2007年06月26日

No. 106

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.106 2006/06/23


------文献探訪シリーズ-----------------------
「イサゴーゲー」の周辺(その13)

13世紀半ば以降、存在論的にシフトした議論が前面に出てくることで、
「普遍」をめぐる問題は「個体化論」へと変転していくようです。前回触
れたリカルドゥス・アングリクスによる(とされる)イサゴーゲー注解書
では、何が個をもたらしめるのかという問題について、「形相が質料を完
成させるという意味において、形相には刻印する(signo)、個別化する
(individuo)潜在力がある」としています。個物の個別化をもたらすの
は形相ということになっているのですね。質料はというと、個別化の原因
ではなく、個別化に必要な機会(occasio)だとされます。

個体化の話というと、どうしてもドゥンス・スコトゥス(1265-1308)
を思い出さないわけにはいきません。実際、形相が個体化の潜在力を持っ
ている、という上の話は、スコトゥスの議論へとつながっていくもので
す。とはいえ、スコトゥスではそうした理論は実に精緻なものになってい
き、普遍の考え方などを含め、ずいぶん大きな違いが生じてしまっていま
す。ここでは普遍に関連するさわりにのみ触れてみることにします(『オ
ルディナティオ』II. d. 3を、前に取り上げたポール・ヴィンセント・ス
ペードの英訳
で参照しています)。

スコトゥスはまず、事物の本性(自然)とは何かという問題を考えます。
するとさしあたって、事物の本性は「このもの」(今ここにある当のも
の)ではないということになりそうです。目に見える事物は知覚の対象で
あるのに対し、事物の本性は知性の理解の対象だとするなら、前者に「一
性」があることは間違いありませんが(知覚的に区別できるわけですか
ら)、同時に後者にもなんらかの「一性」(統一性)がなければなりませ
ん(さもないと、知性はそれを理解できません)。この後者の一性を、ス
コトゥスは前者の一性と区別して「数的に弱い一性(数的により少ない一
性)」と称しています。目の前の事物なら「一つ」と数えることができる
のに対し、知的な概念の場合には「緩い統一性」をもっていることは理解
できても、「一つ」と数えることはできないということなのでしょう。

さて、そういう事物の本性そのものは、最初から普遍性をもっているわけ
ではない、とスコトゥスは言います。普遍性というのは形而上学的な概念
ではなく、論理学的な概念なのであり、したがって原初の(プライマリー
な)概念ではないのだというのです。事物の本性というものは即普遍なの
ではなく、その普遍性は本性に対して偶有的(偶発的)に付加されるもの
にすぎないのです。本性はというと、それは個々の事物に先行するもので
あり、それ自体は中立的なものと考えられています。属性(普遍性もその
一つ)は後から加わるものであって、本性そのものは緩い統一性をもつだ
けで、普遍論争的な「心的存在か外的実在か」といった問題にすら与り知
らないのだ、というのです(とはいえ、統一性をもつという意味で、それ
は「存在」していなくてはならないのですね)。

重要なのは、スコトゥスの場合、本性の側と個別の側とには決定的な溝が
設けられていることです。本性に後から様々な属性が加わっても、それは
まだ個体ではありません。極端な話、質料と形相が結びついてできる複合
体ですら現実の個物と即イコールではなく、質料や形相も、あるいはその
複合体も、それ自体としてはあくまで本性に属し、「このもの」である現
実の複合体(現実態)はそこには含まれないということになります。類や
種、種差などのいわゆる「普遍」は、形相に属するわけですが、一方の個
体差は、あくまで物質的な実体、つまり現実の個物の側に属します。

スコトゥスの議論でよく引き合いに出される「このもの性」も、基本的に
は本性の側に属し、形相に関連づけらているのであって、即個物の話には
ならないのですね。普遍性が本性に対して後から付加されるものであるの
と同様、個体的な差異は個別の側に付加される、ということになるわけで
すが、では個体化をもたらすのは何かという問題についてスコトゥスは、
個体の概念に「おのずと(per se)」含まれる肯定的な実体によって、
本性は個別へと限定される(制約を課される)のだと説明します。わかり
にくいのですが、本性と個別を決定的に分離したがゆえに、そのあたりの
「生成」論はどこか様式的なものにとどまらざるを得なくなっているよう
にも思えます。逆にいうと、あえて思弁的に分離の溝を深くしなければな
らないほど、実は本性と個物の違いは微細なのではないか、ということも
言えるように思えてきます。

