2008年07月01日

No.129

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
silva speculationis       思索の森
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.129 2008/06/21


------新刊情報---------------------------------
このところ、比較的若い論客たちの間で「ナショナリズム」議論が再浮上
しているようです。そこでのナショナリズムとは、要するに国家について
批判を含めて考察するということのようで、社会システムの不備がこれほ
ど言われれば、当然「国」の問題についての議論も避けては通れなくな
る、というところらしいのですが、ナショナリズムというともう一つ「民
族中心主義」の意味合いもあるせいで、その手の議論ではときに微妙な両
義性の揺れ、あるいは横滑りが問題になってきたりもします。「ナショナ
リズム」概念ももとは西欧のものですから、いずれにしてもその歴史的意
味・文脈はやはりきちんと押さえておく必要がありそうです。で、そんな
中、ちょっと面白い本が刊行されていますね。今回はまずそれからです。

『ネイションという神話--ヨーロッパ諸国家の中世的起源』
パトリック・J・ギアリ著、鈴木道也ほか訳、白水社
ISBN:9784560026328、3,800yen

欧州のエスニック・ナショナリズムの起源をめぐる一冊のようです。欧州
では、とりわけ初期中世史家の研究が、過去の歴史解釈をめぐるアクチャ
ルな問題、とりわけ民族の正当性の主張などに用いられることがあるとい
います。そうしたどこか安易な、あるいは意図的な(イデオロギー的な)
流用は、初期中世の民族状況についてきちんとした知識が為政者その他に
ないからだ、と同書の著者は言い、そのわずかながらの是正に貢献するた
めに同書が書かれたのだとしています。というわけで、同書は古代末期・
中世初期についての歴史学からの誠意ある対応ということのようです。こ
れはぜひ一読してみたいところです。

さて、今回は毎年恒例の共同復刊事業「書物復権」が今年も行われていま
す。今回はそこからのめぼしいものを挙げておきましょう。

『プラートの商人--中世イタリアの日常生活』
イリス・オリーゴ著、篠田綾子訳、白水社
ISBN:9784560026335、5,880yen

これは初版が1997年のようですから、10年ぶりでの復刊ですね。1870
年に発見されたという、中世の商人による書簡15万通を読み解いて、当
時の暮らしぶりを浮かび上がらせるというもの。単純に面白そうです。

『異端カタリ派の研究--中世南フランスの歴史と信仰』
渡邉昌美著、岩波書店
ISBN:9784000001298、10,185yen

もとは1989年刊行。一次資料の異端審問記録をもとに、カタリ派の内部
構造や分派の様子などを再構成したという労作。ちょっと値は張ります
が、こういう重要な著作が復刊するのは嬉しい限りです。

『千年王国の追求』
ノーマン・コーン著、江河徹訳、紀伊國屋書店
ISBN:9784314010498、5,040yen

もとは1978年刊行。ヨアキム以降16世紀までの千年王国思想の変遷を
追ったいわば基本書ですね。

『書物の本』
ヘルムート・プレッサー著、轡田收訳、法政大学出版局
ISBN:9784588000409、4,725yen

邦訳の初版は1973年。いまでこそ書物史は文化史の王道という感じにな
りましたが、これはその比較的早い時期の通史です。著者はグーテンベル
ク博物館の館長を務めた人物なのですね。


------古典語探訪:ギリシア語編-----------
ギリシア語文法要所めぐり(その14:原因節、目的文)
(based on North & HIllard "Greek Prose Composition")

数回にわたり、節や文の用例の大雑把なまとめをしましょう。まず原因節
(原因を表す節)です。英語ならbecause以下となるようなものです
ね。接続詞はhotiやdioti(これらはすでに生じたことの理由を表しま
す)、ho^sなどを使います。英語のsinceにあたるものとして、epei、
epeide^なんてのもあります。

節内の動詞は普通に直説法でOKです。ただ、誰が推量している理由とい
うニュアンスを込めるときには希求法にします。とはいえ、これはそんな
に多くないケースだと思われるので、作文などをする上では、まあ直説法
で問題ないでしょう(笑)。

次に目的文です。まずは節での用法。接続詞はhina、hopo^sを用い、節
内の動詞は接続法にします。過去時制の場合には希求法を用いるという
ルールもありますが、その場合でも接続法が用いられることがしばしある
のだとか。ですから、基本は接続法ということで問題なさそうですね。

目的文はまた、未来形の分詞を使って表現することもできます。ho^sを
つけると、不確定な目的を表せます。また、関係詞hostisを用い、節の内
部を直説法未来にして目的を表すことも可能です。

例文です。「ホメロスはアガメムノンを讃えた。彼が良き王だったから
だ」「彼らが長いこと回答をよこさなかったせいで、僕は遅れをきたし
た」「居合わせるために、私は急いだ」「誰にも見られぬよう、われわれ
は速やかに進まなくてはならない」「われわれは和平を結びにやってき
た」「王にこのことを告げるため、彼らは使者たちを送った」

1. Home^ros epe^inesen Agamemnon hoti agathos eie^ basileus.
2. epei polun chronon ouk apekrinonto, epeichon.
3. espeusa hina pareie^n
4. dei he^mas tcheo^s procho^rein hina me^deis he^mas ide^i.
5. he^komen eire^ne^n poie^somen.
6. presbeis epempsan hoitines tauta apaggelousi to^i basilei.

原文はこちら(→http://www.medieviste.org/blog/archives/GC_No.
14.html
)。とまあ、こんな調子で、次回も節や文について見ていきま
しょう。


------文献講読シリーズ-----------------------
トマス・アクィナスの存在論を読む(その6)

今回は第二項のアンチテーゼとジンテーゼ部分です。さっそく見ていきま
す。

# # #
Sed contra est quod Apostolus dicit, ad Rom. I, 20: invisibilia Dei
per ea quae facta sunt, intellecta, conspiciuntur. Sed hoc non
esset, nisi per ea quae facta sunt, posset demonstrari Deum esse:
primum enim quod opportet intelligi de aliquo, est an sit.

