2007年05月29日

No. 104

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
silva speculationis       思索の森
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.104 2006/05/26

------新刊情報--------------------------------
このところ気候もよく、なんとはなしに穏やかな日々が……と思いきや、
そろそろ水不足の話が出てきましたね。この異常な天候、大丈夫なんで
しょうか?

新刊情報、今回はまず文献を集めたものから。

『文献解説--ヨーロッパの成立と発展』
松本宣郎、前沢伸行、河原温著、南窓社
ISBN:9784816503528、3,360yen

ギリシア・ローマ時代から中世、ルネサンス初期までの文献解説というこ
とですが、具体的な中身が不明です。いちおう中世関連ということでリス
トには入れておきましたが……(苦笑)。

○『西欧中世初期農村史の革新--最近のヨーロッパ学界から』
森本芳樹著、木鐸社
ISBN:9784833223881、7,350yen

所領明細帳などの研究が盛んになった、80年代から2004年までの中世初
期の農村史に関する文献目録。こういった基礎資料の目録は、実際に研究
をしようという場合にはとても便利・重要なものですね。各個別分野で、
そうした集成が出てほしい気がしますが……。

『ドイツ中世都市の自由と平和--フランクフルトの歴史から』
小倉欣一著、勁草書房
ISBN:9784326200481、4,935yen

フランクフルトの都市の発展史を、同市が自由と平和をどう獲得していっ
たかという視点から多面的に検討した一冊。中世から初期近世までのスパ
ンで描いているようです。なるほど、都市としての安定は、経済的繁栄の
そもそもの前提条件ですが、それがどう獲得され維持されていったか、と
いうのは案外見過ごされやすい問題かもしれません。

『西欧中世の社会と教会--教会史から中世を読む』
R.W. サザーン著、上條敏子訳、八坂書房
ISBN:9784896948882、5,040yen

著者はイギリスの中世史家(2001年歿)で、数多くの著者を残していま
す。同書は原書が70年刊行のもので、700年から1550年までの教会組織
の変容を、その時どきの社会史の動きと絡めて描いているようです。修道
会各派の動きと宗教運動、というあたりは、先の池上俊一氏の労作なども
あって、ちょっと個人的にも見ておきたいところです。

『四枢要徳について--西洋の伝統に学ぶ』
ヨゼフ・ピーパー著、松尾雄二訳、知泉書館
ISBN:9784862850089、4,725yen

トマス・アクィナスの解釈を中心とした、ヨーロッパの「徳」についての
論。これはちょっと興味深いですね。著者はドイツ出身のキリスト教哲学
者。トマス・アクィナス論のほか、神学論などがあります。同書はその主
著ということです。


------文献探訪シリーズ-----------------------
「イサゴーゲー」の周辺(その11)

アルベルトゥスの注解の続きです。実在否定論、実在擁護論を列挙した
後、いよいよ両者を統合する段となります。そこでのまとめ方は、実在擁
護論の形而上学的な立場を尊重する形で、実在否定論への反論を加える、
という形になっています。

新プラトン主義的な影響が強く感じられるアルベルトゥスだけに、その議
論は発出論の考え方を踏まえたものになっているようです。全体として、
上位に置かれるのは単純なもの、純粋なもの、下位に置かれるのは複合的
なもの、混合したものなのですね。前者からは存在・理性・名前などがも
たらされます。質料形相論的での形相とは、まさにそういうものなのです
ね。後者はいわば地上世界の具体物で、そこには数々の偶有性が生じてい
ます。こうした階層的な分割は、この『イサゴーゲー』注解でも活きてい
ます。

