2006年06月26日

No. 83

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.83 2006/06/24


------クロスオーバー--------------------------------
ヨアキムの革新性

現ローマ法王のラッツィンガーが若い時分に記した興味深い論考に、『聖ボナ
ヴェントゥラの歴史神学』("Die Geschichtstheologie des Heiligen
Bonaventura", 1959)
という一冊があります。ボナヴェントゥラの「天地創造
詳述(collationes in hexaemeron)」という文書をもとに、その神学的な歴史
観(とりわけ当時の教会の位置づけとその未来について)を論じていくというも
のなのですが、その中で、ボナヴェントゥラによる時代区分について論じた箇所
があります。前提として紹介されている中世の伝統的時代区分には、アウグス
ティヌスに代表される、アダムからキリストまでの7分割(6分割)、大グレゴ
リウスによる5分割、そして3つの大区分(旧約、新約、それ以後)にそれぞれ
7、5、3という小区分を対応させるものなどがあったといいます。

で、ボナヴェントゥラはというと、それら伝統のものとは違う区分を提示してい
るのですね。当時のフランシスコ会がよく取り上げていた、フィオーレのヨアキ
ム(12世紀)のかなり独特な考え方に準拠したものだといいます。これは要す
るに、新約と旧約との間に厳密な照応関係を見るという立場から発したもので、
旧約と新約のそれぞれを7区分とするという考え方なのでした(さらにそれ以後
の歴史も7区分で考えます)。アウグスティヌスの7分割(6分割)を始め、伝統
の区分では、旧約にあてがわれる時代区分が長くなってしまうのに対し、その新
しい考え方は、新約の比重を大きくするという意味があったようです。

伝統が重んじられる社会にあって、フィオーレのヨアキムは、いわばそこにある
種の革新性を持ち込んだとも言えそうです。ヨアキムそれまで新約聖書は旧約聖
書を解明するものだとされていたところに、いきなり、両者は人物配置や出来事
において根本的に合致しているのだ、という見解を打ち出したのでした。この考
えは当時としてはかなり斬新なものだったようです。ヨアキムの有名な「黙示録
注解」にも、そうしたスタンスは生きているといいます。ヴィジョンごとの解釈
を配するのが常だったそれまでの伝統的な黙示録解釈に対し、ヨアキムは黙示録
をまるごと教会の歴史(過去と未来を含む)を統合したものとして読み解くので
すね。ラッツィンガーによると、ボナヴェントゥラの歴史神学もまた、そうした
動きに呼応したものだといいます。

となると、ヨアキムのそうした革新的な考えがどこから生じたのか、というとて
も興味深い問題が出てきます。12世紀は思想も社会も大きな変化を遂げる時代
で(米国の歴史学者ハスキンズが12世紀ルネサンスと呼んだように)、たとえ
ば聖書の注釈方法一つとってみても新しい動きが生じてきたのだと言われます。
幻視体験など、どちらかといえば個人的な文脈で捉えられることの多い(?)ヨ
アキムですが、思想というものがいずれにしても時代を、社会を反映するのだと
すれば、そうした社会全体の動きの、いわば結晶体として捉え返してみたい誘惑
に駆られます。思想と社会とのダイナミックな関係を示す一例としても、かなり
面白い探求になるのではないかと思います。


------中世の古典語探訪「ラテン語編」------
(Based on "Apprendre le latin medieval", Picard, 1996-99

第33回(最終回):間接話法その2

前回は間接疑問文でしたが、今度は一般的な間接話法です。ポイントは、動詞が
接続法(もしくは不定法)になることと、時制の一致を守ることでした(とはい
え中世ラテン語では、このあたり、かなり緩くなっているのですけれどね)。

この連載のベースとしてきた『中世ラテン語を学ぶ』から、例文を再録しておき
ましょう。

(...) exponunt tragoediam, dicendo se quaquaversum impeti atque
inquietari pene cotidianis (...) utopote in trium regnorum constitutos
confinis, in imperii sui videlicet finibus, in quibus tanto acrius ab hostibus
laborarent, quanto longius terrarum spatia ab ejuis praesentia eos arcerent.

大まかな訳をつけると「(前略)彼らは次のように語って悲劇を打ち明けた。彼
らはほぼ連日、四方から攻撃を受け、混乱を被っていたが(中略)、それはすな
わち3つの王国に囲まれた状況、つまり自国の辺境にあったからで、そのために
彼らは、彼(皇帝)の居場所から遠ざかるほど、敵から苦しめられていたのだと
いう」という感じでしょうか。

dicendo以下が語られた内容です。まずはimpeti、inquietariと不定法が使わ
れ、それに続く節の動詞、つまりlaborarentとarcerentが接続法になっていま
す。主節に不定法を、従属節に接続法を用いるのが、ある程度一般的な間接話法
のパターンになっています。この部分、直説話法で表現するなら、"impetimur
et inquietamur (...) in quibus tanto acrius ab hostibus laboramus, quanto
longius terrarum spatia arcent."となります。また、直接話法で一人称、二人
称の代名詞が用いられる場合、間接話法にするといずれも三人称になることにも
注意が必要です。

