2007年05月16日

No. 103

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.103 2006/05/12


------文献探訪シリーズ-----------------------
「イサゴーゲー」の周辺(その10)

今回と次回は、下の「文献購読シリーズ」でも取り上げているアルベル
トゥス・マグヌスの「イサゴーゲー」注解をまとめてみたいと思います。
アルベルトゥスが活躍した13世紀半ばは、基本的にアリストテレス思想
が西欧世界に流入し、それに対して各人がなんらかの立場を取った時代で
す。アルベルトゥスは、どちらかというと逍遙学派よりは新プラトン主義
の流れのほうへの傾斜が強く感じられ、アリストテレス受容も、アヴェロ
エスではなくむしろアヴィセンナの考え方に拠っています。

「イサゴーゲー」の注解となっているのは、『ポルピュリオスの「五つの
普遍概念について」をめぐって』("Sper Porphyrium de V
Universalibus")という著書で、ケルン版のアルベルトゥス全集では1巻
目の冒頭を飾っています(Aschendorf, Monasterii Westfalorum,
2004)。テキストの成立年代はちょっとはっきりしないようですが、前
回の「文献購読シリーズ」で触れたように、アルベルトゥスが主だった注
解を記すのは50〜60歳代で、これも50歳代、遅くとも63歳ごろまでに
記されたものと考えられているようです。

アルベルトゥスの注解の特徴は、そのかなり自由な言い換えにあります。
この著書でも、ポルピュリオスが示した「類」「種」「差異」「固有」
「偶有」の5つの普遍概念をめぐって、かなり細かな議論が展開し、論考
としても長いものになっています。アルベルトゥスの議論の進め方は、こ
の時代の多くの神学者と同様、対になる両論(または複数の議論)を紹介
し、それらを自説で統合するという弁証法的なものです。大陸系の論文の
書き方に、今でも生きているメソッドですね。ここではさしあたり、普遍
概念の実在・非実在を論じた部分にのみ着目したいと思います。具体的に
は第一論考の第三章です。

「普遍概念は知性から切り離された形で自然の中に存在するか、それとも
純粋な知性の中にのみ存在するか」という問題に、アルベルトゥスはまず
後者を支持する立場を紹介します。誰のものというのではなく、ボエティ
ウス、アリストテレス、アヴィセンナ、アル・ガザーリーなどから適宜
拾っているようです。大略として以下のような議論が取り上げられていま
す。(1)自然の中で区別されるものは数として一であるのに、普遍概念は
一ではなく、したがって区別されない。(2)自然の中で区別されるもの
は知性の外に存在するが、(1)により普遍概念は知性の外に存在しえな
い。(3)自然の中で区別されるものは個別だが、普遍概念が個別だとす
るとその定義に矛盾する。(4)普遍概念と個別が存在として同じだとす
るとその定義に矛盾する。(5)普遍概念が知性の外に存在するとするな
ら、それには存在の起源があるかないかのいずれかだが、起源がないとす
ると永遠だということになり、存在の定義(事物は知性の光によって創造
される)に矛盾する。起源があるとすると、それはつまり現実態になった
ということだが、するとそれは現実態の定義(現実態は個別である)に矛
盾する。(6)人工物の形がほかの人工物と共通にならないように、事物
に共通するものとしての普遍概念は知性の中にしか存在しえない云々。

これらは主に定義矛盾を引き合いにして普遍概念の実在性を否定する立場
です。それに対して、今度は実在性を肯定する立場が紹介されます。こち
らもアリストテレスなどから断片的に拾っているようです。(1)「人
間」なる単一のもの(形相のこと)が知性の外に存在しなければ、人間は
存在しえない。(2)事物を存在せしめるものと認識させるものとは同一
であり、(1)により認識・認知は普遍概念によってなされることにな
る。知は事象をめぐっての作用である以上、普遍概念も事象ということに
なる。(3)存在は、能動者(agens:能動的知性のこと)から形相を通
じて事物にもたらされる。 能動者からもたらされるものはすべて自然の
中に存在する。普遍概念もまた能動者からもたらされる以上、自然の中に
存在する。(4)能動者からもたらされる「存在」は、あくまで単一のも
のとして(形相として)与えられる。したがってその形相のありようとは
普遍概念のありようとイコールである。(5)自然に存在するものでなけ
れば、自然における存在を与えられない。ゆえに形相は自然の中にあり、
知性の外に存在している。(6)光と色の関係と同様、知性もまた、作用
を受ける側の力能(virtus)に作用することで形相を与えるが、その力能
は自然において存在する。類や種といった普遍概念はそうした適応性とし
て自然の中に存在する。(7)普遍概念ないし形相は、事物の原因もしく
は原理であり、その当の事物に先行し、単純な形で存在する云々。

