2008年07月14日

No.130

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.130 2008/07/05

------文献探索シリーズ-----------------------
「単一知性論」を追う(その1:序)

今回から新しい連載を始めます。いまさらというのは百も承知ですが、悪
名高い(苦笑)「単一知性論」を改めて取り上げてみたいと思います。
「単一知性論」はアヴェロエスが提唱したものとされ、トマスが論駁した
ことで有名ですが、その内実はそれほどはっきりとは知られていなかった
りもします。そもそもそれはどういうもので、なにゆえに論駁されなくて
はならなかったのか、何が問題だったのかなど、基本的なことをちゃんと
まとめてみる必要がありそうです。

なにかと便利な仏語版の『中世辞典』("Dictionnaire du Moyen Age",
Alain de Libera)などを見てみると、そもそも単一知性論は「ラテン・
アヴェロエス主義」の代名詞のように扱われてきたことがわかります。
「アヴェロエス主義」の呼称は、一般に13世紀のパリ大学自由学芸部の
教師、ブラバンのシゲルスを中心とした急進的アリストテレス主義者たち
を指すとされます。また、思想内容としては、「地上世界(質料)の永続
性」と「単一知性論」を指すとされます。この呼称の提唱者はエルネス
ト・ルナンで、1852年に刊行された著書『アヴェロエスとアヴェロエス
主義』がその嚆矢なのですね。同書では、アヴェロエス主義は哲学的価値
はないものの、「思考の自立」というプロセスの端緒を開きはしたとの評
価が下されているようです。いずれにしてもこの刊行により、「知性の単
一性」というテーゼに新たな光が当てられることになったのでした。この
テーゼは、第5回ラテラノ公会議(1512〜17)での糾弾をもって一応の
決着がつき、以来ライプニッツあたりが取り上げはしたものの、ずっと忘
れられていたものでした。

ここで面白い事実があります。ルナンは単一知性論を「単一霊魂説(m
onopsychism)」と言い換えていて、これをライプニッツに帰している
ようなのですが、そのラテラノ公会議での糾弾に際して、すでに知性を霊
魂と言い換えているらしいのです。単一知性と単一霊魂とではずいぶん違
う印象を受けますが、こうした言い換えが生じているところに、そのテー
ゼの何が問題だったのかの一端が垣間見えてきそうな感じもします。そう
いう言い換えがどこでどのように生じたのかというのは、もしかすると重
要な問題かもしれません。このあたりもできれば探りを入れてみたいとこ
ろです。

ラテン・アヴェロエス主義についてはその後、ヴァン・ステーンベルゲン
など、その呼称そのものを批判する研究も現れます。シゲルスの頃にそん
な学派のようなものはそもそも存在しなかった、というわけですね。この
説は有力視されるようになり、さらに昨今では、厳密な「アヴェロエス主
義」が登場したのは14世紀初頭になってからで、その中心人物はジャ
ン・ド・ジャンダン(ジャンダンのヨハネス)で、この人物こそがアヴェ
ロエス思想の全体像をようやく明らかにしたと言われるようです(これも
ヴァン・ステーンベルゲンの評価にもとづくものです)。ただ『中世辞
典』によると、ジャン・ド・ジャンダンがアヴェロエス思想の全体像を体
言しているという話にも、実際にはやや留保がつくのだとか。

このようなわけで、アヴェロエス主義の研究はまだ途上という印象も強い
のですが、とりあえず単一知性論に絞って考えると、13世紀当時にすで
にこのテーゼが問題視されていたのは事実です。アラン・ド・リベラの解
説(『単一知性について--アヴェロエス派論駁』のフランス語訳に添えら
れた序文)に沿ってまとめておくと、まず、このテーゼへの批判としては
ボナヴェントゥラのものがありました。1267年の『十戒講話
(collocatio de decem praeceptis)』でボナヴェントゥラは、学生や
教師らに対し、「哲学者たちの誤謬」への警戒を諭しているといいます。
内容は例の地上世界の永続性、知性の単一性への批判ですが、ここで重要
なのは、「哲学者の」と複数形になっていることです。アヴェロエスが単
独で名指しされているわけでなく、哲学という学問の中で集合的に練り上
げられてきた議論が問題だとされているのですね。これは興味深い論点で
す。とするなら、単一知性論の系譜ということも視野に入れておかなくて
はならないかもしれません。

これと前後する形になりますが、アルベルトゥス・マグヌスも1263年
に、それまでのアヴェロエス支持から打って変わったような「単一知性
論」反駁を上梓します。これはもともも1256年ごろに教皇アレクサンド
ル4世の依頼により執筆されたものだったといいますが、後にはアルベル
トゥスの『神学大全』にも収録されます。そのテキストは『知性の一性に
ついて』として知られている論考です。これも後でゆっくり見ていきたい
と思うのですが、ここでもまたアラブの哲学者たちが軒並み批判されてい
ます。

