2007年05月02日

No. 102

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.102 2006/04/28

------文献探訪シリーズ-----------------------
「イサゴーゲー」の周辺(その9)

今回はアヴェロエスによる『イサゴーゲー』注解を取り上げます。よく知られてい
るように、アヴェロエス(イブン・ルシュド、1126 - 1198)はイベリア半島のアラ
ブ思想圏を代表する思想家で、特にそのアリストテレス注解書の数々は、中世盛
期に大きな影響を及ぼしたのでした。注解にはアリストテレス以外のものもわず
かながらあり、その一つがこのポルピュリオスの著作の注解です。とはいえ、全
体的に、『イサゴーゲー』は論理学の入門として失敗しているというトーンで書か
れています。ここでは米国中世アカデミー&カリフォルニア大学出版局から1969
年に刊行された英訳本を参照しているのですが、その序文で、ハーバート・デー
ビッドソンがそのことを指摘しています。

前回ちらっと触れたように、中身はというと、普遍概念の実体性を否定するような
内容になっています。種を包摂するもの、という類概念の定義について、アヴェロ
エスはポルピュリオスに見られる相対的なスタンス(種か類かは、包摂関係に依
存する相対的なものなのでした)を批判します。述語関係による定義は、「類」」
と中間的な種の両方にまたがってしまうので(相対的なスタンスならそれで問題
はないのですが)、真の定義にはならないとはねつけます。では類の真の定義と
は何かというと、「種を含み、その上位に格付けされる普遍概念」だとアヴェロエ
スは言います。こうして、中間的な種とされていたものは「中間的普遍概念」と定
義し直されます。この読み替えは決定的です。というのも、この操作によって、
類・種とされていたものは、すべてが普遍概念に括られてしまうからです。同じ普
遍概念という括りなら、相対論もちゃんと成立するというわけですね。

アヴェロエスは、すべての類の上位に立つ類はないとして、ポルピュリオスの最
上位概念を否定し、アリストテレスの10の範疇を引き合いに出します。また、類
や種ではあくまで「包括=結合」の度合いで分けられるのに対し、「個」は(個人が
それぞれ違うように)基本的にたがいに分離するものだということを指摘します。
類や種においてそうした結合の操作が可能なのは、それらがあくまで概念的な
ものだからだ、という含みがあるわけですね。類や種が普遍概念に括られるのに
対して、個だけは括られない異質なものだというわけでしょう。また、ポルピュリ
オスの言う述語関係という観点から見ても、類や種といったものと、個との間には
大きな違いがあることを、アリストテレスに準拠して述べています。さらに、『イサ
ゴーゲー』において類を分けるものとされた「差異」についても、類が質料に、差
異が形相に比されるとしたポルピュリオスの一文を、アヴェロエスは、質料と形相
によって現実のモノが構成されるように、質料と差異によって「心的な事物」が構
成されるのだと読み解いています。ここに至って、類は完全に概念の側に位置づ
けられています。種もまた同様の扱いです。

アヴェロエスは結論部分で、ポルピュリオスが『イサゴーゲー』で行っているの
は、範疇の定義ではなくその説明なのであって、その意味において同書は論理
学そのものの一部には含まれない、と述べています。むしろそれは『分析学』か
『トピカ』に位置づけられるものだ、というわけです。余談ながらアヴェロエスは
リストテレスの『トピカ』への小注解
で、普遍概念の範疇として(つまり述語となり
うるものの範疇ですが)、普遍概念はポルピュリオスが述べる5つのほかに、「定
義」「描写」「定義でも描写でもない言明」を加えて8つとしています。そこでもま
た、普遍概念があくまで言語操作(同書の場合は弁証法の技法)のためのもの
であることが指摘されています。このアヴェロエスの立場(あるいはアリストテレス
的議論を継承する立場)は、中世盛期の普遍論争にとって大きな試金石となっ
ていくのでした。
(続く)

------古典語探訪:ギリシア語編-------------
「ハリポ」で復習、古典ギリシア語文法(その2)

さて、いよいよ本文です。今回のギリシア語表記はこちらをどうぞ
(→href="http://www.medieviste.org/blog/archives/H_P_No.
2.html
)。まず書き出しの一文です。これ、今や世界中で子どもたちに最も読ま
れている一文なのだそうですね。ま、そりゃそうでしょう。あれだけのベストセ
ラーですし、最初の一文も読まない子はそんなにはいないと思いますからね
(笑)。ま、それはともかくギリシア語訳です。

