2007年07月10日

No. 107

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.107 2006/07/07


------新刊情報--------------------------------
いよいよ本格的な夏ですが、ヴァカンスシーズンに合わせるかのように、
新刊もいろいろ出てきていますね。

『中世ヨーロッパの社会観』
甚野尚志著、講談社学術文庫
ISBN:9784061598218、1,050yen

92年に出た『隠喩のなかの中世』(弘文堂)の文庫化です。うーん、最
近は文庫化に際してタイトルを変更するのが流行っている(?)みたいな
のですが、ちょっと紛らわしいのでやめてほしいところですね。内容は、
中世の規範的な制度論において用いられた各種の比喩(蜜蜂、建造物、人
体、チェス盤など)についての詳細な分析です。それぞれの隠喩が時代と
ともにどう変遷し、どう意味合いを変えていったかを、史料を駆使して細
かく追っていくもので、小さいながら読み応えのある一冊です。

『ヨーロッパ中世の自由学芸と教育』
岩村清太著、知泉書館
ISBN:9784862850119、8,925yen

古代末期(5世紀)からカロリング・ルネサンスまでの自由学芸と教育を
追った研究ということで、カッシオドルス、イシドルス、アルクイン、ラ
バヌス・マウルスなどを論じているようです。後半には世俗の教育論など
も取り上げているようですね。

○『ミハイル・バフチン全著作7:フランソワ・ラブレーの作品と中世・
ルネサンスの民衆文化』
杉里直人訳、水声社
ISBN:9784891766283、10,500yen

バフチン全集に7巻目として『フランソワ・ラブレーの……』が登場。個
人的にもなつかしい一冊です。かつてはせりか書房から川端香男里訳で出
ていましたね。フランスのガリマールのTELシリーズで安く購入した記憶
があります。ラブレーを通じて民衆の想像力をすくい上げる様が実に刺激
的で、シャリヴァリなどのイメージは、同書のものが鮮烈に残ったように
記憶しています。これが再び新訳で蘇るとは!

『中世と近世のあいだ--14世紀におけるスコラ学と神秘思想』
上智大学中世思想研究所編、知泉書館
ISBN:9784862850126、9,450yen

個人的にこれはこの夏一番の注目作です。当代の主要な中世研究者たちが
一堂に執筆しています。扱うテーマも、ルルス、フライベルクのディート
リッヒ、マイスター・エックハルトからその後の神秘思想の系譜、ほかに
ガンのヘンリクス、ドゥンス・スコトゥスとその学派の流れ、オッカム、
ジョン・ウィクリフ、さらに14世紀の運動論、論理学、視覚理論、そし
て東方はビザンツの状況など、華麗な一大絵巻のようです。


------文献探訪シリーズ-----------------------
「イサゴーゲー」の周辺(その14)

スコトゥスの精緻化した「普遍」の考え方に対して、これを真っ向から否
定するのがオッカムです。オッカムの基本的なスタンスは、種や類といっ
たものは概念にすぎず、事物の側には個別(個体)しか存在しない、とい
うものです。

一例として差異(種差)をめぐる議論を見てみましょう。『大論理学』第
1部の20章以下はポルピュリオスへの注解と位置づけられますが、ここで
はその羅仏対訳版から23章を拾ってみます。オッカムによれば、差異
(ここで述べているのは種差です)は(事物の)本質に属するものではな
く、魂の意図(intentio animae)であり、(事物ではなく)魂の中に含
まれるもの(概念)の述語をなすものである、といいます。それは単に
「あるものが他のものではないと否定されるところを表す中名辞
(medium)」でしかなく、あくまで事物の定義に属するものなのだとい
うことです。例として「理性的(rationale)」が挙げられています。そ
れは人間を他の動物から分ける名辞なのであって、人間の実在的な本質に
属するのではなく、概念としての「人間」の定義に属しているだけにすぎ
ない、というのです。「すべての人間は理性的である。いかなるロバの理
性的ではない。したがって人間はロバではない」という三段論法を支えて
いるだけなのだ、と。

