2006年12月18日

No. 94

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.94 2006/12/16

*本メルマガは隔週の発行ですが、年末年始はお休みとさせていただき、次回は
年明け後の1月13日の予定です。
*本年もご愛読ありがとうございました。来年もどうぞよろしくお願いします。


------文献探訪シリーズ-----------------------
「イサゴーゲー」の周辺(その2)

ではまず、さしあたり「イサゴーゲー」そのものの内容を概観することから始め
たいと思います。「イサゴーゲー」はアリストテレスの『範疇論』の入門として
書かれたものでした。一言でまとめると、これはアリストテレスの範疇論の概説
や要約というよりも、それを理解するための、概念の内包関係について解説した
ものと言うことができそうです。ポルピュリオスはその冒頭で、アリストテレス
の範疇論を理解するには、次の5つの概念を押さえておく必要があると述べ、
「類」「種」「差異」「個有」「偶有」を挙げ、順にそれらについて説明してい
きます。

まずは「類」ですが、これは「複数の主語に対する述語となりうるもの」と定義
されます。とりわけ、「それは何か?」という質問に対する答えとして、です。
たとえば「動物」がそうです。人間は動物である、犬は動物である……云々とい
うふうに、「動物」は様々な語の述語になりうるわけですね。よって「動物」は
類である、ということになります。この場合、主語の部分が種を表すという点が
重要です。ではその「種」はというと、それは「類に内包されるもので、それに
対して類が述語となるもの」と定義されています。上の例での人間や犬がそれに
あたります。

ポルピュリオスはこれに関連して、「それぞれの範疇には、より一般的な項から
より特殊な項までの幅があり、その中間には、一般的かつ特殊な項もある」と述
べています。動物が類なら人間が種であるわけですが、ほかにも例えば、「物
体」が類なら、「生体」はその種になります。しかし「物体」は上位概念の「本
質」を類とした場合、その種ということになり、したがって「物体」は類である
と同時に種でもある、ということになります。ここでの類と種は、相対的な包摂
の関係の階層を表しているのですね。もはや上位概念がない、最上位の類に相当
するのが、アリストテレスのいう10種類の範疇だということになります。逆に
これ以下はないという最下位の概念は個ということになりますが、これは無数に
及んでしまうため、一つ上の種でもって考察を止める、というのがプラトンの推
奨するところなのだ、とポルピュリオスは述べています。また、上に示した述語
関係から見ると、述語となりうるのは常に同等以上の内包関係の階層にあるもの
に限られる、ということになります。

次に今度はもう一つの概念系列を考えます。「差異」です。二つのものが異なる
という場合、まずそれが外因によるのか内因によるのかで大別されます。外因の
場合、ある性質を異にするだけなのに対して、内因の場合、本体そのものが別の
ものと規定されます。「動物」が「動く」という述語を取っても、その動物の状
態が変わるだけですが、「理性をもつ」という述語を取ると、言及される動物の
種が変わってしまいます(馬ではなく人間、というふうに)。類と種を分かつの
は、この後者の規定にあることがわかります。ところで、内因にも、偶然生じた
もの(鼻の形など)と、本体に固有のもの(理性をもつことなど)があります。
前者もやはり性質を異にするだけです。ですから類を種に分かつのは、本体に固
有の差異だ、ということになります。差異は、「それは如何様であるか?」とい
う質問の答えとして、「種ごとに異なる述語となるもの」と定義されます。「人
間」は「理性をもつ(動物である)」という形で、類である動物から種として切
り出されます。

上で触れた、偶然生じたものと本体に固有のものが、それぞれ「偶有」「固有」
ということになります。詳しく見ればそれらもいくつかに分類されますが、いず
れにしても重要なのは次のポイントです。つまり全体としては、階層関係として
類と種の概念を置き、それを区別する操作子のような働きとして差異を置き、固
有・偶有の概念がそこに関与する、という見取り図になるわけです。これを前提
に、それらの概念同士が織りなす関係性を細かく見て行こうというのが、「イサ
ゴーゲー」でのポルピュリオスの趣旨になるのですね。長くなってしまうので、
そのあたりの話はもう一回を割いて、改めてまとめてみることにしましょう。
(続く)