Doursleios kai he_ gune_ evo_koun te_ tetarte_ oikia te_ te_s to_n
mursino_n odou・

Doursleiosは英語のDursleyです。Dourseleios kai he_ gune_で、「ダース
レーとその妻」になります。evo_kounは動詞evoikeo_(住む)の未完了過去・
三人称複数となります。この動詞は補語として与格を取ります。それで、
tetrate_ oikia(4番目の家)が与格になっています。これを同格的に定冠詞で
受けて(2つめのte_)、mursion_n odos(マートル通り)の属格を続けてさらに
修飾句としています。これで、「ダースレー夫妻は、マートル通り4番の家に住ん
でいた」となります。マートルというのは、「ギンバイカ」という植物です。

esemnunonto de peri eautous o_s ouden diapherousi to_n allo_n
anthro_pon, toutou d'eneka xarin polle_n e_desan.

esemunuontoは動詞semnuno_(自慢する)の未完了過去。periは意味に
よって次にくる格が違ったりしますが、ここでは対格を取って「〜に関して」とな
り、eauto_n(彼ら自身)は対格になっています。o_sは「〜として」。英語のasの
ような感じですね。oudenはnot at allに相当します。diapherousiは
diaphero_で「異なる」。属格を取って、「〜から異なる」となります。ここでは
alloi anthropoi(他の人々)が属格になっています。toutouは指示代名詞
outos(これ)の属格ですが、eneka(〜なので)に続くからでしょう。deは軽い順
接などを現す接続詞で、「そしてまた」。e_desanはoidaの未完了過去、三人称
複数、その補語はxarin polle_nで「多くの感謝を」。これで全体としては、「彼ら
は自分たちのことを、他人と変わるところがないとして誇らしく思っていた。そし
てそのことを大いに感謝していた」となります。

今回のところの復習のポイントは、やはり未完了過去でしょうか。未完了過去
は、現在をそのまま過去に移したもの、とされます。叙述ではとくに重要な時制に
なるので、ここでは紙面の都合により割愛しますが、活用や用法をちゃんと押さ
えなくてならないところですね。


------文献講読シリーズ-----------------------
アルベルトゥス・マグヌスの天空論・発出論を読む(その1)

今回から新たなテキストを読んでいきたいと思います。読むのはアルベルトゥス・
マグヌスの『原因ならびに第一原因からの世界の発出についての書』(Liber de
causis et processu universitatis a prima causa) の第一巻第四論考の7
章と8章を考えています。今回の目標は、スコラ的な議論の仕方に親しむこと
と、その時代の(広い意味での)コスモロジー的な視座を捉えること、でしょう
か。具体的なテキストとしては、ドイツのMeinerから刊行された羅独対訳本
"Buch uber die Ursachen und den Hervorgang von allem aus der
ersten Ursache", 2006
)をベースとします。

アルベルトゥス・マグヌス(1200〜1280)はドミニコ会士で、パリで神学の学位
を取り、その後ケルンで教鞭を執りますが、教え子の一人にはトマス・アクィナス
もいました。ですが長い間、アルベルトゥスは「神学を貶める哲学者」の扱いを受
け、列聖されたのは1931年、ピウス11世によってでした。それをきっかけに評
価は一変し、その博学ぶりもあって(万有博士などとも称されます)、当時の自然
学の一種の擁護者とも見なされてきました。アリストテレスに対するスタンスは
微妙なところもありますが、いずれにしても当時の先端的な編集工学的知性と
いう意味でも、個人的にとても面白い存在だと思っています。

さしあたってこのテキストですが、実はこれ、以前このコーナーで拾い読みをした
『原因論』の注解に相当します。注解とはいっても、アルベルトゥスの場合は一見
かなり自由な言い換え・敷衍を施している印象です。アルベルトゥスが各種の注
解(とくにアリストテレスの著作についてですが)を記したのは50〜60歳代とさ
れ、この注解も1264年から67年ごろに著されたもののようです。この第一巻は
4つの論考からなり、それぞれ(1)古代の考え方、(2)第一者の認識、(3)自由
意志と第一者の全能性、(4)第一原因からの発出について考察しています。ここ
では最後の論考の末尾の2章を見ていきたいと思いますが、追ってそれ以前の
章についても言及していきたいと思っています。それでは(なんだかいきなりで恐
縮ですが)、さっそく7章の冒頭を見ていくことにします。

# # #
"De quaestione, utrum caelum movetur ab anima vel a natura vel ab
intelligentia"

Antequam ordo fluentium a primo determinatur, inquirere oportet,
utrum caelum movetur vel a natura vel ab anima vel ab intelligentia
vel ab omonibus his vel a duobus primis ex tribus inductis/

Quod autem non movetur a natura solum, omnes dicebant
Peripatetici quinque rationibus.

