2007年06月12日

No. 105

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.105 2006/06/09


------文献探訪シリーズ-----------------------
「イサゴーゲー」の周辺(その12)

前回はアルベルトゥス・マグヌスの『イサゴーゲー』注解を取り上げ、「普遍」をめ
ぐり存在論的な議論が導入されている様子をまとめてみました。その際に少し
触れましたが、そうした議論の導入はなにもアルベルトゥスだけに限ったことでは
なく、当時のわりとスタンダードな展開でもあったようなのです。

そのあたりのことを、ダヴィッド・ピシェという研究者がまとめています。『1230年
から60年のパリ自由学芸部における普遍問題』
という著書がそれで、ロベルトゥ
ス・アングリクスなる人物によるのではないかとされる1250年頃の『イサゴー
ゲー』注解書を中心に、その前後の主要な注解を比較しています(ロバート・キ
ルウォードビー、ニコラ・ド・パリ、ジャン・ル・パージュ)。主眼は、ロベルトゥス・ア
ングリクスのテキストの同定(文献学的というよりは、議論の形式・内容にもとづ
く哲学史的アプローチ)なのですが、結果的に当時のパリ大学で優勢だった「実
在論」の特徴を、包括的に浮かび上がらせています。

で、それによると、上述の4人のいずれも、「普遍」を一種の原理と見なしている
ようなのです。その場合の普遍は、もはや通常の事物のごとくに存在するもので
はなく、むしろ事物を事物たらしめている原理として、事物に内在しているものと
捉えられます。事物を事物たらしめている原理、それは質料形相論での形相で
もあるし、個体化理論でいう事物の本質、あるいは「このもの性」でもあるというこ
とになります。

実際、原理・形相・このもの性のどれに重心が置かれるかによって、同書が取り
上げる4人の議論には、ニュアンスの違いが出てくるようです。年代順に挙げて
いくと、1230年代ごろのロバート・キルウォードビーは、まだ事物的な理解を残
しつつ、事物の本質としての普遍の理解に傾いていくようです。1240年頃のの
ニコラ・ド・パリは、個物の中に存在する共通の性質という理解で、やや原理とし
ての観点が薄いようです。1250年頃のロベルトゥス・アングリクスにいたると、
普遍は形相的な原理であるという見方がはっきり出てくるようで、さらに1260年
頃のジャン・ル・パージュにいたると、論理的な述語関係は存在論的な属性とし
て読み替えられ、個物の存在論的な一貫性・固有性のもととなる本質、という捉
え方が前面に出てくるといいます。

こうした「原理としての実在論」は、普遍というものが事物的な実在ではないとす
る点で、唯名論のほうへと大幅に歩み寄っている感じもします。実際、ピシェは、
これが唯名論にぎりぎりまで擦り寄っていき、そこからいきなり実在論へと反転す
るかのような、かなりきわどい論法だと見ています。ですが、いずれにしてもそう
した実在論は広く共有され、1230年代から60年代にかけて、パリ大学界隈で
の普遍論争は一応の沈静化を見たといいます。アルベルトゥスがパリにいたの
は1240年代(特に中盤から後半)とされていますから(ペトルス・ロンバルドゥス
の『命題集』を講義したようです)、まさにその時期に重なり、彼もまたそうした流
れの中にいたものと推測されます。その後の神学的論争ではむしろ、個々の事
物が「そのもの」であるとはどういうことか、という問題、つまり原理からの個物の
生成問題が大きくクローズアップされていくことになります。そしてそこに、ドゥン
ス・スコトゥスの「このもの性」議論や、オッカムによるその批判が控えているとい
う次第です。
(続く)


------古典語探訪:ギリシア語編----------------
「ハリポ」で復習、古典ギリシア語文法(その5)