オッカムは、形相が質料を規定するように、定義においては種差が類を規
定するのだと述べます。「物体とは物質的な実体である」という定義の場
合、「実体」という類を「物質的な」という種差が限定しているのです
ね。この場合、種差は事物(ここでは類である「実体」に対応する事物)
の一部分を表している、ということにもなります。こうして種差は、事物
の定義に中に置かれる、その事物の一部分を表すものとされるのです。こ
こにはもはや、事物とその定義にまつわる存在論は介在していません。中
世を通じて長く深く存在論のほうに浸っていたポルピュリオスの範疇論
は、ここへきて再び論理学的に引き戻されていると言ってもよいでしょ
う。ここでは割愛しますが、種も類も差異も、もはや事物の側にではな
く、それを認識する心理(魂)の側、つまり概念として整理されているの
です。

事物とそうした「普遍」との間に直接の関係を置かない、という意味で
は、オッカムもスコトゥスと類似の立場を取っているように見えます。で
すが両者は根本的な方向性が違います。別のテキストを見てみましょう。
『オルディナティオ(センテンティア注解)』です。ここではスコトゥス
の議論への反論が逐一述べられていきます。同書の第1巻第2部問題6を、
再びスペードの英訳と、今回は渋谷克美氏の羅日対訳版で少しだけ見てお
きます。

オッカムは、スコトゥスの推論面を批判した後、その言明に対する批判を
行うという二段構えで徹底的に論駁します。この言明に対する議論では、
とりわけ個体的差異(上の種差とはまた別の問題です)が問われます。
オッカムはまず、本性の先行性を否定します(三位一体を引き合いに出し
ています)。次いで、個体的差異が本性とはイコールではないという説
(スコトゥスの場合には、個体的差異は共通本性の個体化において加わる
付加的なものなのでした)も正しくないとします。オッカムは、個体的差
異は個体の「何性」(quidite:それが何であるかということ)に属し、
したがってそれは事物の(実在的)本質に属すると考えます。次に、本性
は個体に対して中立だという点も矛盾を生じると指摘します(これは上の
何性の議論に関係します)。さらに、スコトゥスが数的な一に対する弱い
一性を想定している点も批判します。本性が弱い一性だとするなら、上の
議論から個体的差異を伴っても弱い一性のままだということになってしま
い、個体も数的な一ではなくなってしまう、というわけです。

オッカムの反論は一貫して論理学的な矛盾をついていくというものです
が、そうした議論の後で、今度は自説を述べています。まずは端的に「個
別的な事物はそれ自体個別である」としています。個別は、(実在論的
に)それに何かが加わって普遍になったりするのではなく、共通本性も、
それに何かが加わって個別になったりするのではない、というわけです
ね。次に今度は「心の外にあるのは個別だけであり、それらは数的に一で
ある」とします。オッカムはそうした自説を前提として、そこから共通本
性や普遍といったものがいかに成立していくのかを考えていこうとしま
す。その先に、『大論理学』などで展開する代示理論などが控えているの
ですが、それはまた別の機会に見ていきたいところです。

とりあえず今の話で言えば、個別と共通本性とが断絶しているという立場
はスコトゥスにもオッカムにも見られるものですが、スコトゥスが共通本
性から個別の成立を考えていたのに対して、オッカムはむしろベクトルを
逆転させ、個別から共通本性なるものの成立を考えようとしています。そ
の際にオッカムは、共通本性が心の中でのみ、概念としてのみ成立するも
のと考えるのですね。オッカムが唯名論と言われるゆえんです。その立場
はある意味、近・現代の記号論の嚆矢のようにも見えます。オッカムに端
を発する唯名論からの流れは、非常に長い射程を誇っていました。とはい
えスコトゥスの系譜も必ずしも絶えてはいません。それはやがて、思いが
けない形で復活するようです。
(続く)


------古典語探訪:ギリシア語編----------------
「ハリポ」で復習、古典ギリシア語文法(その7)

ハリー・ポッターの映画版は5作目が公開になりますね。原作も完結編の
予約が始まったとか。古典ギリシア語版は続刊は出ないのでしょうか?
ま、ともかく、私たちはゆっくりと1巻冒頭の続きを見ていくことにした
いと思います。今回の原文テキストはこちら(http://
www.medieviste.org/blog/archives/A_P_No.7.html
)。

he^ gar adelphe^ he^ te^s Doursleias e^n gune^ tou Pote^ros・ ou
me^n oude sunegenonto alle^lois polla ete^.

