2008年09月29日

No.134

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.134 2008/09/20


------文献探索シリーズ------------------------
「単一知性論」を追う(その5)

前回に引き続き、トマスの『アヴェロエス派反駁』とシゲルスの『知的霊
魂論』を併せて見ていきましょう。今回は核心的部分、つまり知性が単一
かどうかという部分の議論に注目したいと思います。まずはトマスです
が、『反駁』の第4章で、知性(可能知性)は単一ではありえないとして
います。分離した知性が一つだけであるとするなら、理解するという作用
をあらゆる人間が共有しすべての人が同時に同じことを考えなくてはなら
なくなってしまいますが、それはありえないという論旨です。トマスは、
視覚が同じようなものだったとしたらどうなるかを譬えとして考察してい
ます。次にトマスは、「アヴェロエス派」の議論として、知解の前提とな
る像(fantasma:事物と知的理解との橋渡しをするもの)が多様である
がゆえに、個々人の理解は異なる(知的理解の操作そのものは同一)とい
う説を取り上げ、これがアリストテレスの説とは相容れないことを示しま
す。つまり「(可能)知性において知解対象は潜在態(potentia)とし
てのみあり、知解されることによってはじめて現勢化する」(429b
30〜)とされる以上、知性が個別に備わっていないと、そもそもそうし
た現勢化が生じないことになってしまう、というわけです。

一方のシゲルスは、トマスがアヴェロエス派の議論として取り上げた、事
物と知性を結ぶ像による多様化という議論を実際に展開してみせます。ま
ず前提として、種が異ならないもの同士での違い(個体の違い)は、形相
ではなく質料の差異によって生じるとします。ところが知的魂の場合には
(身体から分離しているので)そもそも質料をもたないのだから、した
がって個体の違いは生じ得ないことになります。では同一種内の個体差は
どこから生じているのかといえば、シゲルスは形相と質料の結合の具合に
よるのだと考えます。そしてそれをもとに、同じく知解の個人差も、やは
り形相と質料の結合状態、この場合でいえば魂と身体とを結ぶ像
(fantasma)の違いによって生じるのだと論じます。この最後の部分こ
そ、トマスはアリストテレスのテキストを参照し反論を加えている議論で
す。

トマスの『反駁』の4章の最後と5章では、上のシゲルスの前提となる議
論への反論も展開されています。たとえば像の捉え方です。トマスの場合
には抜本的に違っていて、可能知性の中にあるとされるのは知解可能な
「スペキエス」であり、それは感覚的な像とは別ものとされます。トマス
によれば、スペキエスが可能知性にあり、像が感覚器官にあるとすると、
両者が接する仕方は3つしかないといいます。すなわち、(1)前者が後
者に受け入れられるか(acceptus)、(2)前者が後者を「照射」
(iradiatio)するか、(3)前者は後者にいかなる痕跡ももたらさない
か、です。ですがアヴェロエス派の見解では、知性が分離していると考え
る以上(1)は認められません(本来はこれが最もアリストテレス的だと
されます)。スペキエスが像を「照らす」(iradiatio)ことによって後
者が思考に転じるという(2)は、照らされる側はあくまで感覚的・質料
的なものにとどまることになってしまい、現実態としての知解対象にはな
りえないという不具合があります。(3)は、知解において像の役割が
まったくなくなってしまい、これまた問題です。トマスは、像を現実態と
しての思考に転じさせるのはあくまで抽象化(捨象)の作用であるとし、
可能知性は像を、ちょうど視覚が色を認識するように受け取り、その捨象
を通じて可能知性みずから知性として現勢化する、と考えているようで
す。

しかしながら、トマスのこの知解論は、果たしてアリストテレスの基本的
立場に本当に密着したものなのでしょうか。実際のところ、アリストテレ
スの知性と感覚の結合に関する論は、トマスが考えるほど複雑な図式では
ないという指摘もあります。興味深い指摘ではあるので一応紹介しておく
と、たとえばアンカ・ヴァシリウというルーマニアの研究者によれば、ト
マスの場合、知解のプロセスは二重の捨象を経るといいます。つまり、ま
ずは感覚対象の質料が捨象されたものとして像があり、そして次に像(質
料に似たものとしての)そのものが捨象されたものとしてスペキエスがあ
る、という考え方だというのです。対するアリストテレス本来の考え方で
は、感覚・像・知性の関係はより直接的に重なり合っているのだと同氏は
主張します(A. Vasiliu, "Du diaphane", Vrin, 1997)。

