2008年08月01日

No.131

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.131 2008/07/19

お知らせ
*本メルマガは隔週での発行ですが、例年通り夏休みのため、次号は8月
23日となります。ご承知置きください。
*都合により、今号の「古典語探訪:ギリシア語編」はお休みいたしま
す。

------新刊情報---------------------------------
夏本番という感じの暑さが続いていますが、新刊書籍も夏休みにぴったり
のもの(?)が出ていますね。まずは分厚い研究書から。

『中世歴史人類学試論--身体・祭儀・夢幻・時間』
ジャン=クロード・シュミット著、渡邊昌美訳、刀水書房
ISBN:9784887083639、7,350yen

これは待望の邦訳。原書は2001年刊行の個人論集で、シュミットの著作
の原型をなす論文の数々を収録していて、歴史人類学の謳いがとても新鮮
でした。なるほどシュミットの旺盛な研究は、人類学的な動機にドライブ
されているのか、みたいな(笑)。

『アウグスティヌスと古代教養の終焉』
アンリ=イレーネ・マルー著、岩村清太訳、知泉書館
ISBN:9784862850331、9,975yen

こちらも今や古典の扱いのような研究書。マルーは『古代教育史』やアウ
グスティヌス研究などで知られる歴史家ですね。個人的には音楽史研究の
『トゥルバドゥール』なども大いに参考になりました。意外なことに書籍
としての邦訳はほとんどこれが初めて(?)で、本書はキリスト教におけ
る自由学芸の取り込みをアウグスティヌスを通じて描くという大著です。

続いて文庫から。

『西洋中世奇譚集成--皇帝の閑暇』
ティルベリのゲルウァシウス著、池上俊一訳、講談社学術文庫
ISBN:9784061598843、1,050yen

これ、まだ現物を見ていないのですが、ゲルウァシウス(またはゲルヴァ
シウス)は12世紀の法学者です。最初はプタンタジネット朝のヘンリー2
世の宮廷に出入りし、後にシチリアのノルマン王朝のウィリアム2世、さ
らにオットー4世などにも仕えています。最初のヘンリー2世の宮廷以
来、逸話集、奇譚集などの収集と編纂を行い、オットー4世に表題の書物
(Otia imperialia)を献上したという話です。いいですねえ、奇譚集。
これは単純に面白そう(笑)。

このほか、最近目についたものとしては、角田幸彦『体系的哲学者キケ
ローの世界』(文化書房博文社)
や、中山善樹訳『エックハルト・ラテン
語著作集3:ヨハネ福音書注解』(知泉書館)
などもあります。前者は中
世のキケロー主義みたいなものへの理解のために役立つかなと。後者は労
作の個人訳。引き続きの刊行を期待しつつ……。


------文献探索シリーズ-----------------------
「単一知性論」を追う(その2)

まず、単一知性論がどういうものかを見ておかなくてはなりません。代表
的なその擁護者として挙げられるのは、13世紀末に活躍したパリ大学の
在俗教師(学芸学部)ブラバント(またはブラバン)のシゲルスです。シ
ゲルスは無頼派のような人物を思わせます。学生時代には国民団(出身国
別に作られていたいわゆる学生団です)のリーダー格で、ある種の暴れ者
だったようですが、それでも一目置かれる存在ではあったのでしょう。そ
のままパリ大学の教師になってからは、アヴェロエス説を大胆に解釈した
立場で講義を行い、教会側からも目を付けられることになったのでした。

さて、そのシゲルスが残した著作の中で、単一知性論を論じた主著とされ
るのが『霊魂論第三巻注解(Questiones in Tertium de Anima)』で
す。アリストテレスの『霊魂論』第三巻は、感覚と知性について詳述され
ている部分ですね。シゲルスの著書は字義的な注解ではなく、問いの形で
テーゼを個別に立てて、それをめぐって議論を組み立てていくというやり
方を取っています。