古典ギリシア語版「ハリー・ポッター」の冒頭部分を読んでいますが、少しスピー
ドを上げていきたいと思います。ダースレー家の紹介が続いていきます。今回の
テキストはこちらです(http://www.medieviste.org/blog/archives/
A_P_No.5.html
)。

he^ de gune^ oudamo^s paxeia ousa leukothriks t' e^n kai
dolichauche^n・

今度は妻の話で、oudamo^sは否定を表す副詞、paxeia ousaで分詞句にな
り、「まったく太っておらず」。leukothriksは「白髪の」、dolichauche^nは「首の
長い」で、これがbe動詞の未完了過去e^nの補語になっていますね。「夫人は
まったく太っておらず、白髪で、首が長かった」。文末の点は、英語ならばセミコ
ロンに相当します。

diploun gar eichen auchena e^ kata phusin kai mala chre^simon epi
to raion epite^rein geranou dike^n tous geitonas skopousa huper to
teichion.

最初のところは、またも形容詞と名詞の間に動詞が割ってはいる感じになってい
ます。diploun auxenaで「2倍の長さの首」(対格)となります。動詞はeichen
(持つ)ですね。kata phusinで「もとより」。mala chre^simonで「大いに便利
な」。何について便利なのかがepi以下です。raionは「目立たないように」、
epite^reinは「探す」。geranou dike^nで「ツルのように」。ここでのdike^nは
属格をともなって副詞的に使われ、「〜のように」の意味になります。geitonasは
「隣人」。skopousaもskopeo^「見る」の分詞形。huper to teichionで「壁越し
に」。全部をつなぐと、「というのも、彼女の首はもともと二倍もの長さで、ツルの
ように、壁越しに隣人を盗み見るて詮索するのに大変便利だったのだ」。

kai uiov eixon oi Doursleioi eti paidion onta onomati Doudlion・

前半部分は「ダースレー夫妻には息子があった」。後半は、etiが「その上」、再び
分詞ontaがきて、onoma(名前)の与格をとって「〜という名前だ」という意味に
なります。「また、夫妻には男の子があり、名前をダドレーといった」。固有名はい
つもどおり英語に合わせておきます。

ton d' he^gounto to kalliston einai to^n en anthro^pois.

he^gountoはhe^geomai(〜を〜と見なす)の未完了過去、3人称複数で、そ
の補語が不定詞句で続いています。「人の子の中で最も美しい」。全体として、
「彼らはその子を、世間の子の中で一番の子と考えていた」。

今回はこれといった復習のポイントがないのですが、そんなときにはこんなクイ
ズで。次の分詞を使った文の、意味の違いは何でしょう?
akouo^ autou legontos
akouo^ auton legonta
akouo^ auton legein

答えは順に、「私は彼が話しているのを聞く」「私は彼が言っていると聞く」「私は
(伝聞で)彼が言っていると聞いている」。これは高津春繁『基礎ギリシア語文法』
のp.152にあるものです。分詞の用法はなかなかに面白いですね。


------文献講読シリーズ-----------------------
アルベルトゥス・マグヌスの天空論を読む(その4)

前回に引き続き、アルベルトゥスが紹介する「天空の運動は魂による」という一連
の議論を見ていきましょう。

# # #
Secunda est, quod ABCD situs opppositos dicunt in circulo. Nihil
autem ad opposita movetur particulariter et determinate nisi animal
imaginativum et electivum. Intelligentia enim et natura principia sunt
uno modo se habentia. Animal autem solum est quod imaginationibus
et affectionibus oppositis movetur ad opposita secundum situm. Cum
ergo caelum sic moveatur, patet, quod caelum movetur ab anima
imaginativa et electiva.

Tertia ratio est, quod in corpore uniformis naturae non est ratio,
quare hic vel ibi incipiat motus secundum naturam. Quodlibet autem
caelum secundum suam speciem uniforme est. Quantum igitur ad
naturam non est ratio, quare hic vel ibi incipiat motus. Si ergo
incipiat, principium motus non erit per naturam. Erit igitur vel per
animam vel per intelligentiam. Cum ergo intelligentia uno modo sit,
per intelligentiam esse non potest. Relinquitur igitur, quod sit per
animam. Motus igitur caeli ab anima sit.

