2008年10月13日

No.135

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.135 2008/10/04


------文献探索シリーズ------------------------
「単一知性論」を追う(その6)

シゲルスの『知的霊魂論』では、敵対する代表的哲学者として、トマスと
その師、アルベルトゥス(マグヌス)の名が挙げられています。トマスに
ついてはすでに見てみましたので、今度はアルベルトゥスについて簡単に
触れておくことにしましょう。アルベルトゥスについてはすでにこのメル
マガでも何度か取り上げていますので、紹介は省かせていただくことにし
ます。では、まずそのシゲルスの取り上げ方です。

『知的霊魂論』第三章でシゲルスは、アルベルトゥス(とトマス)の立場
をこうまとめています。「知的な魂の実体は身体と一体で、身体に存在を
与えているとするアルベルトゥスの考えは、次のようなものだ。人間にお
いて植物的・感覚的な潜在態はその形相と実体に属するが、知的な潜在態
もそこに属する。植物的・感覚的な潜在態がもたらすものが質料的・身体
的存在であるのなら、知的な潜在態もまた質料的・身体的な存在をもたら
すはずだ」。植物的・動物的潜在態というのは、成長する潜在力、動くこ
とのできる潜在力という意味で、知的な潜在態というのが理解しうる潜在
力ということです。知的な潜在態は「知的霊魂」にある以上、その後者も
質料的・身体的な存在をもたらすのでなくてはならない、と言うのです
ね。

実際のところアルベルトゥスはどう述べているでしょうか?『アヴェロエ
ス派に対する、知性の単一性についての書』の第三部の冒頭に次のような
箇所があります。「知性は魂の一部分をなしており、それ自体理性的魂と
呼ばれるそれは実体としてある。そこから発出する潜在態のうち、あるも
のは身体の形相でも身体内の力(virtus)でもないという意味でそこから
分離している」。その上でアルベルトゥスはこう説明します。「身体内の
力でないものは、それが存在するための、また存在し続けるための拠り所
である第一原因との類似(similitudo)により、身体内に存する。また、
身体内の力であるものは、それが魂である限りにおいて身体に存し、身体
の現実態であること、身体・本性に働きかけることをその属性とする」。

もとのテキストのその先の部分に説明があるのですが、身体内の力でない
ものというのはつまり能動知性のことです。「それはみずから第一の本性
の知解の結果であり、翻って第一原因へと向かう。その限りにおいて、第
一原因から流出するそれは身体に光のごとくにある。これが能動知性であ
る。一方、みずから実体であり、それにより身体の本性(natura)が成
立し、定まり、収まるもの、それが可能知性である」。

能動知性は外部から照射するもの、可能知性は身体内にある魂の一部をな
しているものという区別がはっきりしています。アルベルトゥスはこの
後、さらに能動知性と可能知性をつなぐ第三の知性、「形成的知性
(intellectus formalis)」または「思弁的知性」をも考えた三層構造の
議論についても言及していますが、いずれにしても知解のプロセスとして
は、能動知性が発する光は同一であっても、その光を受け取る側(可能知
性)はそれを多様な形で受け取るのであって、ゆえに可能知性は結果とし
て個別化していなければならないと考えているようです。思弁的知性とい
うのは、「形相の理解(intentio formae)」もしくは「形相のスペキエ
ス(species formarum)」の場であるとされます。スペキエスという言
葉は使っていますが、前回触れたトマスの考えているスペキエスよりもど
こか直截的で、シゲルスが想定していた「像」に近い印象を受けます。で
すがアルベルトゥスの場合、基本的にこの知性の構造全体が個々の魂に内
在しているとする点で、シゲルスとは決定的に異なっています。前回にも
見たように、シゲルスは知性と身体の結合こそが多様性の源であると考え
ているのですが、その場合の結合とは、たとえば蝋人形と蝋の関係(形相
がらみでよく引き合いに出される例です)ではなく、分離した知性と人間
とが知解という働きにおいて結びつく関係で十分だと考えています(極端
を承知で言えば、ほとんどこれ、コンピュータのサーバとクライアントの
関係のような感じかもしれません)。