かなり大まかなまとめですが(苦笑)、いずれにしても、実在否定論が論
理学的な議論であるのに対し、実在擁護論は思弁的・形而上学的議論に
移ってしまっているのがわかります。後者では質料形相論を持ち出してく
るわけですが、議論の質、議論の運びがずいぶんと違いますね。アルベル
トゥスはもちろんこのことを十分意識していています。で、両論に対する
ジンテーゼとしてこの後、アルベルトゥス自身の立場が論じられるのです
が、先取りして言ってしまうと、つまり、そうした形而上学的な議論をふ
まえた上で、一種の認識論的な腑分けを行っていくことになります。これ
もちょっと箇条書きのようにまとめたいのですが、少し長くなってしまう
ので、具体的な中身は次回に持ち越すことにします。
(続く)


------古典語探訪:ギリシア語編----------------
「ハリポ」で復習、古典ギリシア語文法(その3)

ギリシア語のローマ表記ですが、これまでの独自表記を、Peruseusの
ワード検索(http://www.perseus.tufts.edu/cgi-bin/resolveform?
lang=greek
)で使われている表記に統一したいと思います。Perseusは
有名な古典語サイトです。ここのオンライン辞書などはなかなか便利なの
で、そこで使われているローマ字表記に合わせることにします。具体的に
は、長母音の表記を、_の代わりに^とし、またksをx、xをchに変えま
す。それから、表記していなかった下付きのイオタ(i)を、横に添える
ことにします(ちょうど大文字表記の場合のような感じです)。

さて、今回も続きを読んでいきましょう。3番目の文からです(原文はこ
ちら→http://www.medieviste.org/blog/archives/A_P_No.
3.html
)。

dioper nomizois an autous en pro^tois einai to^n me^
metechonto^n tou thaumasiou, o^s peri oudenos ta toiauta
poioumenous kai alazoneian kalountas.

dioperは「そんなわけで」という接続詞ですね。nomizoisはnomizo^
(〜と見なす)の希求法現在の2人称で、anとともに用いられて、想像・
予想などを表すのでした。ここは「あなたは思うだろう」という意味にな
ります。その目的語がautous「彼らを」で、補語が不定詩句の形で続い
ています。einaiが英語でいうbe動詞(eimi)「である」の不定詞で、en
pro^tosで「一番の中に」。どういう一番かというのが、その後のto^v以
下です。否定辞me、metecho^「関わる」の現在分詞。ここでは冠詞が
ついて名詞化しています。「関わる人々」でしょうか。metecho^の補語
として属格(tou thaumasiou「不思議なこと」)。これで、全体がつな
がって、「そんなわけで、あなたは彼らが不思議なことに関わらない第一
人者だと思うだろう(=そんなわけで、あなたは彼らが不思議なことに関
わることはまずないと思うだろう)」となります。

o^s以下はその理由を表す句になります。oudenosは英語ならnothing、
ここではperiに続いているので対格です。ta toiautaは「そんなことを」
(複数、対格)、poioumenosはpoieo^の現在分詞(中動態:再帰を表
します)で、「自分に行う」。分詞が対格になっているのは、前の文の
autous(彼ら)の同格扱いだからでしょう。さらにkalountas(kaleo^
の現在分詞、複数、対格)が続いて、alazoneia(馬鹿げた考え)がその
目的語になって対格になっています。全体として「なにしろ、彼らは何に
ついてもそんなことは行わなかったし、馬鹿げたことと見なしていたか
ら」となります。

o de Dousleios kurios e^n ergaste^riou tinos Grouniggos
kaloumenou ouper trupana kai teretra pantodapa poieitai.

