2008年09月16日

No.133

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.133 2008/09/06


------文献探索シリーズ------------------------
「単一知性論」を追う(その4)

前回、トマスの反・単一知性論が三段構造になっていることを見ました
が、今回はその具体的内容から、まずは魂は身体から分離しているのでは
ないという議論(さらに知性もまた分離してはいないという議論)につい
て、シゲルスの再反論と併せてざっと見てみたいと思います。本当は詳し
く検討すれば面白そうなのですが、紙面の都合もありますので、さしあた
り第一章の冒頭部分に限定することにしたいと思います。

トマスの議論の展開ですが、まずアリストテレスの定義として、『霊魂
論』第二巻から「魂とは器官的身体の第一の現実態である」(412a
28〜29)という一節が紹介されます。そして留意点として、それは身体
の実体的な形相として理解しなくてはならない、とされます。したがって
魂は身体から分離していないと、これまたアリストテレスの一節を引く形
で述べているのですが、すでにこのアリストテレスの文言について、身体
の現実態ではない部分が分離可能だとする人々もいる、とも付言していま
す。その場合の現実態でない部分というのは知性や意志だとされるわけで
すが、トマスは、アリストテレスのその後の部分を読めば、魂の定義(身
体の現実態)に知性も含まれるのは明らかだとしています。

次いでトマスは、魂は身体に形相としてではなく動因として宿るという議
論を取り上げて考察します。これはプラトン主義の考え方です。アリスト
テレスはそれについて、魂と身体が船人と舟の関係なのかはまだ明らかに
なってはいないと保留の姿勢を示し、一方では魂には様々な働きが区別で
きることを示唆している、とトマスは指摘します。トマスによれば、アリ
ストテレスは働きの一つである知解や洞察についても解明されてはいない
と保留を示したのに、アヴェロエスはそうした保留を「知性は魂とは別物
だ」と曲解したのだといいます。

アヴェロエスはもう一つ、重大な曲解をしているとトマスは非難します。
それはアリストテレスの「別の種類の魂があるように思われる。しかもそ
れは、恒久的なものと腐敗しうるものとが区別されるように、分離可能な
唯一のものである」(413b 25〜28)という一文をめぐる解釈です。ト
マスによれば、これは要するに魂の機能を分割しうる(あくまで論理上)
という議論でしかないのですが、アヴェロエスはこれを、身体から分離で
きる魂の一部分があり、それは恒久的なもの、すなわち知性である、と解
しているというのですね。

植物的魂、感覚的魂(動因的魂)、知性的魂といった区分は、アリストテ
レス的には機能分割でしかないというわけですが、そのように考えるなら
ば、魂が形相であるという考え方を採用することで、上の動因としての魂
という考え方をも包摂してしまうことができます。また、知性という機能
も、ほかの機能と同様に魂の一部をなし、したがって身体から「場所的
に」分離しているわけでもない、ということにもなります。実際、トマス
はそういう議論でもって、最初の「形相としての魂」「身体の第一の現実
態」としての魂という説を追認していきます。

トマスの論考は長く、この後アリストテレスを引きながら魂の分離説の問
題点を細かく取り上げて反論してみせるのですが、私たちはひとまずここ
で区切りとし、次に今度はシゲルスの「反論」に相当するとされるテキス
トを見てみましょう。『知性的魂論』という1270年の禁令以降に書かれ
たとされるテキストです。禁令を意識してなのでしょうか、「以上は哲学
によって導かれる議論だけれど、それがキリスト教の正統教義に反する場
合には、後者を信じるほうがよい」といった、若干日和見的な文言を含ん
でいたりもします。

まず魂の定義ですが、シゲルスは「魂とは身体の形相もしくは現実態であ
る」ということを一応認めています。ですがその際の「形相」を、「それ
により原理が働くもの」というふうに定義します。魂とは、それにより身
体が生命活動をするもの、というわけです。その上で、それは身体とは別
のものであるはずだと考えます(ちょうど形相と質料とが異なるよう
に)。「現実態」についても、シゲルスはこれを「態勢(権能)としての
現実態(actus ut habitus)」と「作用としての現実態(actus ut
operatio)」に分けて考えます。たとえば「知」が前者であるならば、
「知をもとに考えること」が後者に相当します。その上でシゲルスは、魂
はそうした「態勢としての現実態」、生命活動の潜在性をもった身体の第
一の現実態と見なします。「身体の現実態」という意味は、あくまでそう
した身体の生命活動の準備、体勢づくりをするものとしてあり、結果とし
て身体そのものではない(分離している)と主張します。このあたり、ト
マスがアリストテレスのテキストへ戻る形で議論を展開するのに対し、シ
ゲルスは自己の立場を弁明するにとどまっていて、こういっては何です
が、やはり客観的に分が悪い印象ですね。