前半は特に問題はないと思います。冠詞が名詞と形容語句で繰り返される
のももうおなじみですね。adelphe^は「姉妹」。ここでまでで「という
のも、ダースレー夫人の妹はポッターの妻だったからだ」。me^nは強調
を表す小辞。sunegenontoはsungignomai(会う)のアオリスト。
alle^loisで「互いに」。polla ete^で「何年も」。全体で「もっとも、彼
女らは互いに何年も会っていなかったが」。

ekeine^ d' oun eiro^neuomene^ ouk ephe^ echein adelphe^n
oudemian.

ekeine^は「その」。d' ounはde oun。ounは「そこで」、
eiro^neuomene^はeiro^neuomai(知らぬふりをする)の分詞(名詞用
法)。ephe^はphe^mi(言う)の未完了過去。その目的語が不定詞句
echein adelphe^nになっています。oudemianは「一人たりとも」とい
う強調の否定辞。これで「しかもそこで彼女は知らぬふりをし、妹がいる
などとは決して口にしなかった」。

pantapasi gar ek diametrou einai ta te^s heauto^n diaite^s kai ta
to^n suggeno^n, te^s te adelphe^s kai tou andros ekeinou
kakoe^thous ontos.

pantapasiは「まったくもって」。ek diametrouで「正反対に」。
diaite^sは「暮らしぶり」の属格。ここは定冠詞とともに用いられて漠然
と「事象」を表す属格の用法でしょう(たとえばto te^s tuxe^sという
と、「運命の事柄」の意味になります)。suggeno^nは「家族の」。こ
れで「自分と家族の暮らしぶり」。kakoe^thous ontosで、「悪い存在
の(良いところがない)」。全体で「というのも、自分とその家族の暮ら
しぶりは、妹とその何の取り柄もない旦那の生活とはまったく対極的だっ
たからだ」。

今回はpolla ete^という言い方が出てきたので、ついでながら、年数を表
す表現を辞書から抜粋しておきます。
毎年:hekastou etous または kata etos
5年ごと:ana pente etea
5年目ごと:di' etous pemptou
来る年も来る年も:etos eis etos


------文献講読シリーズ-----------------------
アルベルトゥス・マグヌスの天空論・発出論を読む(その6)

前回までは「天空は魂によって動かされている」という立場の諸説を紹介
している箇所でした。今度はそれに対する反論が紹介されていきます。

# # #
Contra hanc opinionem disputat Averroes et Rabbi Moyses et
multi alii philosophorum arabum quinque ratones potissime.

Quartum prima est, quod intelligentia semper et ubique uno modo
se habet. Eius igitur quod semper et ubique eodem modo se
habet, ipsa erit causa. Motus autem cuiuslibet caeli semper et
ubique eodem modo se habet. Motus igitur caeli potius erit ab
intelligentia quam ab anima, quae per imaginationem et
electionem non eodem modo se habet.

Secunda est, quod anima per imaginationem et electionem mota
ad aliquid, illo motu non procedit ulterius, sed stat in ipso et
fruitur illo. Nulus autem motus calestis est, qui stet in aliquo.
Motus igitur caelestis ab anima non est.