しかるに反論として、「ローマ人への手紙」Iの20で使徒が述べている次
のことが挙げられる。すなわち、「神の不可視性は、被造物により知ら
れ、かつ認められる」。しかしながらそれは、被造物によって神が存在す
ることが論証できない限りありえないだろう。何かについてまず最初に知
解されなくてはならないことは、それが存在するかどうかである。

Respondeo dicendum quod duplex est demonstratio. Una quae
est per causam, et dicitur propter quid: et haec est per priora
simpliciter. Alia est per effectum, et dicitur demonstratio quia: et
haec est per ea quae sunt priora quoad nos: cum enim effectus
aliquis nobis est manifestior quam sua causa, per effectum
procedimus ad cognitionem causae. Ex quolibet autem effectu
potest demonstrari propriam causam eius esse, si tamen eius
effectus sint magis noti quoad nos: quia, cum effectus
dependeant a causa, positio effectu necesse est causam
praeexistere. Unde Deum esse, secundum quod non est per se
notum quoad nos, demonstrabile est per effectus nobis notos.

私は次のように述べて答えとしよう。論証は二種類ある。一つは原因によ
る論証であり、「なにゆえに(そうであるのか)」の論証と言われる。こ
れは単純に先行するものによる論証である。もう一つは結果による論証で
あり、「なんとなれば(そうであるから)」の論証と言われる。これは私
たちにとって先行するものによる論証である。つまり、私たちにとってよ
りなんらかの結果が原因よりも明らかである場合、私たちは結果をもとに
原因の認識へと進んでいく。どのような結果からであろうと、その結果が
私たちにとって(原因よりも)いっそう知られるものであるなら、それ自
身に固有の原因が存在することを論証できるのである。というのも、結果
が原因に依存する以上、結果の位置に対して原因は先に存在していなくて
はならないからだ。ゆえに、神が存在するということは、それ自体ではわ
れわれにとって知り得ないことだが、われわれにとって知られる結果に
よって論証可能なのである。
# # #

アンチテーゼ部分で紹介されている、まず存在が知られなくてはならない
という部分は、本質に対して存在に重きを置く点で反本質主義と言えそう
ですね。これは思想史的には結構重要なので、次回以降に改めて振り返っ
てみたいと思います。ひとまず今回は、テキストへのコメントというより
も、前回の脱線の続きという感じで話を進めます(苦笑)。

前回、essentiaとens、esseとactus essendiがそれぞれ可能態・現実態
の関係にあるのでは、という話をしてみましたが、これとはまた別の観点
を、山田晶の大作『トマス・アクィナス<エッセ>研究』(創文社、
1978)が示しています。『神学大全』の全テキストを走破し、esse、
essentia、exsistereなどの用例を包括的に検討したというだけあって壮
観な一冊ですね。で、そこでは、esseとactus essendiは同一的に見据え
られて、esseなるものは、現実にあるものを成立させる「形相の地位」
にある、という議論が示されています。質料と対立する形相という意味で
はなくて、可能なものを現成化するという意味で形相的なものだ、という
わけです。原理と言い換えてもよいかもしれません。

それをもとに、各項の関係は「ensとは、essentiaがesseを与えられて
(受け取って)exsistereするもの」という形で整理されています。この
esseを「与えられて(受け取って)」という言い方は、考えてみるとわ
かったようでよくわからない部分でもあります(なにゆえ?どのようにし
て?などなど)。そういう意味では、esseを形相的なものとする整理は
大変魅力的ではあります。esseが原理としてessentiaに働きかけるとい
うことになり、上記のような疑問を差し挟まずに済むからです。また、
esseを現実化の原理と見なすならば、第一原理としての神に由来する原
理ということにもなり、その意味で存在の分有という議論をも射程内に収
めることもできます。でも、ちょっと腑に落ちない点もないわけではあり
ません。esseは「『ある』の現実態」、すなわちactus essendiであると
同書は述べています。esseはこの場合、現実態の側に置かれるのです
ね。

ですが、前回見た『デ・ヘブドマディブス注解』からすれば、esseは可
能態の側に置かれる印象を受けます。とするなら、esseとactus essendi
を分けて考えることもできるのではないか、つまり、原理としての機能は
むしろactus essendiに集約させてしまってもよいのではないか、とも思
えてきます。とくに地上世界の被造物については、esseとactus essendi
は乖離していると見たほうが、あるいは議論はすっきりするのではないで
しょうか?神だけは、actus purus essendi(存在の純粋な現実態)と言
われるように、esseが可能態的な位置取りをせずに、acutus essendiと
一体になっている、というふうには見られないでしょうか?

これはまだ印象の段階ですので、このような理解が妥当かどうか、検証の
ためには別のテキストの参照やさらなる論究が必要になりますが、それは
追々行っていくことにして、さしあたり、トマスの存在論がなおかつ開か
れた読み方ができるかもしれない、なんて夢想するのは楽しいことです。
改めて考えてみると、些末にも思えるこのような論点のシフトこそが、ま
さしくスコラ学が行っていたことそのもののようにも思えてきます。なん
だかその力学を身をもって追体験できるかもしれないなどと、つい妄執的
に期待してしまいます(苦笑)。


*本マガジンは隔週の発行です。次号は07月05日の予定です。

------------------------------------------------------
(C) Medieviste.org(M.Shimazaki)
http://www.medieviste.org/
↑講読のご登録・解除はこちらから
------------------------------------------------------

投稿者 Masaki : 2008年07月01日 23:03