2007年08月28日

No. 109

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.109 2006/08/25

残暑お見舞い申し上げます。一ヶ月ほどのご無沙汰でしたが、またぼちぼ
ちと再開いたします。で、早速ですみませんが、本号は都合により短縮版
とさせていただきます。「古典語探訪・ギリシア語編」はお休みします。

------新刊情報--------------------------------
この夏の間も、いろいろと中世関連本が出ていましたね。

○『針の上で天使は何人踊れるか--幻想と理性の中世・ルネサンス』
ダレン・オルドリッジ著、寺尾まち子訳、柏書房
ISBN:9784760131648、3,360yen

中世からルネサンスにかけての、民衆のイマジナリーについて解説した一
般書のようです。現代の目からすれば簡単には解せないように見える文化
的事象について、それを通底する理屈の部分を浮かび上がらせようとして
いる印象です。

○『誓いの精神史--中世ヨーロッパの<ことば>と<こころ>』
岩波敦子著、講談社選書メチエ
ISBN:9784062583916、1,575yen

こちらも同じく、中世の心性をめぐる考察のようです。とくに「誓い」を
通じて言葉のもつ呪縛について考察したものとか。中世の「誓い」はある
意味、現代世界の宣誓にまで息づいている感じもあります。言霊信仰では
ありませんが、言語の呪詛には当然ながら人類学的な意味合いもあります
ね。そのあたりのパースペクティブの広がりが期待される一冊です。

○『フランス中世史年表--四八一〜一五一五年』
テレーズ・シャルマソン著、福本直之訳、白水社文庫クセジュ
ISBN:9784560690135、1,102yen

読むための歴史年表と銘打った一冊。時代的にはクロヴィスからフランソ
ワ1世まで。クセジュのシリーズは、ちょっと入門から進んだものが多い
のですが、これはどうでしょうか?

○『古英語叙事詩「ベーオウルフ」対訳版』
苅部恒徳、小山良一編著、研究社
ISBN:9784327472122、4,830yen

『ベーオウルフ』は8世紀ごろに成立したとされる作者不詳の古英語叙事
詩。ゲルマン系の英雄譚で完全に残っているものとしては最長・最大とい
われます。これをなんと対訳で収録し、しかも膨大な語句の解説を付した
かなり貴重な文献になっています。中世前期の古英語(ほとんど英語には
思えないほどですが)に関心のある向きには必携かもしれません。

○『薔薇物語』(上・下)
ギヨーム・ロリス、シャン・ド・マン著、篠田勝英訳、ちくま文庫
ISBN:9784480423450 & 9784480423467、各1,575yen

こちらも邦訳もの。13世紀の『薔薇物語』が待望の文庫化です。この篠
田勝英訳は確か平凡社から出、当時何かの賞を取ったと記憶しています。
言うまでもなく、『薔薇物語』といえば、中世の自然学的言及の宝庫とし
てとりわけ有名ですね。ベースにはアラン・ド・リール(リールのアラヌ
ス)あたりの神学的・哲学的思想があり、特に後半とされるジャン・ド・
マンのめくるめく自然観は一瞥の価値があります。


------文献講読シリーズ-----------------------
アルベルトゥス・マグヌスの天空論・発出論を読む(その8)

今回も引き続き、「天空は知性によって動かされる」という説を紹介して
いる部分です。相変わらずちょっと堅めの訳文になってしまっています
が、ご了承ください。

# # #
(...) Et ideo movet quamlibet partem mobilis ad esse ubique, sicut
intelligentia ubique est. Hoc autem lumen animae lumen esse non
potest, sicut iam habitum est. Sed acceptum in caelo esse
specificum caeli est et ideo quandoque, quamvis minus proprie,
anima caeli vocatur. Et sicut in naturis generabilium et
corruptibilium dans formam dat motum, et forma quidem actus et
esse eorum est, motus autem consequens esse, sic dico, quod
intelligentia influens caelo lumen hoc caelo dat actum et esse et
motus circularis consequens est esse illud.

Propter quod dicunt, quod motus de substantia caeli est eo quod
substantiam et esse consequitur, sicut motus descendendi de
substantia et esse gravium est. Cum enim lumen perceptum ab
intelligentia intellectuale sit, secundum intellectualis rationem
ubique est et semper. Et propter hoc mobile movet, quantum
potest, ad esse ubique et semper. Propter quod etiam dicunt
solum motum caeli ubique et semper esse, hoc est, ad omne ubi
circumferentiae. Et haec opinio Peripateticos solemnior est.

Si autem quaeritur ab istis, quomodo caelum huius luminis
perceptivum sit, dicunt propria et naturali puritate talis vitae
perceptivum est et non per animam eo quod vitae, quae est per
animam imaginativam et electivam, perceptibile non est nisi
corpus compositum et commixtum. Haec igitur opiniones sunt
loquentium de motoribus caelorum.

