2007年07月24日

No. 108

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.108 2006/07/21

*いつもご愛読いただきありがとうございます。本メルマガは隔週での発
行ですが、例年どおり8月は半ば過ぎまで夏休みとさせていただきます。
そのため次号の発行は8月25日となります。よろしくお願いいたします。

------文献探訪シリーズ-----------------------
「イサゴーゲー」の周辺(その15--最終回)

スコトゥスやオッカムには、それぞれ彼らの思想を継承する人々が現れ、
いわゆるスコトゥス派、オッカム派などが登場してくるようです。前号の
新刊情報でも取り上げた『中世と近世のあいだ』(上智大学中世思想研究
所編)
には、スコトゥスの後継として偽カムプザルのリカルドゥスを、
オッカムの後継としてアダム・デ・ヴォデハムをそれぞれ取り上げた二編
の論考が収録されています。それらを見ると、継承者たちはまた少しずつ
議論を変貌させながら、それぞれの思想を擁護し伝えていくことがわかり
ます。その変貌の有様は、ポルピュリオスをボエティウスが、あるいはア
ベラールが、受け継ぎながらも新たな解釈を加え変化させていく過程とど
こかパラレルにも思えますね。そのようにして思想の流れは続いていくも
のなのだ、ということを改めて感じさせてくれます。

こういう「派」というのは、えてして後世の人々が遡及的に考える括りの
ようなもので、あまり意味はないのかもしれませんが、少なくとも後継者
がいて、継承元の思想を組織的にまとめあげて初めてその思想内容は後世
に伝えられていくのですから、その意味では「派」というのも一概には軽
視できないように思えます。いずれにしても、オッカム的な唯名論の流れ
も、またオッカムが一刀両断にしたかに見える実在論も、引き続き14世
紀以降も存続していくようです。

ルネサンス期以降の実在論・唯名論の流れというのはまったくの不勉強な
のですが、そのあたり、どう継承されていくのかというのも面白そうな問
題ではあります。大局的には、さらに後のデカルトを経てカントにいた
り、実在論は一度葬られるかに見えますが、思想史の常というのでしょう
か、近世さらに近代にいたっても、実在論の系譜は不死鳥のように蘇って
くるのですね(新スコラ哲学など)。特にスコトゥス思想に関しては、
19世紀後半にC.S. パース(記号論の祖として有名な)によって再び取り
上げられるというのが象徴的です。

さる3月に出た雑誌『大航海』no.62は「中世哲学復興」という特集を組
んでいて、その中に、パースの1877年頃の草稿だという「観察の新しい
クラス」という一文が邦訳されています(三谷尚澄訳)。そこでのパース
は、思考の対象として「感覚」(完全に決定された個別対象)と「概念」
(未決定をふくむ一般的な思考対象)の二つを措定することが、そのもも
個体化の問題(個物が一般者とどう異なるか)を困難にしていると述べ、
一般者(普遍)を完全否定したオッカムに対し、「最も具体的な事物でさ
えいくぶんかの未決定性をもつ」として、むしろ完全に決定された個物こ
そが存在しないのだと主張しています。思考の感覚的要素だけがあるとい
うのですね。これはスコトゥスが、個物と一般者はまったく異なるものだ
としながら、その一方で両者の間の区別は一般化されない奇妙なものだと
し、どこか一元論的な指向性を示しているのを受けて、その指向性を大き
く前進させた議論だと言えそうです。パースは、たとえば感覚の強度の差
異(色合いの違いなど)といったものが、きわめて一般的なものとして存
在する(感覚強度は未決定・不確定なものなのです)と考えており、個物
とされるものは(スコトゥス流に)あくまでそうした不確定なもの(一般
者)が縮減(contractus)されでできるのだと見なしているようです。