シゲルスの注解で知性の単一性が端的に論じられるのは第二章の問9で
す。その問はずばり「知性はあらゆるものにおいて単一か?(utrum sit
unus intellectus in omnibus)」となっています。その議論ですが、ま
ずシゲルスは基本前提として、知性は身体から分離した非物質的なもの
(形相的なもの)だと考えています。分離しているとはいえ、それは身体
(つまりは感覚)と何らかの形で結合していなくてはなりません。シゲル
スは、身体(感覚)と知性とは想像力を介して結びついている、と論じて
います(これは問8などの議論です)。

こうした前提に立った上で、分離している知性というのは非物質的なもの
である以上数的に数えられない、というのがこの問9の議論です。単一論
の要の部分がそれなのですね。一方の身体のほうは数的に数えることがで
きるわけですから、そうなると、両者の結びつきはどうなるのかが問題に
なってきます。これについてシゲルスは、知性は数的に(数えられる形
で)複数化するのではなく、質的に複数化するのだと答えています。つま
り、これは一種の「分有」概念だと考えることができそうです。知性は数
として複数ではないのだけれど、個人の身体との結びつきは分有的になさ
れ、かくして各人の知性は質的に異なったものとなり、誰かが獲得した知
が即座に他の誰かにも波及するようなことはない、というわけです。

中世において「知性」と言う場合、能動知性と受動知性(可能知性)とが
区別されていました。一般に、神の知的照明に相当する作用を及ぼすのが
能動知性で、これは伝統的に(古代末期のアフロディシアスのアレクサン
ドロスや、テミスティオスなどの注解以来ですが)一つであるとされ、時
には天空の世界にあると言われることもあります。一方、人間がもつ知性
のように、照明作用を受けて初めて活性化するのが受動知性または可能知
性だとされます。こちらは個々の人間に個別的に配されていると考えられ
ていました。

上の注解でシゲルスが論じている単一の知性というのはどちらに相当する
のでしょうか。どうやらこれは両方のようなのです。シゲルスによると、
理性的魂(人間がもつ魂です)には能動知性と受動知性の二つの部分があ
り、それが人間(の身体)に結合しているといいます(問13)。能動知
性までもが人間の知性に内在するという議論は、実はこれまたテミスティ
オス以来あって、アルベルトゥス・マグヌスなども一時期採用していま
す。シゲルスの場合はこの受動知性までもが一つ(質的に)だとしている
点が特徴的なのですね。で、どうやらこの点が、後々の大問題になってい
くようなのです。というわけで、これがどう問題になるのかを見ていきた
いと思います。
(続く)


------文献講読シリーズ-----------------------
トマス・アクィナスの神の存在証明を読む(その8)

いよいよトマスの神の証明の核心部分となる第三項ですね。まずはテーゼ
とその反論の部分です。

# # #
Articulus 3
Utrum Deus sit

Ad tertium sic proceditur. Videtur quod Deus non sit.

1. Quia si unum contrariorum fuerit infinitum, totaliter destruetur
aliud. Sed hoc intelligitur in hoc nomine Deus, scilicet quod sit
quoddam bonum infinitum. Si ergo Deus esset, nullum malum
inveniretur. Invenitur autem malum in mundo. Ergo Deus non est.
2. Praeterea, quod potest compleri per pauciora principia, non fit
per plura. Sed videtur quod omnia quae apparent in mundo,
possunt compleri per alia principia, supposito quod Deus non sit:
quia ea quae sunt naturalia, reducuntur in principium quod est
natura; ea vero quae sunt a proposito, reducuntur in principium
quod est ratio humana vel voluntas. Nulla igitur necessitas est
ponere Deum esse.

Sed contra est quod dicitur Exodi 3.14 ex persona Dei: Ego sum
qui sum.

