
similitudinem omnium in hac figura quam subiecimus, quisquis requisierit,
reperire poterit.

音の類似性については手短に示したが、それはつまり、様々な事例に類似性を探
し出すと、精神を長く混乱に陥れる多様性は、それだけ少なくなるからである。
分かれているものよりも統一されたもののほうが、つねに把握は容易である。

すべての旋法、および旋法間の区別は、このように3つの音に関係している。私
は区別という言葉で、多くの人が差異と呼んでいるものを指している。差異とい
う言葉は、正格(正規のもの)から異なる、もしくは分かれる場合をいい、それ
以外は濫用である。以上のように、下降か上昇かにおいて、ほかのすべての音は
これらと何らかの形で協和するが、ディアパソン以外、ほかと類似する音はな
い。すべての音の類似を知りたい場合には、以下に示した図を参照してほしい。
# # #

図についてはこちらをご覧下さい。http://www.music.indiana.edu/tml/9th-
11th/GUIMICR_01GF.gif
の上から3番目の図です。

b mollが相当するのはシの音となります(ファと協和します)。b mollの混乱を
さけるために、G、a、bが、同じ「全・全・半」の旋法であるD、E、F(レ、
ミ、ファ)に置き換えられるのですね。また、D、E、Fを起点の音列として、こ
こから上昇・下降し、bもしくはBに行くという場合、起点をa、#、c(ラ、シ、
ド)に変えて、半音部分がファにかかるようにする、といった処理を行うという
わけです。

仏語版・伊語版の注にあるのですが、グイドから1世紀後の13世紀にシトー会が
行った音楽的革新というのが、このb mollの表記を避けることにあったのだとい
います。たとえば「レ・ラ・シ(b moll)」という音列なら、これを「ラ・ミ・
ファ」に置き換え、とにかく半音の開きがすべてミ・ファに来るようにしたので
すね。必ずしもグイドの示す工夫を厳密に適用したものではなかったようです
が、それにしてもその影響関係はほぼ確実だとのことで、グイドの名は逸名著者
によるシトー会の音楽論にも言及されているようです。


*本マガジンは隔週の発行です。次回は7月22日の予定です。

投稿者 Masaki : 2006年07月10日 10:06