このようにスコトゥスの形而上学的体系は細かく切り分けられ、普遍には
形相としての内実も、原理としての内実も与えられません。本性とイコー
ルですらなく、あくまで本性に(後発的に)付される属性として考えられ
ています。普遍問題の頃とは逆に、普遍は主役の座から降ろされて、複雑
な形而上学的コンステレーションの一部でしかないようです。また、本性
と個物の溝も、それを設けなければ実在論がもたない、というほどぎりぎ
りのところで思考されているように見えます。そんなわけで、当然ながら
スコトゥスの立場には反論も出てきます。そしてその最大の批判者がオッ
カムだったのでした。
(続く)


------古典語探訪:ギリシア語編----------------
「ハリポ」で復習、古典ギリシア語文法(その6)

前回、少しスピードアップをと言いましたが、言ったそばからナンなので
すが、今回はちょっと都合により短縮版です(苦笑)。今回のテキストは
こちらです(http://www.medieviste.org/blog/archives/A_P_No.
6.html
)。ではさっそく見ていきましょう。

kai panth' oso^n pot' epethumoun, tosaut' e^de^ kateichon・
ephulatton de kai aporre^ton ti.

epethumounはepithumeo^(望む)の未完了過去。panth' oso^nで
「〜限りのすべて」。panth'はpantaの省略形で、これをtosautaで受け
ています。e^de^は「すでに」「今や」「直ちに」などを表す副詞。
kateixonはkatexo^の未完了過去。これで「彼らは、望むものはみなすぐ
に手に入れた」の意味になります。ephulattonはphulatto^(保つ)の未
完了過去。aporre^ton tiで「ある秘密」。これで「また、彼らははある
秘密を持っていた」。

kai malist' ephobounto me^ tis katalabe^i auto, ton bion abio^ton
nomizontes esesthai ean tis peri to^n Pote^ro^n puthe^tai.

ephobountoはphobeo^(恐れる)の未完了過去。me^は否定辞で、こ
こでは「〜ではないか」。katalabeiはkatalambano^(捉える)のアオ
リスト第二形(接続法)。nomizontesはnomizo^(思う)の分詞で、こ
の目的語が不定詞句になっています。ton bion abioton esesthaiがそれ
で、esesthaiはbe動詞eimiの不定法未来。eanがifに相当する接続詞で、
tisは「誰か」、puthe^taiはputho^(腐らせる、ダメにする)の中動態
(接続法現在)。これで、「彼らはまた、誰かがそれを知るのではないか
とてもと恐れていた。ポッターについて誰かがバラしたら、その生活はと
ても耐えられないものになると思っていたのだ」という感じでしょうか。

やっとポッターの名前が出てきましたね。今回はアオリストの第二形が出
てきています。代表的な不規則動詞の第二形を、『基礎ギリシア語』から
転記しておきましょう。いずれも本当に最頻出単語という感じですね。
lambano^(取る)→ elabon
pascho^(こうむる)→ epathon
ballo^(投げる)→ ebalon
gignomai(生じる)→ egenome^n
ago^(連れて行く)→ e^gagon
orao^(見る)→ eidon
lego^(言う)→ eipon
aireo^(掴む)→ eilon


------文献講読シリーズ-----------------------
アルベルトゥス・マグヌスの天空論・発出論を読む(その5)

今回の箇所も、「天空は魂によって動かされている」とする議論の紹介が
続いています。

# # #
Si forte aliquis diceret, quod ab extrinseco est motus corporis
caelestis, extrinsecum vocans omne quod de natura mobilis non
est, tunc non potest esse nisi altero duorum modorum. Aut enim
est ab extrinseco, quod formam suam non influit mobili, sicut
proiciens lapidem sursum lapidi non influit formam eius quod per
naturam ascendit. Aut est sic quod formam suam influit ei quod
movetur, sicut desideratum influit desiderio, cum tamen
desideratum secundum se maneat extrinsecum. Si primo modo sit
ab extrinseco, sequitur, quod motus caeli sit violentus. Quod
penitus absurdum est. Ex hoc enim sequeretur, quod motus caeli
non esset primus motuum et quod non esset causa omnium
naturalium. Si vero secundo modo dicatur extrinsecum, tunc
sequetur, quod id quod movetur, perceptivum est formae
desiderabilis. Non est autem perceptivum secundum quod corpus.
Corpus enim nihil desiderat nec desiderabilis aliquam percipit
intentionem. Percipit ergo secundum quod est animatum. Movens
igitur immediatum erit anima. Et movens per medium erit id quod
desideratum est. Caelum igitur ab anima movetur.