Tertia ratio est, quod omne mobile a perfectione sui motoris
necesse est in multis deficere. Motus enim infinitus est secundum
virtutem, mobile autem finitum. Si ergo aliquod mobile sit, cuius
motus est supra virtutem animae, illius motor anima esse non
potest. Anima autem, sicut iam habitum est, determinata est ad
unum per imaginationem et electionem, quod in una tantum
differentia situs est. Si ergo mobile est tale quod secundum
omnem partem mobilis ad quamlibet differentiam situs movetur,
illud secumdum omnem partem sui ubique est et non hic vel ibi
tantum. Motus ergo ille supra virtutem animae est. Ab anima igitur
non est motus caelistis. Cuiuslibet enim caeli quaelibet pars ad
quamlibet movetur situs differentiam.

こうした考えに対し、アヴェロエスとモーセス師、その他多くのアラブの
哲学者たちは、主に5つの議論を展開する。

まず一つめはこうである。知性はいかなる場所でも常に、みずから一つの
様態をなす。それがいかなる場所でも常に一つの様態をなすのは、みずか
らがその原因であるからだ。しかるにどの天空の動きも、いかなる場所で
も常に一つの様態をなしている。したがって天空の動きは、魂によるとい
うよりは知性によるのである。前者は想像力と選択的意志のせいで、同じ
様態をなさない。

二つめはこうである。魂は想像力と選択的意志のせいで、何かへ向けて動
かされるが、その運動によってさらに先に進むことはなく、おのれのもと
にとどまり、その運動を享受する。しかるに、何かにとどまるような天空
の運動は存在しない。したがって天空の運動は魂によるものではないので
ある。

三つめはこうである。すべての可動体は、その動因となるものの完全さに
対し、様々な点で欠損せざるをえない。というのも、運動は潜在力として
無限である一方、可動体のほうは限定的であるからだ。したがって、なん
らかの可動体があり、その運動が魂の潜在力を超えている場合、その動因
は魂ではありえない。しかるに魂は、すでに確認したように、想像力と選
択的意志によって一つのもの、つまり一つの位置的差異に向かうよう決定
づけられている。可動体がすべての可動な部分に即し、なんらかの位置的
差異に向かって動かされるとするならば、それぞれの部分に即してそれぞ
れに向かい、ここ・そこといった特定の場所に向かうのではなくなる。す
るとその運動は魂の潜在力を超えたものとなる。天空の運動は魂によるの
ではない。というのも、天空のそれぞれの部分は、いずれかの位置的差異
に向かって動かされるからだ。
# # #

1段落目のモーセス師というのはユダヤ教の思想家マイモニデス(1138 -
1204)のことですね。その主著の一つ『迷える者への手引き』の第二部
4章には、次のような話が記されています。天球には魂がある。その円環
運動は直線的な運動とは違い自然によるものではなく、よって魂の存在が
証される。けれども、もし魂をもつもの(動物)のように、何かを求めた
り、何かを逃れるために動くのであれば、その目的に達した段階で動きが
止むはずである。ゆえに円環運動においてはなんらかの「知的概念」がな
ければならない。そうした概念は知性の中にしかありえず、したがって天
球を動かしているのは知性なのである……。これはちょうど上の二つめの
議論に重なります。ですが、それに続けてマイモニデスは、知的概念を抱
く知性はみずからは動いたりはしないと述べ、魂だけでも知性だけでも円
環運動にはいたらず、両者が結びつき知的概念への欲望が生じる必要があ
るとしています(その場合の欲望の対象は神にほかならない、とも述べて
います)。

マイモニデスはアリストテレスに準拠しているわけですが、明らかにそれ
は、アラブ系の注解者たちを経たアリストテレスです。アヴェロエスもま
たアリストテレスの注解で名高い思想家ですね。アルベルトゥスが参照し
ているのは『天空と世界について(De caelo et mundo)』ですが、残
念ながら現在手元にその書がないので、ここでは中身の紹介はできませ
ん。ただ、アヴェロエスはマイモニデスの同時代人で親交もあったよう
で、宗教こそ違えど、同じような文化的遺産を受け継いでいたことは間違
いありません。アリストテレス関連のほかの議論をみても、そのことが感
じられます。


*本マガジンは隔週の発行です。次号は7月21日の予定です。

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投稿者 Masaki : 2007年07月10日 19:49