2007年07月24日

No. 108

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.108 2006/07/21

*いつもご愛読いただきありがとうございます。本メルマガは隔週での発
行ですが、例年どおり8月は半ば過ぎまで夏休みとさせていただきます。
そのため次号の発行は8月25日となります。よろしくお願いいたします。

------文献探訪シリーズ-----------------------
「イサゴーゲー」の周辺(その15--最終回)

スコトゥスやオッカムには、それぞれ彼らの思想を継承する人々が現れ、
いわゆるスコトゥス派、オッカム派などが登場してくるようです。前号の
新刊情報でも取り上げた『中世と近世のあいだ』(上智大学中世思想研究
所編)
には、スコトゥスの後継として偽カムプザルのリカルドゥスを、
オッカムの後継としてアダム・デ・ヴォデハムをそれぞれ取り上げた二編
の論考が収録されています。それらを見ると、継承者たちはまた少しずつ
議論を変貌させながら、それぞれの思想を擁護し伝えていくことがわかり
ます。その変貌の有様は、ポルピュリオスをボエティウスが、あるいはア
ベラールが、受け継ぎながらも新たな解釈を加え変化させていく過程とど
こかパラレルにも思えますね。そのようにして思想の流れは続いていくも
のなのだ、ということを改めて感じさせてくれます。

こういう「派」というのは、えてして後世の人々が遡及的に考える括りの
ようなもので、あまり意味はないのかもしれませんが、少なくとも後継者
がいて、継承元の思想を組織的にまとめあげて初めてその思想内容は後世
に伝えられていくのですから、その意味では「派」というのも一概には軽
視できないように思えます。いずれにしても、オッカム的な唯名論の流れ
も、またオッカムが一刀両断にしたかに見える実在論も、引き続き14世
紀以降も存続していくようです。

ルネサンス期以降の実在論・唯名論の流れというのはまったくの不勉強な
のですが、そのあたり、どう継承されていくのかというのも面白そうな問
題ではあります。大局的には、さらに後のデカルトを経てカントにいた
り、実在論は一度葬られるかに見えますが、思想史の常というのでしょう
か、近世さらに近代にいたっても、実在論の系譜は不死鳥のように蘇って
くるのですね(新スコラ哲学など)。特にスコトゥス思想に関しては、
19世紀後半にC.S. パース(記号論の祖として有名な)によって再び取り
上げられるというのが象徴的です。

さる3月に出た雑誌『大航海』no.62は「中世哲学復興」という特集を組
んでいて、その中に、パースの1877年頃の草稿だという「観察の新しい
クラス」という一文が邦訳されています(三谷尚澄訳)。そこでのパース
は、思考の対象として「感覚」(完全に決定された個別対象)と「概念」
(未決定をふくむ一般的な思考対象)の二つを措定することが、そのもも
個体化の問題(個物が一般者とどう異なるか)を困難にしていると述べ、
一般者(普遍)を完全否定したオッカムに対し、「最も具体的な事物でさ
えいくぶんかの未決定性をもつ」として、むしろ完全に決定された個物こ
そが存在しないのだと主張しています。思考の感覚的要素だけがあるとい
うのですね。これはスコトゥスが、個物と一般者はまったく異なるものだ
としながら、その一方で両者の間の区別は一般化されない奇妙なものだと
し、どこか一元論的な指向性を示しているのを受けて、その指向性を大き
く前進させた議論だと言えそうです。パースは、たとえば感覚の強度の差
異(色合いの違いなど)といったものが、きわめて一般的なものとして存
在する(感覚強度は未決定・不確定なものなのです)と考えており、個物
とされるものは(スコトゥス流に)あくまでそうした不確定なもの(一般
者)が縮減(contractus)されでできるのだと見なしているようです。

一元論的な指向性という意味では、オッカム的な唯名論、あるいは観念論
とわずかに紙一重の立場なのですが、その先に展開する世界観は大きく異
なってきます。訳者解題に一部訳出されている文章で、パースは、思考、
存在、発達過程のいずれでも、「確定されないものは、完全な確定性とい
う最初の状態からの退化に由来する、という先入観を取り払いなさい」と
提言しています。これは中世に存在論化した実在論が基本前提としてい
た、神の側からの発出論を根底から逆転させた立場です(発出論の図式で
は、完全な一から不完全な多が発するのでした)。パースはカオスから発
する秩序といった豊かな問題領域を引き寄せ、やがては現代物理学にも重
なるような広大な宇宙論を展開していくのですが、その根底を支えている
のは、普遍と個別を「決定性・確定性」の強度によって読み替えるとい
う、この逆転の一撃らしいのです。こうした新たな展開を経て、実在論と
唯名論をめぐる議論は、現代にも息づいているのかもしれません。