植物的・感覚的・知的魂といった区別については、シゲルスもアリストテ
レスの一節を引きます。「感覚的部分は植物的部分なしにはあらず、知性
的部分は感覚的部分なしにはない」が、「知性については話が異なる」と
いう箇所です(『霊魂論』第二巻 415a 1〜15)。またそうした「部
分」について論じられている箇所(429a 10〜)を参照しつつ、形相に
相当するのは植物的部分や感覚的部だが、知性的な部分(知解の潜在性)
はそれに相当しないとアリストテレスは考えている、というふうに述べま
す。その上で、知性的な部分が魂の一部をなすとされるのは、外部の知性
との混成をなしているからだと主張します。

おおもとのアリストテレスはどういう内容を意図していたのでしょうか。
『霊魂論』の「429a 10」からの箇所というのは実は重大な部分で、感
覚と知性の違いについて触れ、「魂において知性と呼ばれる部分は
(…)、知解する以前には現実的な存在ではまったくない。したがって、
それが身体に混成しているとするのは合理的ではない」(ho ara
kaloumenos te^s psuche^s nous (...) outhen estin evergeiai to^n
onto^n prin noein. dio oude memichthai eulogon auton to^i
so^mati.)と述べています。これではまるで分離論を肯定するかのよう
ですね。実際シゲルスはそういう意味に受け取っています。ではトマスは
これにどう対応しているのかというと、『霊魂論注解』では、「つまりア
リストテレスは、知性は感覚のように器官に関与するわけではないと述べ
ているのだ」として、さらっと流しています。

こうしてみると、両者の基本姿勢の差はかなり歴然としていることがわか
ります。そのあたり、もうちょっと見てたいと思うので、次回も引き続
き、今度は「知性が単一か」という点をめぐっての両者の議論を見ていく
ことにします。
(続く)


------文献講読シリーズ------------------------
トマス・アクィナスの存在論を読む(その10)

神を証明する五つの方途のうち、今回は2番目と3番目です。さっそく見
ていきましょう。

# # #
Secunda via est ex ratione causae efficientis. Invenimus enim in
istis sensibilibus esse ordinem causarum efficientium: nec tamen
invenitur, nec est possibile, quod aliquid sit causa efficens sui
ipsius; quia sic esset prius seipso, quod est impossibile. Non
autem est possibile quod in causis efficientibus procedatur in
infinitum. Quia in omnibus causis effecientibus ordinatis, primum
est causa medii, et medium est causa ultimi, sive media sint plura
sive unum tantum: remota autem causa, removetur effectus: ergo,
si non fuerit primum in causis effecientibus, non erit ultimum nec
medium. Sed si procedatur in infinitum in causis efficientibus, non
erit prima causa efficiens: et sic non erit nec effectus ultimus, nec
causae efficientes mediae: quod patet esse falsum. Ergo est
necesse ponere aliquam causam efficientem primam: quam omnes
Deum nominant.

Tertia via est sumpta ex possibili et necessario: quae talis est.
Invenimus enim in rebus quaedam quae sunt possibilia esse et non
esse: cum quaedam inveniantur generari et corrumpi, et per
consequens possibilia esse et non esse. Impossibile est autem
omnia quae sunt talia [semper] esse: quia quod possibile est non
esse, quandoque non est. Si igitur omnia sunt possibilia non esse,
aliquando nihil fuit in rebus. Sed si hoc est verum, etiam nunc nihil
esset: quia quod non est, non incipit esse nisi per aliquid quod est;
si igitur nihil fuit ens, impossibile fuit quod aliquid inciperet esse,
et sic modo nihil esset: quod patet esse falsum. Non ergo omnia
entia sunt possibilia: sed oportet aliquid esse necessarium in
rebus. Omne autem necessarium vel habet causam suae
necessitatis aliunde, vel non habet. Non est autem possibile quod
procedatur in infinitum in necessariis, quae habent causam suae
necessitatis sicut nec in causis efficientibus, ut probatum est. Ergo
necesse est ponere aliquid quod sit per se necessarium, non
habens causam necessitatis aliunde, sed quod est causa
necessitatis aliis: quod omnes dicunt Deum.

第二の方途は、作用因の考え方によるものである。私たちは、この感覚世
界に作用因の秩序が存在することを見いだす。とはいうものの、何かがみ
ずからの作用因になるということは見いだされていないし、ありえない。
というのも、その場合、(その作用因は)おのれ自身に先行することにな
るが、それはありえないからだ。また、作用因を無限に遡ることもできな
い。というのも、すべての作用因の秩序において、最初のものは中間のも
のの作用因となり、中間ものは最後のものの作用因となるからだ。中間の
ものが多数あるか、それとも一つしかないかは問われない。しかしなが
ら、原因がなくなれば結果もまたなくなる。したがって、作用因の最初の
ものが存在しないならば、最後のものも、中間のものも存在しないだろ
う。しかしながら、もし作用因を無限に遡るとするなら、最初の作用因は
ないことになってしまうだろう。その場合、最後のものも、中間の作用因
もなくなってしまうだろう。しかしこれはまさしく偽である。したがっ
て、やはりなんらかの第一の作用因を置かなくてはならない。これをあら
ゆる人々が神と名付けているのである。