アリストテレスのテキストを見てみましょう。たとえば『霊魂論』第三巻
の次のような箇所です。「また、知性とは複数の形相を配した形相、感覚
は感覚的なものを配した形相である。(…)知解対象は感覚的な形相の中
にある。(…)考察する際にも、なんらかの像とともに考察しなくてはな
らない。というのも、像というものは、質料のない感覚対象のようなもの
だからである。(…)初歩的な知解対象は、どのような点で像ではないの
だろうか?それらは確かに像ではないが、像がなければ存在しえない。」
(432a 5〜13)。これを見ると、感覚対象の質料が捨象されれば像とな
り、その中に知解対象が見いだされるという形になっています。なるほど
アリストテレスのテキストも曖昧で、ヴァシリウの言うように、像の中に
直接的に知解対象が見いだされるとも取れるし、あるいはまた、トマスの
ように、知解対象は感覚的形相そのものではなく、そこにはさらにもう一
つの段差があるとも取れます。これはスペキエスをどこにどう設定するか
という問題になりそうです。『霊魂論』注解では、トマスは確かにスペキ
エスを「現勢化した知性の形相」と捉えています。

こうしてみると、トマスの認識形而上学に比べ、シゲルスの立場はより素
朴というか、ある意味でヴァシリウ的な意味でのアリストテレス解釈によ
り近いと言えるかもしれませんね。よく言われるように、アリストテレス
がもつ曖昧さを一方の側に引っ張ったのがシゲルスたちであり、別の方向
に引っ張ったのがトマスなのかもしれないということが、この部分からも
伺えます。思想史的には、明らかにトマスの側が優位に立つわけですが、
一方でシゲルスたちの思想もしぶとく生き残り別の流れを作っていくので
した。それはさておき、とりあえず次回は、トマス以外でのアンチ・シゲ
ルス(反アヴェロエス)の議論を見ておきたいと思います。
(続く)


------文献講読シリーズ------------------------
トマス・アクィナスの存在論を読む(その11)

いよいよこのテキストも大詰めですね。というわけで、早速見ていきま
しょう。神の存在証明の方途のうち、最後の第四・第五の部分です。

# # #
Quarta via sumitur ex gradibus qui in rebus inveniuntur. Invenitur
enim in rebus aliquid magis et minus bonum, et verum, et nobile;
et sic de aliis huiusmodi. Sed magis et minus dicuntur de diversis
secundum quod appropinquant diversimode ad aliquid quod
maxime est: sicut magis calidum est, quod magis appropinquat
maxime calido. Est igitur alquid quod est verissimum et optimum,
et nobilissimum, et per consequens maxime ens: nam quae sunt
maxime vera, sunt maxime entia, ut dicitur II Metaphys. Quod
autem dicitur maxime tale in aliquo genere, est causa omnium
quae sunt illius generis: sicut ignis, qui est maxime calidus, est
causa omnium calidorum, ut in eodem libro dicitur. Ergo est
aliquid quod omnibus entibus est causa esse, et bonitatis, et
cuiuslibet perfectionis: et hoc dicimus Deum.

Quinta via sumitur ex gubernatione rerum. Videmus enim quod
aliqua quae cogitione carent, scilicet corpora naturalia, operantur
propter finem: quod apparet ex hoc quod semper aut frequentius
eodem modo operantur, ut consequantur id quod est optimum;
unde patet quod non a casu, sed ex intentione perveniunt ad
finem. Ea autem quae non habent cognitionem non tendunt in
finem nisi directa ab aliquo cognoscente et intelligente, sicut
sagitta a sagittante. Ergo est aliquid intelligens, a quo omnes res
naturales ordinantur ad finem: et hoc dicimus Deum.