さて、以上15回にわたり、「イサゴーゲーの周辺」と題して、表題のテ
キストの受容と派生について大まかな輪郭をたどってきました。ポルピュ
リオスのテキストから発した問題は、ずいぶん遠くにまで残響を残してい
ることがわかる反面、もっと丹念に精査する必要も痛感されます。ポル
ピュリオスのテキストの注解を記している中世の思想家はまだほかにも数
多くいるようですし、トマス・アクィナスの立場や、14世紀以後の展開
にも興味深い部分があります。それらはまた今後の課題ということで、形
を変えて取り上げていけたらと思います。

なお、この文献探索シリーズはまた新たなテーマで秋ごろから再開したい
と思います。
(了)

------古典語探訪:ギリシア語編----------------
「ハリポ」で復習、古典ギリシア語文法(その8)

古典ギリシア語版ハリー・ポッターを一文づつ読んでいるわけですが、よ
うやく今回のところで底本の1ページ目が終了です(笑)。文法事項の確
認もまだ始まったばかりで、まだまだ先は長いですが、とりあえず進んで
いきましょう。今回のテキストはこちらです(http://
www.medieviste.org/blog/archives/A_P_No.8.html
)。

kai gar mal' o^rro^doun loidorian te kai kakologian ophlein ek
to^n ple^sion, aphikomeno^n pot' ekeino^n deuro.

mal' はmalaで「とても」。o^rro^dounはorro^deo^(恐れる)の未完
了過去(3人称複数)。loidoriaは「非難」。kakologiaは「悪口」
(kakos + logos)。これらは次のophleinの目的語になっています。
ophleinはophliskano^(被る)の第2アオリストの不定詞で、不定詞句
全体がorro^deo^の目的語になっているわけですね。ek ton ple^sionは
副詞句で「隣人から」。それ以下は分詞構文で、属格で条件その他の付帯
状況を表します。aphikomeno^nはaphikneomai(やって来る)の分詞
形。pot' はpote、deuroは「ここへ」。全体をつなぐと、「また、いつ
か彼らがここへ現れたなら、近所からの誹謗中傷を被ることになる、とた
いそう恐れていたからでもある」。

kai e^idesan men paidiskon gegene^menon kai tois Pote^rsin,
heo^rakesan d' oudepote.

e^idesanはeido^(知る)の未完了過去。paidiskosは「息子」。
gegene^menonはgignomai(生まれる)の完了形の分詞。
heo^rakesanはorao^(見る、会う)の完了形。d' oudepoteはde(反
意を表す小辞)+oudepote(一度も〜ない)。全体で、「また、ポッ
ター夫妻にも息子があることは知っていたが、一度も会ったことはなかっ
た」。

dia de touto prothumoi e^san apeirksai tous Pote^ras apo tou
de^mou, allo^s te kai elpizontes Doudlion ton huion me^
homile^sein to^i toiouto^i paidi.

dia toutoで「そのため」。prothumosは形容詞で「〜しようとする、〜
する気がある」の意。apeirksaiはapeirgo^(離しておく、近づけない)
のアオリスト。ここでは不定詞になっています。目的語に対格をとって、
apo以下で「〜から」と、何から離しておくかを示します。de^mosは
「土地」。allo^sは副詞で「別様に」の意。ここでは「さらに」という感
じかもしれませんね。elpizontesはelpizo^(望む)の分詞で、それ以下
が目的語(ここでは不定詞句全体)になります。Doudlion ton huionで
「ダドリーの息子」。これは不定詞homile^sein(一緒にする)の目的語
になっていて、me^の否定辞で打ち消しています。toi toioutoi paidiで
「そのような子に」。全体で「そのためいっそう、ポッター家をその地に
近づけたくなかったのだ。ダドリー家の子息がそのような子と一緒くたに
されないようにと考えて」。

今回の復習ポイントは完了形でしょうか。完了形の形は、基本的に語頭の
重複と接尾辞kaを付けるのでした(例:paideuo^(教える) →
pepaideuka、phuteuo^(植える)→ pephuteuka)。二つ以上の子音
で始まる場合にはeを語頭に付けます(例:ktizo^(建てる)→ ektika、
ze^teo^(探し求める)→ eze^te^ka)。母音で始まる場合には、長母音
化します(例:aiteo^(求める)→ e^ite^ka、orthoo^(正す)→
o^rtho^ka)。ほかにも若干の規則がありました。分詞形も含めて(各時
制に分詞形があるのは、煩雑なようで実に便利にできているのですね)文
法書で確認しておきたいところです。