アルベルトゥスのこの書は三部から成り、第一部で30題目の議論(単一
知性論に好意的な議論)が示され、第二部で異論(単一知性論に否定的な
議論)が36題目提出され、第三部ではアルベルトゥス自身の立場を開示
した後(上で紹介したのはこの部分です)、第一部の議論への応答として
30の解決が示されるという、実に壮観な構成になっています。中世思想
史家のアラン・ド・リベラが述べています(トマスの『反駁』の仏訳本の
序文)が、アルベルトゥスはアヴェロエスの熱心な読み手で、ここかしこ
でそのアリストテレス解釈に賛同したりしていたにもかかわらず、1256
年頃に、教皇アレキサンデル四世の求めに応じてこの単一知性論への反論
の書を著したとされています。で、一般に後世においてこの書は「反ア
ヴェロエス派」と銘打った論述とされているのですが(アルベルトゥス版
の『神学大全』に組み込まれます)、写本の伝統からはそうした確証はな
く、また内容も、いわゆるアヴェロエス派の議論を中核に据えているわけ
ではないのですね。むしろ単一知性の考案者たちとされるアラブの哲学者
たちが広く批判対象になっていて、アヴェロエス本人というよりは、それ
を下支えする土壌そのものを問題にしています。

アルベルトゥスが同書を著した頃合いは、タンピエの禁令よりも前の時点
ですし、「アヴェロエス派」なる人々が本格的な批判の対象になる前で
す。その意味で同書は、異教的な教説への許容度が世間的に狭まっていく
微妙な移行期の状況を反映しているのかもしれません。

単一知性論への批判・反駁は、そのほかにも様々な人が展開しているよう
で、たとえばボナヴェントゥラ(これはむしろ苦言を呈したくらいのもの
です)やフライベルクのディートリヒなどもいます(こちらは能動知性も
個々人に内在するということを論証し、師であるアルベルトゥスや兄弟子
トマスの衣鉢を継いでいます)。ですがそのあたりをめぐるより、私たち
もそろそろ、シゲルスの議論の大元とされるアヴェロエス本人のテキスト
に向かう必要がありそうです。当然ながら、そのアヴェロエスの議論を支
えているアラブ思想の潮流にも目配せが必要になっていくでしょう。その
際にこのアルベルトゥスは、導きの糸になってくれるでしょうか?
(続く)


------文献講読シリーズ------------------------
トマス・アクィナスの存在論を読む(その12)

いよいよ「神の存在証明」(『神学大全』第一部問二)の最後の箇所です
ね。第三項の冒頭で示された二つの異論への対応です。二つの異論とは、
(1)神が最高善であるのなら、悪は存在しないはずではないか、(2)
神がいないとしても、世界に現れるいっさいは別の原理(自然や意志)に
還元されるではないか、というものでした。神の存在証明の五つの方途を
踏まえて、トマスがこれに反論しています。

# # #
Ad primum ergo dicendum quod sicut dicit Augustinus in
Enchiridio: Deus, cum sit summe bonus, nullo modo sineret aliquid
mali esse in operibus suis, nisi esset adeo omnipotens et bonus, ut
bene faceret etiam de malo. Hoc ergo ad infinitam Dei bonitatem
pertinet, ut esse permittat mala et ex eis eliciat bona.

Ad secundum dicendum quod, cum natura propter determinatum
finem operetur ex directione alicuius superioris agentis, necesse
est ea quae a natura fiunt, etiam in Deum reducere, sicut in
primam causam. Similiter etiam quae ex proposito fiunt, oportet
reducere in aliquam altiorem causam, quae non sit ratio et
voluntas humana: quia haec mutabilia sunt et defectibilia; oportet
autem omnia mobilia et deficere possibilia reduci in aliquod
primum principium immobile et per se necessarium, sicut
ostensum est.

まず第一(の異論)に対しては、こう言わなくてはならない。アウグス
ティヌスが『エンリキディオ(提要)』で述べているように、神は最高善
である以上、悪からすら善をなしうるほどに全能かつ善でなかったなら
ば、その被造物に何らかの悪を存在を許すことは決してなかっただろう。
悪の存在を許し、それから善を引き出すということは、神の無限の善にな
ら適するのだ。