Quarum una est, quod natura corporis forma est et non est nisi ad
unum, in quod cum pervenerit, quiescit in illo et non movet ab ipso.
Motus autem caeli ad nullum ubi determinatum est, nisi sit etiam ab
ipso. Motus igitur caeli a natura non est.

Secunda est, quod motus naturalis localis a generante est, ut
probatum est in “VIII Physicorum”. Caelum autem secundum se
totum ingenerabile est. Motus ergo caeli a natura non est.

Tertia est, quia nihil motum naturaliter in loco suo movetur, sed extra
locum existens. Et quantum accipit de forma a generante, tantum
accipit de motu ad locum. Et cum perfecte acceperit formam, tunc
est in loco suo et quiescit in ipso aut violenter prohibetur, ne
moveatur ad ipsum, et tunc movetur ab eo quod removet prohibens.
Talium autem nihil caelo convenire potest. Caelo igitur non convenit
a natura moveri.

天空は魂によって動かされているか、あるいは自然、または知性によって動かさ
れているかという問題について

第一原因からの発出の秩序を定義する前に、天空は自然によって動かされるの
か、それとも魂によってか、あるいは知性によってか、それともこれらのすべて、
あるいは最初の二つは三番目めから導かれるのかどうか、について問う必要が
ある。

しかしながら、逍遙学派のいずれの者も、五つの理由から、天空が自然のみに
よって動くのではないと述べている。

その第一の理由はこうだ。自然とは身体の形相であり、「一」に向かう以外にな
い。それが「一」に達する際には、その場に静止し、おのずと動くことはない。しか
しながら、天空の動きは、定められたいかなるものにも向かっておらず、ただお
のずと動いていく。したがって、天空の動きは自然によるものではない。

第二の理由はこうだ。『自然学−−第8巻』で論じられているように、自然な場に
おける運動は、生み出すものに由来する。しかるに天空はもとより生み出されえ
ないものである。したがって天空の動きは自然によるものではない。

第三の理由はこうだ。自然にあっては、いかなる運動もおのれの場においてはな
されず、場の外部に存在する。生み出すものに由来する形相からどれだけを受
け取るのかに応じて、場に対する運動から受け取るものも決まる。形相を十全に
受け取るのであれば、おのれの場にとどまり、みずから静止する。あるいはまた、
みずから動くことを強制的に禁じられ、その禁を解くものによって動かされる。し
かるに、このような説明は天空にはまったくそぐわない。したがって天空が自然
によって動くというのは妥当ではない。
# # #

5つの理由が列挙されていくのですが、まずは3つめまでを見てみました。こん
な調子で、それぞれの論点が列挙され、対になる反論が示され、それらへのコ
メントという形で本人の論が展開するというのが、この時代の議論の基本です
ね。うっかり論旨を掴み損ねると、自説なのか他者の説の紹介なのかが見えな
くなってしまうようなこともありますので、注意が必要だったりします。

二番目の理由のところで出てくる『自然学』の8巻は、まさに運動について論じた
部分です。三番目の理由もやはり同じ8巻を参照しています。これに対応する箇
所として考えられるのは、8巻の225256a、1から2行目でしょう。この直前箇
所に、何ものもみずから動くのではなく、ほかから運動を受け取るのだ、というこ
とが記され、当該箇所では、それは生み出すもの、もしくは(運動を)阻む要因を
取り除くものによる、ということが述べられています。アルベルトゥスは上のテキス
トの別の箇所(第一論考、第2章)でも、「motus est a generante vel ab eo
qui removet prohibens」という表現で同じ箇所に言及しています(当時のラテ
ン語訳からの引用のようです)。

とまあ、こんな調子でゆっくりと読んでいくことにしたいと思います。相変わらず、
訳は大まかなものとご承知おきください。次回は残りの二つの理由を見ていきま
しょう。


*本マガジンは隔週の発行です。次号は5月12日の予定です。

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投稿者 Masaki : 2007年05月02日 22:59