------文献講読シリーズ-----------------------
アルベルトゥス・マグヌスの天空論・発出論を読む(その7)

「天空は知性によって動かされている」という議論の紹介部分の続きで
す。さっそく見ていきましょう。

# # #
Quarta ratio est, quia universalis motus est ante particularem
motum sicut causa ante effectum. Dico autem universalem, qui ad
ubique est secundum differentiam situs proprii loci; particularem
autem, qui est ad hic vel ibi esse. Universalis autem motus ab
universaliter movente vult esse. Universaliter autem movens non
anima est, sed intelligentia. Motus igitur circularis caelestis ab
intelligentia et non ab anima.

Quinta ratio est, quod si motus caeli esset ab anima imaginante et
eligente, motus caeli quantum ad imaginationem et electionem
univocus esset motui animalium et similiter motor motori esset
univocum. Et ex hoc sequeretur, quod etiam mobile mobili esset
univocum. Quod valde absurdum est. Absurdum igitur est, quod
motus caeli sit ab anima imaginaiva et electiva.

Si autem ab istis quaeritur, quomodo hoc quod dicunt, possit
esse, cum omnis motor coniunctus et immediatus sit mobili, sicut
in principio VII Physicorum probatum est, intelligentia autem
separata est et nulli per naturam coniuncta, dicunt, quod
intelligentia per lumen suum emissum in hoc vel in illud sive per
lumen influxum huic vel illi efficitur immediata et coniuncta. Dicunt
enim, quod intelligentia esse in nobis vel in quibuscumque nihil
aliud est quam ilustrationes intelligentiarum esse in nobis vel in
quibuscumque. Illustratio autem haec est in propinquis quidem
iuxta intelligentiam per lumen, quod secundum rationem et rem
intellectuale est; in remotis autem est per casum ab illo; sicut in
seminibus plantarum et animalium, in quibus non est per rationem
intellectualis luminis, sed per rationem tantum intellectualiter
formantis. In caelo igitur, quod proximum intelligentiae est,
utramque retinet rationem eo quod ibi est intellectualiter illustrans
et intellectualiter movens. (...)

四つめはこうである。原因が結果に先立つように、普遍的な運動は個別の
運動に先立つ。この場合の普遍的なものとは、それぞれの場所の位置的な
差異に即していたるところにあるものを言う。一方の個別的なものとは、
ここ・そこにあるものを言う。ところで、普遍的なものの運動は普遍的に
運動するものによるのでなくてはならない。しかるに普遍的に運動するも
のは魂ではなく知性である。よって天空の円環運動は知性によるものであ
り、魂によるものではない。

五つめはこうである。仮に天空の運動が、想像力と選択的意志をもった魂
によるのであるのなら、天空の運動は、想像力と選択的意志によるという
意味において、魂の運動に一義的な関係をもつことになり、同じく動因は
動因に一義的関係をもつことになる。するとここから、可動体は可動体に
一義的関係をもつことが帰結される。しかしながらこれはなんとも不合理
である。よって、天空の動きが想像力と選択的意志をもった魂によるとい
うのも不合理である。

以上のことから、上に語られた内容がいかにして可能なのかを考えてみる
ならば、まず『自然学』七巻に原理として考えられたように、あらゆる動
因は可動体に直接的に隣接しているとされる一方で、知性は分離してい
て、自然にはまったく隣接していないとされるが、知性は、これ・それへ
と発するみずからの光、あるいはこれ・それへと注がれる光によって、直
接的に隣接するのである。というのも、知性がわれわれないし任意の者の
もとにあるというのは、知性の照明がわれわれないし任意の者のもとにあ
るということにほかならない、とされているからだ。しかしながらその照
明は、光において知性に隣接し、それと類似の関係にある。それは理性と
知的事物にもとづいているのである。しかるに(照明から)遠くにあると
いうのは、それからこぼれ落ちていることをいう。ちょうど植物や動物の
種(たね)の場合のように。その場合、(照明は)知的な光の理性にでは
なく、知的形成者の理性にのみ存する。したがって、知性に最も近い天空
の場合、(照明は)両方の理性をとどめおく。つまり知的に照らし、かつ
また知的に動かす理性である。(……)
# # #