この文の主語はo Dousleiosですね。deも前回出てきましたが、軽い順接
の接続詞で、訳出する必要はないかもしれません。kuriosは「主人」、
e^nはeimi(である)の未完了過去、3人称単数です。ergaste^rionは
「工場・企業」でそれが属格になっています。tinosは「とある」の意
味。ergaste^riouに合わせて属格、単数になっています。Grouniggosは
固有名詞(一応英語風にグルニングにしておきましょうか)で、
kaloumenou(kaleo^「呼ぶ」の受動態の現在分詞)の目的語になって
います。これで「グルニングスと呼ばれた」となるのですね。ouperは関
係副詞で、「〜の場所で」。ここではその工場のことを指しています。
trupavaはtrupanonの複数対格で、「回転錐」の意味、teretraは
teretronの複数対格で「錐」の意味です。pantodapaは形容詞で、「あ
らゆる種類の」。poieitaiはpoieo^「作る」の受動態3人称単数ですね。
これで、「(その会社では)ありとあらゆるドリル類が作られている」。
ここまでで「ダースレー氏は、実に様々なドリル類を作っている、グルニ
ングスなる一工場の社長だった」になります。

今回の箇所は、ギリシア語で多用される分詞の好例ですね。分詞も格変化
し、metechonto^nの場合のように名詞化したり、kaloumenouの場合
のように補語(目的語など)を取ったりします。あと、希求法 + anなど
も文法書で確認しておきたいところです。


------文献講読シリーズ-----------------------
アルベルトゥス・マグヌスの天空論・発出論を読む(その2)

前回から始まったアルベルトゥス・マグヌスの『原因論』注解の購読の続
きです。今読んでいるテキストの「天空は魂で動いているのか、それとも
自然によってか、知性によってか」という章の見出しは、現代の私たちに
とっては、ずいぶんと変な問いだなと思えますが、当時の神学世界にあっ
ては、これは真剣な議論の対象だったのですね。この章の見出しに即し
て、アルベルトゥスの考察も続いていくわけですが、まだまだアルベル
トゥス自身の見解にはいたりません。まずはそれが自然によって動くので
はないとした逍遙学派の議論が紹介されています。否定の理由として挙げ
られている五つのうち、前回は三つを見ました。今回は残り二つを見てい
きましょう。

# # #
Quarta ratio est, quod motus localis in his quae per naturam
moventur, non est nisi existentis in potentia ad formam
substantialem eo quod motus localis in talibus consequens est
naturam. Quod autem caelum in potentia sit ad esse, nullus
umquam dixit Peripateticorum.

Quinta ratio est, quod motus localis, qui per naturam est, nec
uniformis est nec regularis est. Uniformis quidem non est, quia
quo formae generantis est vicinior, eo est velocior. Propter quod
omnis motus naturalis in fine intenditur in velocitate. Regularis
autem non est, quia minus et magis habet de potentia secundum
continuum exitum de potentia ad actum. In fine enim minus habet
et in prinpicio plus de potentia et e contrario de actu in fine plus
et in principio minus. Et hoc continue est in ipso secundum totum
exitum de potentia ad actum. Nec uniformis igitur nec regularis
esse potest. Caeli autem motus et uniformis et regularis est. Caeli
igitur motus per naturam non est.

Si autem aliquis dicat, quod nec caeli motus uniformis est eo
quod dividitur in motum planes et in motum aplanes, ut dicit
Aristoteles in XI Primae philosophiae, patet statim, quod instantia
nulla est. Cum enim dicitur caeli motus uniformis et regularis, hoc
dicitur in omni uno mobili et uno motu. Motus autem planes et
aplanes nec secundum idem mobile nec secundum eundem
motum determinantur, quin potius hoc ipsum quod secundum
duos situs oppositos dividitur motus caeli, signum est, quod per
naturam non est, Nulla enim quae unius naturae sunt in genere,
oppositorum motuum sunt secundum situm, sicut patet in motibus
gravium et levium et omnium aliorum.