第三項
神は存在するか

では以下に第三項に進む。まず神は存在しないという議論を考察しよう。

一.なぜなら、仮になんらかの対立物が無限であったなら、(対立される
当の)事物はすっかり破壊されてしまうからである。しかるにこの神とい
う名のもとに理解されるのは、なんらかの無限の善が存在するということ
である。したがって、仮に神が存在するとするなら、なんら悪は見られな
いことになるだろう。しかしながら世界には悪が見られる。したがって神
は存在しない。
二.加えて、少数の原理によって完成されうるものは、より多くの原理に
よって完成されはしない。しかしながら、世界に現れるいっさいのもの
は、神が存在しないと想定しても、別の原理によって完成されると思われ
る。すなわち、それらが自然のものであるならば、自然という原理に還元
されるということだ。また、意図によるものは、人間の理性ないし意志と
いう原理に還元される。したがって神が存在することを措定する必然性は
まったくない。

しかるに、異論として『出エジプト記』3.14が記す、神そのものからの
次の言葉がある。「私は在る者である」。
# # #

今回の箇所で注目すべきは、やはりアンチテーゼの部分です。『出エジプ
ト記』3.14はモーセが神の名を尋ねる有名な箇所ですね。フランスの中
世史家エティエンヌ・ジルソンはかつて、中世に「キリスト教哲学」があ
るとすれば、この一節の解釈こそが重要な転換点をなしていると論じたの
でした。神が「在る者」であることが、神を「存在」として解釈する契機
を与えたのであり、それはギリシア哲学の存在論には見られないというわ
けです。「神と存在とを同一視しなかったプラトンやアリストテレスのよ
うな哲学者にとって、神についての概念からその存在の証明を推論できる
などとは思いもよらなかった」とジルソンは記しています(『中世哲学の
神髄』、Vrin、p.56)。

ジルソンはとりわけトマスが、過去の思想的伝統との断絶を体現している
と見ています。ですが一方で、そうした断絶を批判する議論もあり、たと
えば山田晶の『在りて在る者』では、アウグスティヌスを本質(エッセン
チア)主義と見なすジルソンの立場に異を唱え、むしろアウグスティヌス
もトマスも、言おうとしている内実はそれほど違わず(アウグスティヌス
の言う神のエッセンチアというのが、実はトマス的な「自存する存在その
もの」に近いという議論です)、むしろアウグスティヌスの考えていない
側面を捉えることで、トマスはその完成者として位置づけられる(自存的
に存在するものが、他を存在させる因としてもあるという点で)と主張し
ています。そこには断絶というよりも、むしろ継承と補完の関係が成り
立っているのだという見方です。

断絶か継承かという問題はさておき、少なくともトマスがこの「在る者」
をどう理解していたのかは重要です。『出エジプト記』のこの一節は、少
し後の問一三でも登場します。そこでのトマスは、この「在る者」を神の
最大の「固有名」(proprium nomen)として受け止めています。上掲
の山田晶の書では、トマスが神の本質を「存在(エッセ)」と解釈するそ
もそもの根底は、この神の固有の名にあると論じられています。何にでも
当てはまるような「在る者」という言葉を、神があえて発するからには、
そこに通常とは異なる意味が込められているに違いない……トマスは少な
くともそう考え、そこから、神の存在イコール本質というラディカルな議
論を導き出したのではないか、というわけです。

ですが、一足飛びにそうした議論に向かう前に、ちょっとここでは上のテ
キストに踏みとどまって考えてみたい気がします。というのも、少し違和
感もあるからです。目下の問二第三項を見る限り、「私は在る者である」
という文言は、神は存在しないというテーゼへの反論として出されている
わけですから、神みずからが自分を存在するものとして示している、とい
う文字通りの意味合いで読まれるべきもののように思われるのです。でも
そうすると、これがアンチテーゼとして出されているのはどういう機制な
のか、よくわからなくなります。「存在する」との自己規定を発している
がゆえに存在する、というようなトートロジー的な議論ではないはずです
し、また聖書の文言は絶対的だということなら、そもそも神の存在証明な
どという面倒な手続き自体が無用の長物となりかねません。うーん、『出
エジプト記』の一節がここでの神の存在証明とどう連関するのか、少し吟
味しなくてはならないように思います……というわけで、これはまた次
回。


*本マガジンは原則的に隔週の発行ですが、夏休みのため次号は08月23
日の予定です。

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投稿者 Masaki : 2008年08月01日 11:11