3つめの段落は長いために途中で切っています。アリストテレスが原因と
結果は隣接していなくてはならないと述べるのに対し、アルベルトゥスが
立脚するアヴィセンナ思想では、魂の機能の一部とされる知性は超越論的
に分離していることになっています。両者の矛盾を解消しなくてはならな
いわけですが、この箇所では、知性を光に見立てることによって、そうし
た矛盾を解消しようとしています。

上で言う知性(intelligentia)は、アヴィセンナならば能動知性と言うべ
きところかと思われます。アヴィセンナの考え方では、能動知性は単一の
ものとして天上世界にあって、それが地上の人間の魂にある可能知性に働
きかけ、可能知性は知解対象を受け取り、かくして知解が成立するとされ
ます。一方、アルベルトゥスはというと、能動知性もまた魂の一部をなし
ていると考えているようなのです。これは両者の大きな違いなのですね
アルベルトゥス『知性の単一性について』伊語訳へのアンナ・ロドル
フィの序文にもとづいています)。とはいえ、アヴィセンナにしろアルベ
ルトゥスにしろ、魂の中の知性が働くためには神の知性の「光」が必要だ
とする点は一致しています。アルベルトゥスの場合には能動知性は魂の中
にあるとされ、天上から注ぐ知性の光とは同一視なされないので、上の箇
所でも「能動知性」とは言わず単にintelligentiaとだけ言っているので
しょう。天上世界の知性を光(lumen)とし、魂の側の知性を照明
(illustratiio)として使い分けているのも注目されます。

植物と動物の種(たね)という話も出てきますが、作用因としての知性と
は別に、形相因としての知性も考えられていることがわかります。知性と
いうか、むしろ魂についてですが(知性はその部分的機能です)、魂と身
体の関係を原因・結果の関係とする考え方は、初期のアリストテレス注解
者たち以来の伝統になったといわれます。とりわけ後代のアンモニオス
(プロティノスの師匠)門下において、魂を身体の目的因、作用因、形相
因として解釈する立場が定着するようです(『ケンブリッジ・アラビア哲
学必携』
によります)。このあたりはちゃんと検証してみたい論点なので
すが、ここではさしあたり、魂の形相因としての機能という話をアルベル
トゥスも継承していることを確認した上で、続きを読んでいきたいと思い
ます。


*本マガジンは隔週の発行ですが、夏休みのため次号は8月25日の予定で
す。

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投稿者 Masaki : 23:38

2007年07月10日

No. 107

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.107 2006/07/07


------新刊情報--------------------------------
いよいよ本格的な夏ですが、ヴァカンスシーズンに合わせるかのように、
新刊もいろいろ出てきていますね。

『中世ヨーロッパの社会観』
甚野尚志著、講談社学術文庫
ISBN:9784061598218、1,050yen

92年に出た『隠喩のなかの中世』(弘文堂)の文庫化です。うーん、最
近は文庫化に際してタイトルを変更するのが流行っている(?)みたいな
のですが、ちょっと紛らわしいのでやめてほしいところですね。内容は、
中世の規範的な制度論において用いられた各種の比喩(蜜蜂、建造物、人
体、チェス盤など)についての詳細な分析です。それぞれの隠喩が時代と
ともにどう変遷し、どう意味合いを変えていったかを、史料を駆使して細
かく追っていくもので、小さいながら読み応えのある一冊です。

『ヨーロッパ中世の自由学芸と教育』
岩村清太著、知泉書館
ISBN:9784862850119、8,925yen

古代末期(5世紀)からカロリング・ルネサンスまでの自由学芸と教育を
追った研究ということで、カッシオドルス、イシドルス、アルクイン、ラ
バヌス・マウルスなどを論じているようです。後半には世俗の教育論など
も取り上げているようですね。

○『ミハイル・バフチン全著作7:フランソワ・ラブレーの作品と中世・
ルネサンスの民衆文化』
杉里直人訳、水声社
ISBN:9784891766283、10,500yen

バフチン全集に7巻目として『フランソワ・ラブレーの……』が登場。個
人的にもなつかしい一冊です。かつてはせりか書房から川端香男里訳で出
ていましたね。フランスのガリマールのTELシリーズで安く購入した記憶
があります。ラブレーを通じて民衆の想像力をすくい上げる様が実に刺激
的で、シャリヴァリなどのイメージは、同書のものが鮮烈に残ったように
記憶しています。これが再び新訳で蘇るとは!