第四の方途は、事物に見られる序列から導かれる。事物には、より大き
な、またより小さな善、真、高貴さ、その他類似のものが見られる。しか
しながら、様々なものの大小を言う場合、様々な形で、何か最大のものに
どれだけ近いかに即して言うのである。たとえば、より熱いというのは、
最大の熱さにより近いことを言う。したがって、何かこの上なく真なも
の、この上なく善きもの、この上なく高貴なものが存在し、結果として最
上位にあるものが存在することになる。『形而上学』第二巻で述べられて
いるように、最大の真をなすものは、最大の存在なのである。しかるに、
なんらかの類において最大にこれこれであると言われるものは、その類に
属するものすべての原因をなしている。たとえば、同書で述べられている
ように、最大に熱いものである火は、熱いものすべての原因である。ゆえ
に、あらゆる存在者、あらゆる善、あらゆる完成の原因となるなんらかの
存在があることになる。そして私たちはそれが神であると言う。

第五の方途は、事物の支配関係から導かれる。自然の物体など、認識を欠
いているものも、目的に向かって作動することが見られる。そのことは、
常に、もしくはしばしば、そういうものが同じやり方で作動し、最も善な
るものに向かうことからもわかる。ゆえに、目的への到達が偶然によって
ではなく意志によってなされることは明らかだ。しかしながら、矢が射手
によって向けられるように、認識をもたないものが目的へと向かうには、
認識し知解する他のものによって向けられる以外にない。したがって、あ
らゆる自然の事物を目的へと秩序づけるなんらかの知解者が存在すること
になる。私たちはそれが神であると言う。
# # #

第四の方途に出てくるアリストテレス『形而上学』第二巻の具体的な箇所
は、一章の最後の部分(993b 23〜31)ですね。「私たちは原因のない
真なるものを知らない。それぞれに、他のものに対して最大をなす原理、
同じものを他のものに対して生じせしめる原理がある。たとえば最も熱い
火がそうである−−というのも、それは他の熱さの原因をなしているから
だ。ゆえに、後のものが真となる原因をなすものこそが、最も真なるもの
なのである。よって、永遠なるものの原理こそ、最も真なるものでなくて
はならない(…)」。

トマスはアリストテレスを、もとのテキストにはない存在者や善、完成な
どの概念、あるいは高貴さなどへと敷衍する形で、またもとのテキストの
やや漠然とした論旨をいくぶん明解にする形で「言い換え」ているのがわ
かります。『形而上学』第二巻二章では、形相、質料、作用(運動)、目
的という四原因それぞれについて、原因を無限に遡ることはできないこと
が示されます。独訳本の解説にもありますが、トマスはこの議論を換骨奪
胎して用いているのでした。そこには別の要素も加わっているようです。

たとえば第五の方途は目的因の議論ですが、直接のベースになっているの
はダマスクスのヨアンネス『正統なる信仰について』第三章とされていま
す(こちらは以前にも取り上げました)。ですが特に注目してみたいのは
gubernatio(支配関係)という言葉です。ここでの支配関係というの
が、意志の力によって目的論的に組織されるもの、というところが興味深
いですね。これに関連してトマスの『原因論注解』を見てみると、提題
20「第一原因はすべての被造物を、それらと混じることなく支配する」
の注解に、その支配関係の話が出てきます。人間の統治などでは広範な支
配と一体性との間に齟齬が生じるが、第一原因ではそのようなことはなら
ない、というのが主旨です。その際の「支配」とは、善性の波及というよ
うな属性付与(あるいは分有)を考えていることがわかります。

トマスの説明によれば(プロクロスを引きながら論を進めています!)、
善性というのは事物を善にする原理のことで、第一原因はそれを一律に事
物へと付与するのですが(第一原因そのものが善を本質としているからだ
とされます)、事物の側はそれを受け取る態勢が必ずしも同じではなく、
ここに多様化の芽があるという次第です。いずれにしても、人間の場合、
統治するためには統治対象と一体ではいられないということで、これって
シュミット的な「例外状態」のような話ですけれど、属性付与という(神
の)支配形態ならばその限りではないというわけで、これはある意味、
(分有から見た)支配の形而上学という感じでも読めそうなテキストで
す。


*本マガジンは隔週の発行です。次号は10月04日の予定です。

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投稿者 Masaki : 2008年09月29日 23:30