一元論的な指向性という意味では、オッカム的な唯名論、あるいは観念論
とわずかに紙一重の立場なのですが、その先に展開する世界観は大きく異
なってきます。訳者解題に一部訳出されている文章で、パースは、思考、
存在、発達過程のいずれでも、「確定されないものは、完全な確定性とい
う最初の状態からの退化に由来する、という先入観を取り払いなさい」と
提言しています。これは中世に存在論化した実在論が基本前提としてい
た、神の側からの発出論を根底から逆転させた立場です(発出論の図式で
は、完全な一から不完全な多が発するのでした)。パースはカオスから発
する秩序といった豊かな問題領域を引き寄せ、やがては現代物理学にも重
なるような広大な宇宙論を展開していくのですが、その根底を支えている
のは、普遍と個別を「決定性・確定性」の強度によって読み替えるとい
う、この逆転の一撃らしいのです。こうした新たな展開を経て、実在論と
唯名論をめぐる議論は、現代にも息づいているのかもしれません。

さて、以上15回にわたり、「イサゴーゲーの周辺」と題して、表題のテ
キストの受容と派生について大まかな輪郭をたどってきました。ポルピュ
リオスのテキストから発した問題は、ずいぶん遠くにまで残響を残してい
ることがわかる反面、もっと丹念に精査する必要も痛感されます。ポル
ピュリオスのテキストの注解を記している中世の思想家はまだほかにも数
多くいるようですし、トマス・アクィナスの立場や、14世紀以後の展開
にも興味深い部分があります。それらはまた今後の課題ということで、形
を変えて取り上げていけたらと思います。

なお、この文献探索シリーズはまた新たなテーマで秋ごろから再開したい
と思います。
(了)

------古典語探訪:ギリシア語編----------------
「ハリポ」で復習、古典ギリシア語文法(その8)

古典ギリシア語版ハリー・ポッターを一文づつ読んでいるわけですが、よ
うやく今回のところで底本の1ページ目が終了です(笑)。文法事項の確
認もまだ始まったばかりで、まだまだ先は長いですが、とりあえず進んで
いきましょう。今回のテキストはこちらです(http://
www.medieviste.org/blog/archives/A_P_No.8.html
)。

kai gar mal' o^rro^doun loidorian te kai kakologian ophlein ek
to^n ple^sion, aphikomeno^n pot' ekeino^n deuro.

mal' はmalaで「とても」。o^rro^dounはorro^deo^(恐れる)の未完
了過去(3人称複数)。loidoriaは「非難」。kakologiaは「悪口」
(kakos + logos)。これらは次のophleinの目的語になっています。
ophleinはophliskano^(被る)の第2アオリストの不定詞で、不定詞句
全体がorro^deo^の目的語になっているわけですね。ek ton ple^sionは
副詞句で「隣人から」。それ以下は分詞構文で、属格で条件その他の付帯
状況を表します。aphikomeno^nはaphikneomai(やって来る)の分詞
形。pot' はpote、deuroは「ここへ」。全体をつなぐと、「また、いつ
か彼らがここへ現れたなら、近所からの誹謗中傷を被ることになる、とた
いそう恐れていたからでもある」。

kai e^idesan men paidiskon gegene^menon kai tois Pote^rsin,
heo^rakesan d' oudepote.

e^idesanはeido^(知る)の未完了過去。paidiskosは「息子」。
gegene^menonはgignomai(生まれる)の完了形の分詞。
heo^rakesanはorao^(見る、会う)の完了形。d' oudepoteはde(反
意を表す小辞)+oudepote(一度も〜ない)。全体で、「また、ポッ
ター夫妻にも息子があることは知っていたが、一度も会ったことはなかっ
た」。

dia de touto prothumoi e^san apeirksai tous Pote^ras apo tou
de^mou, allo^s te kai elpizontes Doudlion ton huion me^
homile^sein to^i toiouto^i paidi.