そしてトマスの『単一知性について--アヴェロエス派論駁』が登場しま
す。これは1270年の作で、この頃になると世間の情勢も変わり、パリ大
学などでは学部間の闘争も勃発しています。神学部と自由学芸部との対立
ですね。そしてパリの司教となったタンピエによる13の「哲学」命題の
非難もこの年です。1277年の禁令の先駆けとなるものです。このあたり
の「政治的」事情も、案外このテーゼをめぐる論争の背景としては重要か
もしれません。このあたりも追々見ていくことにしたいですね。思弁的で
異教的・コスモロジー的な広がりすら感じさせる単一知性論と、地上世界
における教会や大学の勢力争い。こうしたいわば天と地のそれぞれの相克
の様を、これから少しずつ見ていけたらと思っています。
(続く)


------古典語探訪:ギリシア語編-----------
ギリシア語文法要所めぐり(その15:結果節)
(based on North & HIllard "Greek Prose Composition")

節や文について巡っていますが、今回は結果節を見ていきましょう。

結果節というのは、英語なら「so ... that 〜」でつなぐような節のことで
す。「〜になるよう〜する」あるいは「〜なので、(結果として)〜にな
る」みたいな感じのものですね。ギリシア語ではho^steでつないで作り
ます。ho^steに続く動詞は不定詞にするのが一般的ですが、これを直説
法にすると、結果が実際に起きたことを強調する効果が得られます。

ほかにも似たような表現が二つばかりあります。まず、「〜の場合なら」
(英語ならon condition that 〜)を表すeph' ho^ite、eph'haiteの場合
には、不定詞もしくは直説法未来を用います。また、形容詞などの比較級
とe^ ho^steを用いて、英語の「too〜to」(あまりにも〜すぎて〜でき
ない)に相当する句が作れます。

例文です。「戦争が終わったので、兵士たちは帰郷した」「将軍はあまり
に不注意で、しばしば機会を逸した」「君が誰にも話さないなら、僕はそ
れをやろう」「アテナイ側が人質を返すことを条件に、彼らは和平を結ん
だ」「彼らはあまりに勇敢で、死を恐れなかった」「彼はとても賢いか
ら、これを知らないということはないはず」

1. ho polemos epausato・ho^ste pantes hoi stratio^tai oikade
ape^lthon.
2. houto^ raithumos e^n ho strate^gos ho^ste pollakis kairon
paienai.
3. touto poie^so^ eph' ho^ite se me^deni legein.
4. spondas epoie^santo eph' ho^ite tous Athe^naious apodounai
tous aichmalo^tous
5. andreioteroi e^san e^ ho^ste phobeisthai ton thanaton.
6. sopho^teros estin e^ ho^ste me^ tauta eidenai.

いつも通り、ギリシア語表記はこちら(http://www.medieviste.org/
blog/archives/GC_No.15.html
)。次回は条件文を見ていきます。


------文献講読シリーズ-----------------------
トマス・アクィナスの存在論を読む(その7)

今回は第二項の最後の部分です。第二項の冒頭にあったテーゼへの応答で
すね。さっそく見ていきましょう。

# # #
Ad primum ergo dicendum quod Deus esse, et alia huiusmodi
quae per rationem naturalem nota possunt esse de Deo, ut dicitur
Rom, I, 19, non sunt articuli fidei, sed praeambula ad articulos: sic
enim fides praesupponit cognitionem naturalem, sicut gratia
naturam, et ut perfectio perfectibile. Nihil tamen prohibet illud
quod secundum se demonstrabile est et scibile, ab aliquo accipi
ut credibile, qui demonstrationem non capit.

Ad secundum dicendum quod cum demonstratur causa per
effectum, necesse est uti effectu loco definitionis causae, ad
probandum causam esse: et hoc maxime contingit in Deo. Quia ad
probandum aliquid esse, necesse est accipere pro medio quid
significet nomen, non autem quod quid est: quia quaestio “quid
est”, sequitur ad quaestionem “an est”. Nomina autem Dei
imponuntur ab effectibus, ut postea ostendetur (q. 13 a.1): unde,
demonstratio Deum esse per effectum, accipere possumus pro
medio quid sugnificet hoc nomen Deus.

Ad tertium dicendum quod per effectus non proportionatos
causae, non potest perfecta cognitio de causa haberi: sed tamen
ex quocumque effectu potest manifeste nobis demonstrari
causam esse, ut dictum est. Et sic ex effectibus Dei potest
demonstrari Deum esse: licet per eos non perfecte possimus eum
cognoscere secundum suam essentiam.