------文献講読シリーズ-----------------------
グイド・ダレッツォ『ミクロログス』その20

今回の箇所はいつにも増してわかりにくい感じがします。一応ここでは試訳とい
うことで訳出していますが、いろいろと問題含みかもしれません(苦笑)。

# # #
Capitulum XVI
De multiplici varietate sonorum et neumarum

   Illud vero non debet mirum videri cur tanta copia tam diversorum
cantuum tam paucis formata sit vocibus, quae voces non nisi sex modis, ut
diximus, sibi iungantur tam per elevationem quam per depositionem, cum
et de paucis litteris, etsi non perplures conficiantur syllabae, potest enim
colligi numerus syllabarum. Infinita tamen partium pluralitas concrevit ex
syllabis, et in metris de paucis pedibus quam plura sunt genera metrorum,
et unius generis metrum plurimis varietatibus invenitur diversum, ut
hexametrum. Quod quomodo fiat videant grammatici; nos si possumus,
videamus quibus modis distantes ab invicem neumas constituere
valeamus.
   Igitur motus vocum, qui sex modis fieri dictus est, fit arsis et thesis,
id est elevatio et depositio; quorum gemino motu, id est arsis et thesis,
omnis neuma formatur praeter repercussas aut simplices. Deinde arsis et
thesis tum sibimet iunguntur, ut arsis arsi et thesis thesi; tum altera alteri,
ut arsis thesi et thesis arsi coniungitur; ipsaque coniunctio tum fit ex
similibus, tum ex dissimilibus.

第6章
音と旋律の様々な変化について

 かくも多様な歌の数々が、かくもわずかな音から作られているからといって、
驚くには当たらない。先に述べたように、音は6種類の仕方でしか互いに結びつ
かない。上昇でも下降でもそれは同じである。文字の場合も、たとえ多数の音節
を作るわけではないにせよ、わずかな文字で複数の音節をつくることはできる。
その音節からは、無数の句が作られてきた。韻律においても、わずかな脚韻から
どれほどの種類の韻律が作られることか。また、ヘクサメトロンなど、一つの種
類の韻律によって、とてつもない数の多様な変化が生み出される。いかにしてそ
のようなことができるのかは、文法に見ることができる。私たちは、もし可能で
あるなら、互いに異なる歌がどのようにして作られるのかを見てみよう。
 先に6種類と述べた音の動きは、アルシスとテーシス、すなわち上拍と下拍で
作られる。その対となる拍、つまりアルシスとテーシスによって、すべての旋律
は形成される。ただし連打音と単音からなる場合は除く。また、アルシスとテー
シスは、アルシス同士、テーシス同士で結びついたり、アルシスとテーシス、
テーシスとアルシスというふうに結びついたりする。そうした結びつき自体が、
類似する要素、あるいは異なる要素で作られる。

   Dissimilitudo autem erit si ex praedictis motibus alius alio plures
paucioresve habeat voces, aut magis coniunctas vel disiunctas. Dissimiliter
deinde vel similiter facta coniunctione motus motui tum erit praepositus, id
est in superioribus positus; tum suppositus; tum appositus, id est cum in
eadem voce unius finis erit alteriusque principium; tum interpositus, id est
quando unus motus infra alium positus et minus est gravis et minus acutus;
tum commixtus, id est partim interpositus partimque suppositus aut
praepositus aut appositus. Rursusque hae positiones dirimi possunt
secundum laxationis et acuminis, augmenti et detrimenti modorumque
varias qualitates. Neumae quoque per omnes eosdem modos poterunt
variari et distinctiones aliquando.
   De qua re et descriptionem subiecimus quo facilior per oculos via sit.