dia toutoで「そのため」。prothumosは形容詞で「〜しようとする、〜
する気がある」の意。apeirksaiはapeirgo^(離しておく、近づけない)
のアオリスト。ここでは不定詞になっています。目的語に対格をとって、
apo以下で「〜から」と、何から離しておくかを示します。de^mosは
「土地」。allo^sは副詞で「別様に」の意。ここでは「さらに」という感
じかもしれませんね。elpizontesはelpizo^(望む)の分詞で、それ以下
が目的語(ここでは不定詞句全体)になります。Doudlion ton huionで
「ダドリーの息子」。これは不定詞homile^sein(一緒にする)の目的語
になっていて、me^の否定辞で打ち消しています。toi toioutoi paidiで
「そのような子に」。全体で「そのためいっそう、ポッター家をその地に
近づけたくなかったのだ。ダドリー家の子息がそのような子と一緒くたに
されないようにと考えて」。

今回の復習ポイントは完了形でしょうか。完了形の形は、基本的に語頭の
重複と接尾辞kaを付けるのでした(例:paideuo^(教える) →
pepaideuka、phuteuo^(植える)→ pephuteuka)。二つ以上の子音
で始まる場合にはeを語頭に付けます(例:ktizo^(建てる)→ ektika、
ze^teo^(探し求める)→ eze^te^ka)。母音で始まる場合には、長母音
化します(例:aiteo^(求める)→ e^ite^ka、orthoo^(正す)→
o^rtho^ka)。ほかにも若干の規則がありました。分詞形も含めて(各時
制に分詞形があるのは、煩雑なようで実に便利にできているのですね)文
法書で確認しておきたいところです。


------文献講読シリーズ-----------------------
アルベルトゥス・マグヌスの天空論・発出論を読む(その7)

「天空は知性によって動かされている」という議論の紹介部分の続きで
す。さっそく見ていきましょう。

# # #
Quarta ratio est, quia universalis motus est ante particularem
motum sicut causa ante effectum. Dico autem universalem, qui ad
ubique est secundum differentiam situs proprii loci; particularem
autem, qui est ad hic vel ibi esse. Universalis autem motus ab
universaliter movente vult esse. Universaliter autem movens non
anima est, sed intelligentia. Motus igitur circularis caelestis ab
intelligentia et non ab anima.

Quinta ratio est, quod si motus caeli esset ab anima imaginante et
eligente, motus caeli quantum ad imaginationem et electionem
univocus esset motui animalium et similiter motor motori esset
univocum. Et ex hoc sequeretur, quod etiam mobile mobili esset
univocum. Quod valde absurdum est. Absurdum igitur est, quod
motus caeli sit ab anima imaginaiva et electiva.

Si autem ab istis quaeritur, quomodo hoc quod dicunt, possit
esse, cum omnis motor coniunctus et immediatus sit mobili, sicut
in principio VII Physicorum probatum est, intelligentia autem
separata est et nulli per naturam coniuncta, dicunt, quod
intelligentia per lumen suum emissum in hoc vel in illud sive per
lumen influxum huic vel illi efficitur immediata et coniuncta. Dicunt
enim, quod intelligentia esse in nobis vel in quibuscumque nihil
aliud est quam ilustrationes intelligentiarum esse in nobis vel in
quibuscumque. Illustratio autem haec est in propinquis quidem
iuxta intelligentiam per lumen, quod secundum rationem et rem
intellectuale est; in remotis autem est per casum ab illo; sicut in
seminibus plantarum et animalium, in quibus non est per rationem
intellectualis luminis, sed per rationem tantum intellectualiter
formantis. In caelo igitur, quod proximum intelligentiae est,
utramque retinet rationem eo quod ibi est intellectualiter illustrans
et intellectualiter movens. (...)