アルベルトゥスは、実在否定論で言う「知性の中にある形相」とはどうい
うことかを再考します。その際の「知性」を、アルベルトゥスは二層に分
けて考えるのですね。一つは、(A)認知と原因をなすような、原初の知解
する知性、もう一つは、(B)抽象作用に依拠する知性です。前者が神の領
域の知性(能動知性)に、後者が人間世界の知性に対応しているのは歴然
としています。次に、知性が捉えるものが形相であるとすると、それもま
た二分されることになります。事物の原理としての形相(a)と、個物から
抽象作用によって取り出される形相(b)です。(A)と(a)、(B)と
(b)がそれぞれ対応しているわけですね。

この分割により、アルベルトゥスは実在否定論に対して難なく切り返すこ
とができるようになります。実在否定論が(B)と(b)を問題にしてい
るのに対し、アルベルトゥスは(A)と(a)から反駁していくのです。
先の実在否定論の個々の議論は、こうして否定されていきます。(1)自然
の中で区別される存在は「一」であるのに、普遍概念は「一」をなさず、
したがって自然の中に存在するものではない、という議論に対しては、普
遍概念はあくまで本質として「一」をなしているのだ、と反論します。
(2)互いに分離できる自然の事物は知性の外に存在しているが、普遍概
念はそうなっていないので知性の外にはない、という議論に対しては、分
離にも本質に関わる分離とそうでない分離とがあるとし、普遍概念は本質
において相互に分離されるのだと反論します。

反論のスタンスはどれも同じです。(3)自然において区別されるのは個
別だけだ、という議論については、個別を個別ならしめている原理があっ
てこそ、個別が成立している事態もありうると反論します。(4)普遍と
個別が存在として同じであるというのは相互に矛盾する、という議論に対
しては、普遍が言うところの「個々」とは、本質・原理において個別なの
だとします。(5)起源の問題はどうなるのかという問いについては、普
遍はもとより自然のうちに起源をもつものではなく、一方で知性の光を源
としつつも、みずからもまた働きかけるものとしてあり、したがって、個
別をもたらす本質としては、もとより生成することも消滅することもな
い、と論じます……云々(続く議論は省略)。

アルベルトゥスにとっての普遍とは、原理のこと、形相のことなのです
ね。述語関係や共通性といったアベラールまでの普遍概念の意味に、生成
のための原理という新しい視座が加わっていることがわかります。もはや
ポルピュリオスの原テキストからは大きく離れてしまっている感じです
が、ここに13世紀の新しい動向を見ることができそうです。そしてこれ
はおそらくアルベルトゥス一人だけのものではありません。この先に、た
とえば(普遍から翻って)個体が個体であることはどういうことかを問
う、ドゥンス・スコトゥスなどの議論も控えています。
(続く)


------古典語探訪:ギリシア語編----------------
「ハリポ」で復習、古典ギリシア語文法(その4)

いくつかのサイトでアナウンスされていたオックスフォード大学出版の春
のセールスが、まだ続いています。さすがにそろそろ終わりじゃないかと
思われるので、ここでも紹介しておきましょう。Oxford Latin
Dictionary(OLD)、Greek-English Lexicon(Liddell & Scott)な
ど、有名どころの大型辞書が半額以下という破格の値段です。OLDは正
規価格315 ドルのところ135ドル、Liddell & Scottは正規価格160ドル
のところ80ドル。本格的に古典語を、とお考えの向きは、この機会にぜ
ひ。今は多少円安ですが、それでもお買い得です。OLDはhttp://
www.us.oup.com/us/catalog/25965/?
view=usa&wt.mc_id=25965b(下のほうです)、Liddell & Scott
http://www.us.oup.com/us/catalog/25965/subject/Language/?
view=usaをご覧ください。

さて引き続き、『ハリー・ポッター』第一巻のギリシア語訳です。今回の
原文表記はこちらをどうぞ(http://www.medieviste.org/blog/
archives/A_P_No.4.html
)。ローマ字表記は前回から古典語サイト
Perseusの検索窓の表記に準じています。さっそく見ていきましょう。

kai megas t' e^n to eidos kai malista ogko^d^s.