第四の理由はこうだ。自然によって動くものにおける場の運動は、実体的
な形相に向かう潜在態にのみ存在する。その形相ゆえに、結果として生じ
る場の運動は自然なものとなるのである。しかるに天空が存在に向かう潜
在態であるとは、逍遙学派のいかなる者も述べていない。

第五の理由はこうだ。自然によるところの場の運動は、均質でも一定でも
ない。均質でないのは、[その事物を]生み出す形相に近いほど運動が速い
からである。それゆえ、あらゆる自然の運動はつまるところ速さへと向
かっていく。一定でないのは、潜在態から現実態へと連続的にいたる度合
いに応じて、潜在態の大小が異なるからだ。潜在態は最後には小さく、最
初は大きい。逆に現実態は最後に大きく、最初は小さい。しかもそれは、
いずれも潜在態から現実態へといたる度合いに応じて連続している。以上
のことから、[その運動は]均質でも一定でもありえないのである。ところ
が天空の運動は均質で一定である。よって天空の運動は自然によるもので
はない。

仮に「天空の運動が均質でも一定でもない。それはアリストテレスが『第
一哲学』11巻で述べるように、惑星と恒星の運動に分かれるのだから」
と言う者があるとしても、その議論が成立しないことは直ちに明らかであ
る。天空の運動が均質で一定であるという場合、それはそれぞれの一つの
運動体、一つの運動においてそうだ、という意味である。ところが惑星と
恒星は、同じ運動体、同じ運度によって決定されてはいない。けれどもむ
しろここでは、天空の運動が二つの異なる位置にもとづいて区別されると
いうことが、自然によるものではないという徴候をおのずとなしているの
である。類として一つの自然に属するものはどれも、位置によって運動が
異なったりはしないからだ。軽いものや重いもの、その他あらゆるものの
運動について明らかであるように。
# # #

羅独対訳本の注によれば、3つめの段落に出てくるアリストテレスの『第
一哲学』11巻というのは、『形而上学』のことで、ここでの話は1.12 c.
8(1073 b 17-32)の部分です。アルベルトゥスは当時出ていたラテン
語訳で読んでいたので、こういう形で言及されているのですね。もとの
『形而上学』の該当箇所は、アリストテレスが惑星と恒星(アリストテレ
スでは太陽や月もこれに分類されるのですね)それぞれの軌道(層)の違
いについて説明している部分です。アルベルトゥスが紹介しているこの議
論では、天空が層をなしながらも一体であると考えているため、惑星と恒
星が別々の軌道で動いているというのは、すでにして超自然だというわけ
です。

逍遙学派が「天空の動きは自然によるものではない」とする上の五つの理
由からは、その逍遙学派(アラブ系のアリストテレス主義のことでしょ
う)の基本的立場が大まかながら見えてきます。つまりこんな感じでしょ
うか。事物はいずれも形相によって生み出され(第二の理由)、その形相
はつまるところ「一つ」なのであって、事物はどれほど多様であろうと、
その「一つ」の形相に向かっていく(第一の理由から)。運動もまたその
形相によって与えられ、それによって事物は動かされる(第三の理由)。
運動が向かうのも当然その形相であって(第四の理由)、その形相と合致
すれば運動はなくなるものの、地上世界では事物はそうなることができ
ず、不均質な運動を続けていくしかない(第五の理由)……。とまあ、こ
ういった自然の事物についての原理があって、天空の運動はそれにそぐわ
ないので自然の運動ではない、という話になっているわけです。

ではその逍遙学派は、天空は何によって動くと考えるのでしょうか。魂に
よってでしょうか?この話が、アルベルトゥスが次に紹介する議論になり
ます。それは次回見ていきたいと思います。お楽しみに。


*本マガジンは隔週の発行です。次号は5月26日の予定です。

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投稿者 Masaki : 2007年05月16日 23:39