一にはこう述べよう。神が存在すること、また、『ローマ人への手紙』I
の19で述べているように、ほかにこのような形で自然の理によって神に
ついて知ることのできるものは、信仰箇条ではく、その前提をなすもので
ある。というのも、信仰は自然な認識を前提としているからだ。恩寵が自
然を前提にし、完成が完成しうるものを前提としてるように。しかしなが
ら、そのものとしては論証可能であり知られうるものが、論証を理解でき
ない者によって信仰の対象として受け入れられることは十分にありうる。

二にはこう述べよう。結果により原因が論証される場合、原因が存在する
ことを確証するために、原因の定義が置かれる位置に結果がくる必要があ
る。それはとりわけ神の場合に言えることである。というのも、なんらか
の存在を確証するには、その名が何を指しているかを中間項として捉える
必要がある。ただしそれが何であるかを捉える必要はない。というのも
「何であるか」は「あるかどうか」という問いの後に続く問いだからだ。
しかるに神の名は、後に見るように(問一三第一項)結果によって定めら
れる。したがって、神が存在することを結果から論証するにあたって、私
たちはその神の名が何を示すかをと捉えて、中間項とすることができる。

三にはこう述べよう。原因に釣り合わない原因によってでは、その原因を
完全に認識することはできない。しかしながら、すでに述べたように、ど
のような結果からであれ、私たちにとって、原因が存在することは明らか
に論証できる。このようにして、神の結果から神の存在が論証できるので
ある。たとえそれらの結果では、私たちは神をその本質において認識する
ことはできないにせよ。
# # #

dicendumは「言わなくてはならない」ですが、より自然な感じで「述べ
よう」ぐらいに訳すほうがよいような気がしています。異論はあるかもし
れませんが、まあそういうことでご勘弁ください(笑)。『ロマ書』のI
の19は「神について知りうることがらは、彼らには明らかであり、神が
それを彼らに明らかにされたのである」となっています。彼らとは不信心
の人々ということで、それらの人々にすら「自然に」神に関することは明
らかにされるというわけです。となると、ここで出てきている「自然」を
少しばかり考えないわけにいきません。

ちょうど、ラテン語対訳本で出ているトマスの『自然の諸原理について』(長倉久
子、松村良裕訳、知泉書館)
に目を通してみたところなのですが、これは
まさしくアリストテレスの自然学のエッセンスという感じです。質料形相
論的な、地上世界の事物の生成原理を端的にまとめています。同書が書か
れたのは、『存在するものと本質』とほぼ同時期とされています。まだ若
き日のトマスですね。その意味では、こちらもまた、その後のトマスの自
然学思想の基盤をなしていると見て間違いなさそうです。

本文も面白いのですが、同書の解説には、トマスの用いる「自然概念」の
多義性についてまとめられています。これは有用だと思われるので、紹介
しておきましょう。それによると、『形而上学注解』5巻の記述にもとづ
きトマスの「自然」は5つの用法に分類されるようです。ちょっと言葉を
変えて列挙しておくと、1. 「誕生するもの」(生物)の生成、2. 生物の
内的な生成原理、3. 存在するもの一般の内的な運動原理、4. 運動原理と
しての質料、5. 運動原理としての形相、または質料と形相が複合した実
体、の5つです。そして大事なこととして、解説者はこれらの定義に、あ
る共通点を指摘しています。それは、自然という言葉が常になんらかの
「事象の生成の場面」に結びついているということです(page xviii)。
さらに生成というのは、「事物が存在するにいたるまでの過程」だとされ
ています(同)。非有(存在しないこと)から有(存在するもの)への変
化であるとも言われています。なるほど、こうしてみると自然の概念、生
成の概念もまた、存在論と密接に関わっていることがわかります。

これらを踏まえるなら、上のテキストの「神に関することがらが自然の理
によって知られる」という一節も、それは人間の内面世界におのずと生成
する、ということになるのでしょう。すると一方で、信仰というものは、
そうした内的な生成に対して今度は外的に(?)、その生成物を対象にし
て成立するという構図になりそうです。信仰が神の介入によって生じるの
だとするなら、それは二重の介入、二段重ねの構造といってもよいかもし
れません。恩寵が自然を前提としているというのも、外部世界に生成した
事物(生物)が、さらにもう一段の神の介入を受けて恩寵の対象になると
すれば、これまた二段重ねと言えそうです。このあたり、トマスより一世
紀前の人物ですが、オーベルニュのギヨームなどが説いていた「二重照射
説」(魂の豊かさは、上方からの神の照射だけでなく、魂の内的なハビ
トゥスによる照射にも与っているという考え方)を彷彿とさせるものがあ
ります。トマスが神学的な伝統に立脚していることはこんなところからも
窺えます。

「神の名」という箇所についてもコメントしたかったのですが、これにつ
いてはまた次回ということにします。


*本マガジンは隔週の発行です。次号は07月19日の予定です。

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投稿者 Masaki : 2008年07月14日 20:49