(承前)しかるにそれ(照明)は、いかなる可動な部分をも、遍在に向け
て動かすのである。ちょうど知性が遍在するように。しかしながらこの光
は、上に述べたように、魂の光ではありえない。けれども天空には、天空
独自の光があり、ゆえに、本来の意味は減じるものの、それが天空の魂と
呼ばれているのである。自然においては、生成と消滅をもたらし形相を与
えるものが運動をも与えており、形相こそがそれらの現実態および存在を
なしているが、それと同様、運動は存在の結果として生じるのである。
よって私はこう言おう。光を天空へと流入させる知性は、この天空に現実
態と存在を与え、その存在の結果として円運動が生じるのだ、と。

それゆえ彼らはこう述べているのだ。「天空の実体による運動は、実体お
よび存在を結果的に生じさせるものに由来する。ちょうど実体の落下運動
と重さをもった存在がそうであるように」。知性によって知覚される光は
知的なものであり、知的なものの道理にもとづき遍在し永続する。それゆ
えに可動体は、あたう限り、遍在・永続する存在に向かって動くのであ
る。ゆえに彼らは、「天空の運動のみが遍在・永続する」と言うのだ。そ
れはつまり、軌道上のあらゆる場所に向かって動くということである。こ
うした見解が逍遙学派に一般的なものなのだ。

しかしながら、以上から、天空はどのようにその光を知覚するのかと問う
ならば、彼らは「生命がそのものとして知覚されうる際の、固有かつ自然
な純粋さによってであり、魂によってではない」と言う。なぜなら、想像
力や選択的意志をもつ魂に由来する生命が(その魂によって)知覚されう
るのは、身体のうちに構成され混合される場合のみだからである。よって
これらの見解は、天空の動因についても言われるのである。
# # #

今回の部分、底本では2段落目の段落分けはありませんが、便宜上あえて
分けさせていただきました。

前回から展開している議論は、いわゆる「逍遙学派」の見解なのですが、
アルベルトゥスが自分の言葉で言い換えているその様子に、彼が抱いてる
であろうシンパシーのようなものが感じられるように思えます。天空は知
性によって動かされているという説に、アルベルトゥスは与しているので
しょうか。明言されてはいませんが、どこかそうらしい印象があります。
しかも今回のこの箇所で注目すべきは、「天空の魂」と言う場合について
も、それはあくまで便宜的なものだとして、知性の光という観点から解釈
し直している点でしょう。

そういえば、底本としている羅独対訳本の序文によると、アルベルトゥス
の重要なソースとして、ガザーリー(ラテン名:アルガゼル)があるよう
です。ガザーリーは11世紀末から12世紀初頭にかけて活躍したイスラム
の神学者で、基本的にはスーフィズムの神秘主義を奉ずる立場を取り、イ
ブン・シーナーなど新プラトン主義系の要素の濃いアリストテレス解釈を
批判したことで知られています。とはいえ、岩波の『哲学・思想事典』な
どに記されていますが、ガザーリーは哲学を神学から批判しているのでは
なく、哲学を哲学的に批判していた、とか、ある意味この人物は、アリス
トテレス思想の批判的継承をなそうとしていた、という話もあります。ア
ルベルトゥスもガザーリーを「逍遙学派」の一人と見なしているようで、
とりわけそのラテン語訳『形而上学』を参照しているようです。

その『形而上学』第一部第四論に天体の運動に関する記述があるのです
が、そこに第二命題として「天空の動因は、変化を被りえない純粋な知性
以外にない」というテーゼが記されています。運動の第一動因は不動のも
のでなければならず、したがって感覚的なもの(変化するもの)を含まな
い「純粋知性」こそがその動因にほかならない、としているのですね(た
だしその論の主眼は、第一の不動の原因がもたらす地上世界の副次的原因
によって、様々な変化が生じる、という部分にあります)。

ガザーリーには他方、スーフィズムの神秘体験からの、光の隠喩について
の注解(『光の幕舎について』)などもあります。その広がり具合を見る
と、アルベルトゥスのテキストで紹介されている「逍遙学派」の論は、ま
さにガザーリーの思想圏にすんなり収まってしまうような印象すら受けま
す。ひょっとして、このあたりも詳しく検証したら面白いかもしれません
ね。スーフィズム的な神秘主義と、アルベルトゥスの弟子筋においてライ
ン川周辺に勃興したとされるドミニコ会系の神秘主義(マイスター・エッ
クハルトなどですね)との間に、通底するものがあったのか、なかったの
か……なんて。なにやら遠大なテーマにも思えてきます(笑)。

では、次回も続きの箇所を読んでいきましょう。


*本マガジンは隔週の発行です。次号は9月8日の予定です。

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投稿者 Masaki : 03:06