この文はまず前半で主語述語が倒置になっていて、主語はto eidos。こ
れで「その容姿は大きかった」になります。t' e^nはte e^nです。teは強
調を表す前接辞です。e^nはbe動詞eimiの未完了過去(3人称、単数)。
kai malista ogko^d^sと続いてます。これもto eidosに対する述語で、
「さらにこの上なく丸々としていた」になります。malistaはmala(very
much)の最上級ですね。

ton men gar auchena ouk e^n raidion idein pachiston onta,
mustaka d' an idois auto^i dasun o^s sphodra.

menも強調(「まさに」)などを表す後置辞です。ここでは後の
d'(de)と合わさって、「一方では〜だが、もう一方では〜」という軽
い対比の意味の定型表現になります。garはよく使われる接続詞で、おも
に理由を表します。ここは不定詞句になっていて、ton auchena
(「首」)がidein(orao^の不定詞)の目的語で、「首を見ること」の
意になります。ouk e^n raidionで「簡単ではなかった」。pachiston
ontaは分詞構文で、auchenaを形容しています。英語ならbeing thickと
なるところです。ここまでで、「というのも、首はずんぐりとしていて、
簡単には目にできなかったからだ」。

mustakaはmustaks(「ひげ」)の対格で、idoisはorao^の希求法、二
人称単数。ここでは不定過去(アオリスト)形です。an+希求法はすでに
出てきました。過去形の希求法には必ずanがつくのですね。auto^iは
「彼に」、dasun(「濃い」)はmustakaにかかり、sphodra(とて
も)も同様、ここでのo^sは、英語のasに類する意味です。これで「その
一方で、ひげはとても濃く、いやでも目についたろう」というふうになり
ます。

今回の復習ポイントは、やはり形容詞・副詞の比較級、最上級でしょう
か。基本的には二種類の系列があり、一方はそれぞれ-teros、-tatosを、
もう一方は-io^n、-istosを付けるのでした(その語尾が格変化します)。
圧倒的に前者が多いのですが、後者もわりと重要な単語で出てきます。
pistos, pisteros, pistotatos
he^dus, he^dion, he^distos

そしてなにより不規則形です。今回でてきたmalaや、その反意語の
mikrosの比較級、最上級など、頻出語が多いですね。文法書で確認して
おきたいところです。
mala, mallon, malista
kakos, he^ton, he^kista
megas, meizon, megistos
mikros, elatton, elachistos
polus, pleon, pleistos
raidios, raion, raistos


------文献講読シリーズ-----------------------
アルベルトゥス・マグヌスの天空論・発出論を読む(その3)

天空は自然によって動くのではない、という議論を紹介した後、アルベル
トゥスは、天空は魂によって動くという説を紹介していきます。その最初
の部分を見てみましょう。

# # #
His ergo rationibus Peripatetici dixerunt communiter caelum non
moveri per naturam. In quo etiam convenerunt cum Stoicis, qui
hoc primi dixerunt quod per naturam non movetur.

Epicurei autem, qui principia motus ponebant figuras et vacuum,
soli dixerunt motum caeli per naturam esse et eius esse principium
rotunditatem atomorum, ex quibus compositum est caelum. Quod
in antehabitis ostendimus absurdum esse.

Avicenna autem, qui vult esse Peripateticus, et Algazel, insecutor
suus, et ante eos Alfarabius et inter Graecos Alexander et
Porphyrius caelum moveri dixerunt ab anima et motum eius
dixerunt esse processivum vel similem processivo motui ab anima,
in quantum imaginativa et electiva, quatuor rationibus, quae
colliguntur ex scriptis eorum.

Quarum una est, quia cum, sicut habitum est, per naturam esse
non possit, non movebitur determinate ab A in B et a B in C et a
C in D et iterum a D in A, nisi concipiat situm B et iterum situm C
et iterum situm D et iterum situm A particulariter et determinate.
Concipiens autem differentias situs particulariter et determinate,
imaginativum et electivum est. Movens igitur caelum imaginativum
et electivum est.