Et hanc opinionem Hermes Trismegistus, Socrates et Plato et tota
secta defendit Stoicorum et multi Peripateticorum, quos superius
nominavimus.

自然の動因でないすべてのものを「外的なもの」と称し、天体の運動は外
的なものによると述べる人がいた場合、それは次の二つのいずれかの様態
以外ではありえない。一つは、動因によって形相が流入するのではないこ
とを、外的なものによるとする場合である。たとえば、石を上空に投げた
ところで、自然に上昇するような形相が流入するのではない場合である。
もう一つは、動かされる側にその形相が流入する場合である。たとえば、
望む側に望まれる対象の形相が流入し、それでいて望まれる対象そのもの
は外部にとどまる場合である。もし前者の様態を外的なものとするなら、
天空の運動は相当激しいものということになろう。それはほとんど条理に
反する。ゆえに、天空の運動は第一の運動のものではなく、すべての自然
の原因ではないということが帰結する。第二の様態を外的なものと称する
なら、動かされる側は望ましい形相を受け入れうるということになる。し
かるに、コルプス(物体)である限りにおいて、そうした形相を受け入れ
うるとは考えられない。というのもコルプスは、何らかの望ましい意志
を、望むこともなければ受け入れることもないからである。生命あるもの
である限りにおいて受け入れるのだ。とするならば、直接的に動かすもの
は魂ということになろう。媒体を介して動かすものが、望まれるものなの
である。以上のことから、天空は魂によって動かされている。

この見解は、ヘルメス・トリスメギストゥス、ソクラテス、プラトン、そ
してストア派全体のほか、上に挙げた逍遙学派の多くが支持している。
# # #

今回のところではヘルメス・トリスメギストゥスの名が挙がりました。こ
こではPUF版の『中世辞典』の記述を中心に、中世のヘルメス主義につい
て簡単に復習しておきましょう。発端は12世紀にアラビア経由でギリシ
アの文献が大量に西欧に流れ込んだことでした。その中にいわゆるヘルメ
ス文書という前3世紀から後3世紀にわたり書かれた匿名文書が数多く
入っていました。預言者・魔術師ヘルメス・トリスメギストゥスが弟子に
教えを伝えるという形式で書かれたもので、汎神論的・二元論的な世界観
に彩られた文書群です。

異教的な文献の数々ですが、代表的なところでは『アスクレピウス』とい
う哲学的・宗教学的な著作などは4世紀末からラテン語訳があり、かなり
広範に流布していたようで、12世紀のいわゆるシャルトル学派とされる
人々を中心に(シャルトルのティエリー、ベルナール・シルヴェストル、
さらにはアラン・ド・リールなど)盛んに利用されていました。『アスク
レピウス』はアウグスティヌスによって糾弾されているのですが、一方で
中世には、キリスト教の教義とヘルメスの教えが照合し合う、といった内
容の文書(偽アウグスティヌス文書)なども出回っていたようです。

占星術、魔術、錬金術などの文書類の翻訳は、13世紀半ばすぎまで続い
たといい、受け取る側の反応も、礼賛する者から忌み嫌う者、恐れる者な
どいろいろだったようです。アルベルトゥス・マグヌスは熱烈な擁護派
だったようですが、たとえばオーベルニュのギヨームなどは全面否定派な
のでした(この人物はアヴィセンナなどにも批判の矛先を向けていま
す)。アルベルトゥスが参照しているのも、どうやら『アスクレピウス』
のようです。ちなみに『アスクレピウス』は、たとえばイタリアの
Bompiani社のIl pensiero occidentaleシリーズの1冊。『Corpus
Hermeticum』
に収録されています。


*本マガジンは隔週の発行です。次号は7月07日の予定です。

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投稿者 Masaki : 2007年06月26日 23:18