四つめはこうである。原因が結果に先立つように、普遍的な運動は個別の
運動に先立つ。この場合の普遍的なものとは、それぞれの場所の位置的な
差異に即していたるところにあるものを言う。一方の個別的なものとは、
ここ・そこにあるものを言う。ところで、普遍的なものの運動は普遍的に
運動するものによるのでなくてはならない。しかるに普遍的に運動するも
のは魂ではなく知性である。よって天空の円環運動は知性によるものであ
り、魂によるものではない。

五つめはこうである。仮に天空の運動が、想像力と選択的意志をもった魂
によるのであるのなら、天空の運動は、想像力と選択的意志によるという
意味において、魂の運動に一義的な関係をもつことになり、同じく動因は
動因に一義的関係をもつことになる。するとここから、可動体は可動体に
一義的関係をもつことが帰結される。しかしながらこれはなんとも不合理
である。よって、天空の動きが想像力と選択的意志をもった魂によるとい
うのも不合理である。

以上のことから、上に語られた内容がいかにして可能なのかを考えてみる
ならば、まず『自然学』七巻に原理として考えられたように、あらゆる動
因は可動体に直接的に隣接しているとされる一方で、知性は分離してい
て、自然にはまったく隣接していないとされるが、知性は、これ・それへ
と発するみずからの光、あるいはこれ・それへと注がれる光によって、直
接的に隣接するのである。というのも、知性がわれわれないし任意の者の
もとにあるというのは、知性の照明がわれわれないし任意の者のもとにあ
るということにほかならない、とされているからだ。しかしながらその照
明は、光において知性に隣接し、それと類似の関係にある。それは理性と
知的事物にもとづいているのである。しかるに(照明から)遠くにあると
いうのは、それからこぼれ落ちていることをいう。ちょうど植物や動物の
種(たね)の場合のように。その場合、(照明は)知的な光の理性にでは
なく、知的形成者の理性にのみ存する。したがって、知性に最も近い天空
の場合、(照明は)両方の理性をとどめおく。つまり知的に照らし、かつ
また知的に動かす理性である。(……)
# # #

3つめの段落は長いために途中で切っています。アリストテレスが原因と
結果は隣接していなくてはならないと述べるのに対し、アルベルトゥスが
立脚するアヴィセンナ思想では、魂の機能の一部とされる知性は超越論的
に分離していることになっています。両者の矛盾を解消しなくてはならな
いわけですが、この箇所では、知性を光に見立てることによって、そうし
た矛盾を解消しようとしています。

上で言う知性(intelligentia)は、アヴィセンナならば能動知性と言うべ
きところかと思われます。アヴィセンナの考え方では、能動知性は単一の
ものとして天上世界にあって、それが地上の人間の魂にある可能知性に働
きかけ、可能知性は知解対象を受け取り、かくして知解が成立するとされ
ます。一方、アルベルトゥスはというと、能動知性もまた魂の一部をなし
ていると考えているようなのです。これは両者の大きな違いなのですね
アルベルトゥス『知性の単一性について』伊語訳へのアンナ・ロドル
フィの序文にもとづいています)。とはいえ、アヴィセンナにしろアルベ
ルトゥスにしろ、魂の中の知性が働くためには神の知性の「光」が必要だ
とする点は一致しています。アルベルトゥスの場合には能動知性は魂の中
にあるとされ、天上から注ぐ知性の光とは同一視なされないので、上の箇
所でも「能動知性」とは言わず単にintelligentiaとだけ言っているので
しょう。天上世界の知性を光(lumen)とし、魂の側の知性を照明
(illustratiio)として使い分けているのも注目されます。

植物と動物の種(たね)という話も出てきますが、作用因としての知性と
は別に、形相因としての知性も考えられていることがわかります。知性と
いうか、むしろ魂についてですが(知性はその部分的機能です)、魂と身
体の関係を原因・結果の関係とする考え方は、初期のアリストテレス注解
者たち以来の伝統になったといわれます。とりわけ後代のアンモニオス
(プロティノスの師匠)門下において、魂を身体の目的因、作用因、形相
因として解釈する立場が定着するようです(『ケンブリッジ・アラビア哲
学必携』
によります)。このあたりはちゃんと検証してみたい論点なので
すが、ここではさしあたり、魂の形相因としての機能という話をアルベル
トゥスも継承していることを確認した上で、続きを読んでいきたいと思い
ます。


*本マガジンは隔週の発行ですが、夏休みのため次号は8月25日の予定で
す。

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投稿者 Masaki : 2007年07月24日 23:38