以上の理由から、逍遙学派はいずれも、天空は自然によって動くのではな
いと述べている。その点で、彼らはストア派と一致している。ストア派は
天空が自然によって動くのではないと最初に述べた人々だ。

一方、エピクロス派は、象形と真空を運動の原理として掲げている一派
で、天空が自然によって動くと述べる唯一の人々である。その原理は原子
の回転にあるとされ、天空もそれらによって構成されているという。先に
述べたように、これは背理的である。

逍遙学派たろうとするアヴィセンナや、独学の探求者アル・ガザーリー、
さらにそれ以前のアル・ファラービー、ギリシア人ではアレクサンドロス
やポルピュリオスなどは、天空は霊魂によって動かされると述べ、その運
動は魂による進行性のもの、あるいは想像や選択など、進行性の運動に類
するものであるとされる。彼らの著書から、次の4つの理由がまとめられ
る。

その1つめは次のようなものだ。上に述べたように、自然によっては存在
しえない以上、AからB、BからC、CからD、Dから再びAというふうに定
まった動きをするのは、Bの位置、次いでCの位置、次いでDの位置、次
いでAの位置が個々に定まったものとして捉えられた場合のみである。位
置の違いを個々に、定まったものとして捉えることは、想像力や選択的意
志の働きである。したがって天空の動きは想像力および選択的意志に属す
ることになる。
# # #

ちょっと切り方が良くないですが、とりあえず、「天空は魂によって動
く」という説の最初の議論までを見てみました。ストア派とエピクロス派
に少しばかり触れていますね。

ストア派の思想は、キケロを介して中世に伝えられたとされています。エ
ピクロス派についてはルクレティウス経由でしょう。ジルソンの著書など
によると、実際、9世紀から12世紀ごろまで、各地の修道院の書庫には、
ときにキケロの著作やルクレティウスの『事物の本性について』などが備
わっていたといい、異教的思想に対する寛容さが見てとれたといいます。
とくにキケロなどはキリスト教との親和性もあり、ラテン世界では、いわ
ゆるキケロ主義とでも呼べるような思想的な脈動があったとも言われま
す。とはいえ、中世のコスモロジーなどへのストア派の具体的影響となる
とちょっと不明です(これは今後の課題としておきます)。

復習しておくと、ストア派本来のコスモロジーでは、コスモス全体を一つ
の身体(コルプス)と見て、その全体にロゴス的な火である気息(プネウ
マ)が広がっている、というのが基本的図式なのでした。この気息がスト
ア派で言う魂なのですね。それはまた、一切の根源ということで神と同一
視されたりもします。また、身体としてコスモスは、一種の共鳴の原理に
よって成り立つとされています。なかなかに巨視的なスタンスです。これ
に対してエピクロス派は微視的なアプローチをかけます。コスモスを構成
しているのは原子と、その原子が動く真空から成るとされ、運動こそが諸
物の原理なのだとされます。真空を認めるという点からして、すでにキリ
スト教の伝統とは折り合いが悪く、アルベルトゥスにあっても軽く斥けら
れています。

天空が魂によって動かされる、という説には、アラブ系の哲学者の名がず
らっと並んでいます。文中のアレクサンドロスはアフロディシアスのアレ
クサンドロスでしょうか。アレクサンドロスにはアリストテレスの天空論
についての注解があったとされ、一応アラビア語テキストが残っているよ
うです。これも追って取り上げたいと思います。ポルピュリオスの天空論
についても、個人的にちょっと追ってみたいと思っています。


*本マガジンは隔週の発行です。次号は6月9日の予定です。

------------------------------------------------------
(C) Medieviste.org(M.Shimazaki)
http://www.medieviste.org/
↑講読のご登録・解除はこちらから
------------------------------------------------------

投稿者 Masaki : 2007年05月29日 21:06