第二に対してはこう言わなくてはならない。自然はなんらかの上位の能動
者の指示によって、定められた目的に対して作用するのであるから、自然
によってもたらされるものもは、第一原因へのごとく、神へと帰されなく
てはならない。同様に、意図からなされることも、人間の理性や意志では
ないなんらかの上位の原因に帰されなくてはならない。というのは人間の
理性や意志は変わりやすく欠陥があるからだが、動きうるものや欠陥とな
りうるものはすべて、上に述べたように、不動かつ必然としてあるなんら
かの第一原理に帰されなくてはならないのである。
# # #

今回はこのトマスのテキストは最終回ですので、まとめをとも思ったので
すが、むしろ再び少しばかり脱線してしまいましょう。今回の箇所では、
神は悪すら許せるほどの最高善だ、というアウグスティヌスの有名な文言
が出てきました。またすべては第一原因に帰されなくてはならないという
くだりも、前回までの5つの方途を踏まえた議論になっています。ですが
やはり忘れてはならないのは、トマスは神を「存在そのもの」と定義して
いることです。そういう規定の仕方に少なからぬ影響を与えたのではない
かと考えられるソースとして、今回は偽ディオニュシオス・アレオパギテ
スに注目しておきたいと思います。

とりあえずここでは、御大ウンベルト・エーコの論考を引き合いに出して
おきます。『ツリーから迷宮へ』(Bompini、2007)所収の「メタ
ファーから存在のアナロギアへ」と題された一章がそれです。エーコは表
題の議論の一環として偽ディオニュシオス・アレオパギテスに少しばかり
言及し、そのテキストに見られるメタファーやアレゴリーの錯綜を追って
いるのですが、その中で偽ディオニュシオス・アレオパギテス『神名論』
による次のような神の定義が出てきます。神とは「存在するあらゆる事物
に存在を付与する真の存在」(『神名論』5章4節)であり、「みずから
における、またみずからによる存在であり、その存在を介することにより
あらゆる存在様式が形成された」もの(同、5章5節)というわけです。

これに先立つ部分では、美しいものと「美」とが結果と原因の関係にあ
り、美しいものは「美」に与るもの、「美」は美しいものによって与られ
る対象である、といった話が出てきます(4章7節)。『神名論』につい
てはトマスも注解書を書いていますが、エーコはこの部分についてのトマ
スの注解の一節を注に再録しています。トマスは、「美」は第一原因
(神)への参与を通じてこそあらゆるものを美しくするのだと説き、神の
美との類似(similitudo)による以外に被造物の美はありえないと論じて
います。善や存在についての議論も、この話と同じ論法が取られているこ
とがわかります。これは存在証明の5つの方途にも含まれていた議論でし
た。

トマスのテキスト全般で見ても偽ディオニュシオスの著作からの引用とい
うのは結構あるようで、ディオニュシオスが重要なソースになっているこ
とはほとんど確かなように思えるのですが、トマスとの関連での言及は思
いのほか少なかったりします。このあたり、やや不思議な感じもします。
たびたび参照している山田晶『在りて在るもの』(創文社、1979)など
は、両者の間に影響関係ではなく共通理解と差異を見いだしています。否
定・肯定のいずれの方法でも超越者は十分には示されないという点でトマ
スとディオニュシオスは一致するものの、そこから先の神の理解につい
て、ディオニュシオスが「弁証法」的な方途を探るのに対して、トマスは
「エッセ」として規定することによって、そのアナロギアとして世界を描
いていくというわけです。

再びエーコに戻ると、ディオニュシオスの場合にはメタファー的な理解に
ついての理論があるわけでもなく、「美」や「善」が神とイコールである
という信仰はあっても、そうした属性をどう事物が持ちうるのかについて
は曖昧だと述べています。これを逆に、事物から第一原因の理解へとどう
至ればよいのかという問題として捉え直したのがトマスだとされていま
す。なるほど、どちらもなかなか面白い議論ですね。でもやはり、思想史
的な位置づけの視点も必要な気がしますし、その場合、より広範なテキス
ト的照合を通じて、ディオニュシオス思想のトマスによる受容を考えてい
く必要もあるでしょう。これもまた面白そうなテーマではあります。

さて、今回で神の存在証明の箇所は終了ですが、引き続きトマスの別のテ
キストを見ていきたいと思います。今度は地上世界の事物がいかに存在す
るかという、いわゆる「個体化」の問題を取り上げてみることにしましょ
う。お楽しみに。


*本マガジンは隔週の発行です。次号は10月18日の予定です。

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投稿者 Masaki : 2008年10月13日 00:11