Quarta ratio est, quod motus corporis oportet, quod efficienter sit ab
eo quod est actus corporis. Intelligentia autem nullius corporis est
actus. Ab intelligentia ergo non potest esse motus corporis localis. Et
probatum est, quod a natura esse non potest. Relinquitur ergo
necessario, quod sit ab anima, quae entelechia corporis est.

2つめは次のとおりである。ABCDの位置は円を描く形で対立関係にあるとしよ
う。その場合、想像力および選択的意志をもった生き物でなければ、個々に定
まった形で、対立する位置へと動くことはない。というのも、知性や自然(本性)の
原理によるのであれば、一つの状態にとどまるからだ。しかしながら生き物だけ
は、対立する想像力と意志とによって、位置として対立するものへと動くのであ
る。したがって、天空がそのように動く以上、それは想像力と選択的意志をもっ
た魂によって動かされていることは明らかである。

3つめは次のとおりである。コルプス(物体)にあっては、自然(本性)が均質であ
ることに根拠はない。ゆえに自然に応じて運動はここそこで開始されるのである。
しかるにいずれの天空も、見るからに均質である。自然に関して根拠がない限り
において、運動はここそこで開始されるのであるから、よって運動が開始されると
するなら、運動の原理は自然によるものではないことになるだろう。ならばそれ
は魂によるか、または知性によるかだろう。けれども、知性は一つの状態である
以上、知性によるというのはありえない。したがって残るのは、魂によるということ
である。かくして天空の運動は魂によるのである。

4つめは次のとおりである。コルプスの運動には、コルプスの現実態をもたらすも
のが必要となる。しかるに、知性はコルプスの現実態ではまったくない。知性か
らは、コルプスの場の動きはもたらされえない。また、自然からもたらされえない
ことは論証ずみである。したがって残るは必然的に、魂からということになる。魂
はコルプスのエンテレケイア(現実態・完成態)なのである。
# # #

3つめなどは少々わかりにくいのですが、本性(自然として内在する性質)におい
て均質であればそもそも運動は生じない、というのがベースの考え方で、運動
が開始されるということは、均質でないことの表れだと見なしているのですね。そ
の上で、天体の場合は均質だとし、ということは自然以外に運動の根拠がなけ
ればいけない、というふうに論じているようです(そのように読めます)。とにかくこ
こでの議論は、どれも反対の命題を否定していくことによって結論を導いく感じ
です。

末尾の一文は有名なアリストテレスの一節ですね(『魂について』、412b4〜
6)。コルプスは身体とか物体とか訳出できる言葉ですが、世界を一つのコルプ
スと見る見方は、前回ちょっと触れたようにストア派に見いだせますし、より同時
代的なものでは、たとえば偽アヴィセンナの(当時はアヴィセンナの著書と見なさ
れていた)『天空と世界の書(Liber celi et mundi)』にも見られます。この書に
ついては、オリヴァー・グッドマンによる校注本が出ています(Brill, 2003)。そこ
でのコルプスの定義は、要するに三次元の形を取るものをいうようで、「その上
位に何もない」究極のコルプスこそが世界だとされています(第一章)。テキスト
の2つめの議論にあった、対立する位置へと移動することは自然にはありえない
という話も、文脈は異なるものの、やはり偽アヴィセンナのテキストにも見いだせ
ます(第六章)。

この『天空と世界の書』は、アルベルトゥスの重要なソースの一つになっているよ
うで、『天空論注解』(アリストテレスへの注解で、1248から51年ごろに記され
たもの)を執筆する際には、どうやら手元において参照していたらしいといいま
す。アルベルトゥスは同書がアヴィセンナのものであることは疑っていなかったよ
うで、またヴァンサン・ド・ボーヴェなどもそうだったらしいのですが、次の世代と
なるロジャー・ベーコンあたりになると、その著者特定に疑問を持つようになるよ
うです。このあたりの事情も、なかなか面白いものがありますね。


*本マガジンは隔週の発行です。次号は6月23日の予定です。

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投稿者 Masaki : 2007年06月12日 23:13