(図:http://www.medieviste.org/blog/archives/guido06.html

 上で述べた動き(進行)において、いずれかの進行が他の進行に対して音の数
が多いか少ないか、あるいはその先も結合しているか分離しているかによって、
違いが生じる。進行同士の結合は、類似的になされる場合もあれば、非類似的に
なされる場合もある。上位置、つまり上位の音に置かれることもあれば、下位置
になることもある。同列に並ぶこともある。つまり同じ音で一方が終わり、他方
が始まるのである。間に置かれる場合もある。これは、どちらかの進行が他方の
進行の内部に入り、他方よりも低くも高くもならない、という場合である。混合
の場合もある。これは部分的には間に置かれ、部分的には下位置、上位置、同列
となっている場合である。こうした結合は、下降か上昇か、増幅か縮減か、ある
いは旋法の多様な性質などによって分けられる。旋律も、またフレーズも、これ
らと同じように変化しうる。
 ゆえに、目で見てわかりやすくなるように、その説明を以下の図に示す。

# # #

前にも出てきましたが、限定された個数の要素の組合せで多くの発現形がもたら
されるというのは、12世紀頃に特徴的な思考様式だという話があります。この
あたり、そのうち吟味してみたい点ですが、いずれにしてもここでは、音も言葉
も限定要素から成り立っていて、その組合せで複雑な構築物を作っているという
認識がはっきりと出ていますね。最初の段落で音の結びつきが6種類とあるの
は、以前の4章のところで、音同士の間隔として挙げられていた、トノス、セミ
トノス、ディトノス、セミディトノス、ディアテサロン、ディアペンテの6種類
のことでしょう。

上拍、下拍としたアルシスとテーシスは、ギリシア詩でならそれぞれ長音節・短
音節になります。その韻律では、アルシスが弱拍、テーシスが強拍です(音を下
げることで強調になるのですね)。ラテン詩では、アルシスが短音・強拍、テー
シスが長音・弱拍となりますが、ここはむしろ音楽用語的に、アルシスが弱、
テーシスが強という理解でいいのではないか、と思われます。motusは進行とし
てみましたが、ちょっと語弊もありそうです。伊訳本の注によれば、ここでの
motusは、2音の間の開きのことというより、むしろ旋法の中でのそれらの「動
き」「連なり」を指している、ということなので、とりあえずぴったりとはいき
ませんが、「進行」あたりの訳語を流用できるのではないかと思ったのです。そ
う考えると、旋法のパターンが複雑に結合(接合)するというのは普通にありう
る話なので、その後に続く、結合の場合分けの話が少しわかりやすくなるような
気がします。

図については本文では訳出していませんが、だいたいこんな感じです。上部に
は、6種類の音の結合(音同士の開き)がまとめられています。その下に上拍と
下拍が置かれ、さらにその下に、相互の結びつきという感じで、対照的な項同士
が並んでいきます。「異なるもの同士」- 「同じもの同士」、「類似的」-「非類
似的」、「上位置」-「下降」、「下位置」-「上昇」、「間入」-「増幅」、
「同列」-「縮減」、「混合」-「旋法の多様な性質」という具合ですね。ちょっ
とわかりにくいですが、これは一種の分類図なのでしょう。実際の写本(パリの
フランス国立図書館)の図は、全体が植物のようになっています。6種類の音の
結合から茎のような線が下り、上拍・下拍のところで一つに丸まり、さらにそこ
から下の項がやはり茎のように伸びて分かれていく、というふうです(項の配置
などが、ちょっと上掲の図とは微妙に違うようなのですが)。また、タイトル部
分(「音楽は音の動きである」)の上には、人の顔が描かれていて、その植物全
体が人の口から出ている、という趣意になっています。http://
www.medieviste.org/blog/archives/guuido07.html
をご覧下さい。なかなか
面白いですね。

さて、年内はこれでひとまず終了で、次回は年明けです。次の17章は、歌詞と
音の配置法についてで、ドレミの誕生の一歩手前を思わせる記述が続いていきま
す。お楽しみに。では皆様、よいお年を。


*本マガジンは隔週の発行ですが、年末年始はお休みのため、次回は01月13日
の予定です。

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投稿者 Masaki : 2006年12月18日 23:46