さて、長らく続けてきたラテン語文法要所めぐりも、今回で一応完結です。取り
上げなかった項目もいくつもありますが、とりあえず、木にたとえるなら幹の部
分だけはひととおり見てきたように思います。言葉を学ぶ上で文法はやはり重要
なので、たまに見直して確実な知識にしていくことが肝要ですね。また折に触れ
て、下の「文献講読シリーズ」などでも復習していけたらと思います。


------文献講読シリーズ-----------------------
グイド・ダレッツォ『ミクロログス』その11

今回は8章の前半部分を訳出します。8章は少し長めなので2回に分けることにし
ます。

# # #
Capitulum VIII
De aliis affinitatibus et .b. et .[sqb].

Si quae aliae sunt affinitates, eas quoque similiter diatessaron et diapente
fecerunt. Nam cum diapason in se diatessaron et diapente habeat et
easdem litteras latere utroque contineat, semper in medio eius spatio
aliqua est littera, quae ad utrumque diapason latus ita convenit, ut cui
litterae a gravibus diatessaron reddit, eidem in acutis per diapente
conveniat, ut in superiori figura notatur; et cui a gravibus diapente contulit,
eidem a superioribus diatessaron dabit, ut .A. .E. .a.; .a. enim et .E. in
depositione concordant, quae in utraque duobus tonis semitonioque
conficitur. Itemque .G. cum ad .C. et .D. per easdem species resonet, unius
depositionem alterius elevationem sumpsit. Nam .C. et .G. duobus pariter
tonis et semitonio surgunt, et .D. et .G. tono et semitonio pariter
inflectuntur.

第8章
そのほかの親和性、bと#

ほかの類縁性があるとしても、それらもまた同様にディアテサロンとディアペン
テで構成される。ディアパソンはその中にディアテサロンとディアペンテと含
み、それらの両端は同じ記号となるが、つねにその中央には、いずれかの記号の
場所があり、ディアパソンの両端に対して、ちょうど上の図で示す通り、低い端
からその記号まではディアテサロン分上がり、同じく高い端にはディアペンテ分
上がる関係となる。低い端からディアペンテ分上がった音は、高い端からディア
テサロン分下がった音と同じである。ちょうどA、E、aの場合のように。aとEは
下降に際して一致する。いずれもトヌス2つとセミトヌス分下降するのである。
同様に、GはCやDとやはり同じ間隔で共鳴する。一方は下降、もう一方は上昇に
よって共鳴が得られた。CとGではトヌス2つとセミトヌス分上がり、DとGでは
トヌスとセミトヌス分下がる。

.b. vero rotundum, quod minus est regulare, quod adiunctum vel molle
dicunt, cum .F. habet concordiam; et ideo additum est, quia .F. cum quarta
a se .[sqb]. tritono differente nequibat habere concordiam; utramque
autem .b.[sqb]. in eadem neuma non iungas.

丸みのあるbは正規のものではなく、「付随的」とか「柔和(短調)」などと言
われ、Fと協和する。それが付加されたのは、Fから4つめの記号#が、トリトヌ
ス分の間隔であるため協和できないからである。よって、bと#を同じネウマに
おいて結びつけてはならない。
# # #

「aとEは下降に際して一致する」というのは、旋法的に形が一緒になるという
ことです。つまり、a-G-F-Eと、E-D-C-Bは、ともに間隔がT-T-Sという形にな
ります(BとEのところがセミトヌス、つまり半音です)。前回もちょっと触れ
たましたが、こうした同じ形を見つけることが、後のヘクサコルドでの読みかえ
(ムタツィオ)の基礎になっていくわけですね。実はそのあたりの相同関係の話
は、『ミクロログス』よりも、やはりグイドの手による『ミケーレへの書簡』と
いう文書(『ミクロログス』よりも後に書かれたものです)のほうに詳述されて
いるようです。

最後のところに出てくるネウマは、ネウマ譜とも取れますが(音が違うのだから
記号も変えよ、というふうに)、仏語訳、伊語訳などをみると、ここでは旋律全
体のことを指すものと取っているようです。この解釈の場合、bは曲に応じて変
わることはあっても、同一曲内で2種類が混在することがあってはならないとい
う意味になります。伊語訳の注を見ると、丸みのあるb、いわゆるb mollについ
て、グイドはこれを自然なもの、本来のものとは見なしておらず、やむを得ない
場合以外は使ってはならないとの制約を課しているといいます。『ミケーレへの
書簡』『リズムの規則』などでは、この立場はより厳密になっていくのだそうで
す。トリトノスはいわゆる3全音というもので、中世では「悪魔の音程」として
忌み嫌われていました。金澤正剛『中世音楽の精神史』(講談社選書メチエ)で
は、9世紀ごろまであった並行オルガヌム(対旋律が主旋律と一定の関係で動い
ていくもの)から、それ以降の自由オルガヌム(対旋律が自由に動くもの)への
歴史的な移行に、そのトリトノスを避けるという動機が働いていたことが指摘さ
れています。禁忌の回避のために新しい形式が生まれる、というのは文化のダイ
ナミクスという感じでとても興味深いですね。

次回は8章の後半、bと#の話の続きを見ていきましょう。


*本マガジンは隔週の発行です。次回は7月08日の予定です。

投稿者 Masaki : 2006年06月26日 13:04