第三の方途は、可能と必然から引き出される。それは以下のようなもので
ある。私たちは事物の中に、存在する可能性と存在しない可能性をもつも
のを見いだす。生成し消滅する何らかのものは、結果として存在する可能
性もあれば存在しない可能性もあることがわかる。そうしたものがすべて
恒常的に存在するということはありえない。というのも、存在しない可能
性をもつものは、ときには存在しないからだ。したがって、仮にすべてが
存在しない可能性をもっているとしたら、何も事物が存在しなかったとき
もあったということになる。しかし、仮にこれが真実だとすれば、今も何
もなかっただろう。というのも、存在しないものは、存在する何かによる
以外、存在し始めることはないからだ。したがって、仮に存在するものが
何もなかったなら、何かが存在し始めることもありえなかったはずであ
り、かくして何も存在しなかったはずである。けれどもこれは偽である。
ゆえに存在するすべてが可能的なものなのではなく、事物には何か必然的
なものがなくてはならない。しかるに必然的なものはすべて、その必然性
の原因を余所にもつか、あるいは余所にもたないかのいずれかである。し
かしながら、作用因について論証したのと同様に、必然性の原因を(余所
に)持つ必然的なものを無限に遡及することはできない。したがって、み
ずから必然をなし、必然性の原因を余所に有するのではなく、むしろ他の
必然性の原因となるものが、存在すると考えなくてはならない。あらゆる
人々がこれを神と称しているのである。
# # #

今回のこの2つの方途も、前回の「動因」の考え方と論法は同じですね。
もし○○がないとすると、無限後退に陥る、しかし無限後退はありえない
ので、○○はないという前提が否定される、という形です。これまた山田
晶注にありますが、この無限後退による論法はアリストテレス『形而上
学』第二巻2章の議論にもとづいています。そこでは、質料の分割、運動
の因、事物の原因、本質などについて、無限に遡ることはできず、そこに
第一のものを想定しなくてはならないということが論じられています。ア
リストテレスの場合は第一のものへの遡及までの議論なのですが、そうし
た第一のものは当然一つと考えられますから、後世において「一者」に重
ね合わされたのもある意味当然の成り行きだったと考えられます。山田注
では、この論法を神の証明に用いた嚆矢はアヴィセンナとされています
が、そうした発想はアラビア思想圏の広く見られ、また『原因の書』(プ
ロクロスがもとでした)などもそうですが、おおもとはギリシアの新プラ
トン主義の流れに遡ることができそうです。

さて、第三の方途は「存在すること」の可能性・必然性についての議論で
す。やはり山田注に簡潔にまとめられていますけれど、そのもととなる議
論はマイモニデスにあるのですね。具体的な出典は『迷える者への道案
内』第二部1章「第一原因の存在」です。第一原因を論証していくという
この章では、トマスと同様、いくつかの哲学的な議論が取り上げられま
す。その3番目が当該部分にあたります。「生成・消滅する事物があるな
らば、生成・消滅しない事物もなくてはならない」(さもないとすべてが
生成・消滅するか、あるいはすべてが生成・消滅しないかになってしまい
ますが、それらは論理的に斥けられます)としたのち、マイモニデスは、
その生成・消滅しないものの存在は必然である以外になく、またそれには
別の原因に拠るのでもなければ複合的存在でもなく(単体であるというこ
と)、それこそがまさに神なのだ、と述べています。

トマスはこの生成・消滅するかどうかという議論を、存在の可能性の有無
として言い換えています。生成・消滅という場合、存在は他からもたらさ
れるもの、ということになりそうですね。必然としてある第一の存在に
よって、他のすべての事物に存在が与えられるということです。逆に言う
と、その第一の存在以外、事物の存在はその事物そのもの(本質)に対し
てあくまで外的なものとして与えられるというわけです。トマスの言い方
に近づけるなら、もともとその事物には、存在は可能態として(潜在性と
して)しかなく、それが第一の存在によって現実態に引き上げられる、と
いうふうに取ることもできます。

ここで思い出されるのは、アヴィセンナの「存在の偶有性」という考え方
です。前にも取り上げましたが、井筒俊彦氏がモッラー・サドラーの『存
在認識の道』の解説で述べているところによると、トマスも含めて西欧で
はこれを実在的・範疇論的な偶有(つまり外から付加される属性)と解釈
してきたといいます。実際のところ、そうした解釈はアヴェロエスがア
ヴィセンナを解釈・批判する際の誤解にもとづいているのだそうで、ア
ヴィセンナ当人のいう「存在の偶有性」は本来、存在というものは人間が
事物に対して行う理性的な分析操作の結果として、「外的に」事物に与え
られたものでしかない、という議論だったようです。実在論ではなく、概
念操作としての偶有ということです。まあ、それはともかくとして、西欧
の13世紀ごろの神学者たちは、そうした「存在の偶有性」を実在的に捉
えるところから、一者から万物が連鎖していくという発出論的な体系に思
いを馳せていたという次第です。トマスの場合も、まさにそういった共通
基盤の上に立って存在論を考えていたのだと思われます。


*本マガジンは隔週の発行です。次号は09月20日の予定です。

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投稿者 Masaki : 2008年09月16日 23:20