『中世と近世のあいだ--14世紀におけるスコラ学と神秘思想』
上智大学中世思想研究所編、知泉書館
ISBN:9784862850126、9,450yen

個人的にこれはこの夏一番の注目作です。当代の主要な中世研究者たちが
一堂に執筆しています。扱うテーマも、ルルス、フライベルクのディート
リッヒ、マイスター・エックハルトからその後の神秘思想の系譜、ほかに
ガンのヘンリクス、ドゥンス・スコトゥスとその学派の流れ、オッカム、
ジョン・ウィクリフ、さらに14世紀の運動論、論理学、視覚理論、そし
て東方はビザンツの状況など、華麗な一大絵巻のようです。


------文献探訪シリーズ-----------------------
「イサゴーゲー」の周辺(その14)

スコトゥスの精緻化した「普遍」の考え方に対して、これを真っ向から否
定するのがオッカムです。オッカムの基本的なスタンスは、種や類といっ
たものは概念にすぎず、事物の側には個別(個体)しか存在しない、とい
うものです。

一例として差異(種差)をめぐる議論を見てみましょう。『大論理学』第
1部の20章以下はポルピュリオスへの注解と位置づけられますが、ここで
はその羅仏対訳版から23章を拾ってみます。オッカムによれば、差異
(ここで述べているのは種差です)は(事物の)本質に属するものではな
く、魂の意図(intentio animae)であり、(事物ではなく)魂の中に含
まれるもの(概念)の述語をなすものである、といいます。それは単に
「あるものが他のものではないと否定されるところを表す中名辞
(medium)」でしかなく、あくまで事物の定義に属するものなのだとい
うことです。例として「理性的(rationale)」が挙げられています。そ
れは人間を他の動物から分ける名辞なのであって、人間の実在的な本質に
属するのではなく、概念としての「人間」の定義に属しているだけにすぎ
ない、というのです。「すべての人間は理性的である。いかなるロバの理
性的ではない。したがって人間はロバではない」という三段論法を支えて
いるだけなのだ、と。

オッカムは、形相が質料を規定するように、定義においては種差が類を規
定するのだと述べます。「物体とは物質的な実体である」という定義の場
合、「実体」という類を「物質的な」という種差が限定しているのです
ね。この場合、種差は事物(ここでは類である「実体」に対応する事物)
の一部分を表している、ということにもなります。こうして種差は、事物
の定義に中に置かれる、その事物の一部分を表すものとされるのです。こ
こにはもはや、事物とその定義にまつわる存在論は介在していません。中
世を通じて長く深く存在論のほうに浸っていたポルピュリオスの範疇論
は、ここへきて再び論理学的に引き戻されていると言ってもよいでしょ
う。ここでは割愛しますが、種も類も差異も、もはや事物の側にではな
く、それを認識する心理(魂)の側、つまり概念として整理されているの
です。

事物とそうした「普遍」との間に直接の関係を置かない、という意味で
は、オッカムもスコトゥスと類似の立場を取っているように見えます。で
すが両者は根本的な方向性が違います。別のテキストを見てみましょう。
『オルディナティオ(センテンティア注解)』です。ここではスコトゥス
の議論への反論が逐一述べられていきます。同書の第1巻第2部問題6を、
再びスペードの英訳と、今回は渋谷克美氏の羅日対訳版で少しだけ見てお
きます。

オッカムは、スコトゥスの推論面を批判した後、その言明に対する批判を
行うという二段構えで徹底的に論駁します。この言明に対する議論では、
とりわけ個体的差異(上の種差とはまた別の問題です)が問われます。
オッカムはまず、本性の先行性を否定します(三位一体を引き合いに出し
ています)。次いで、個体的差異が本性とはイコールではないという説
(スコトゥスの場合には、個体的差異は共通本性の個体化において加わる
付加的なものなのでした)も正しくないとします。オッカムは、個体的差
異は個体の「何性」(quidite:それが何であるかということ)に属し、
したがってそれは事物の(実在的)本質に属すると考えます。次に、本性
は個体に対して中立だという点も矛盾を生じると指摘します(これは上の
何性の議論に関係します)。さらに、スコトゥスが数的な一に対する弱い
一性を想定している点も批判します。本性が弱い一性だとするなら、上の
議論から個体的差異を伴っても弱い一性のままだということになってしま
い、個体も数的な一ではなくなってしまう、というわけです。

オッカムの反論は一貫して論理学的な矛盾をついていくというものです
が、そうした議論の後で、今度は自説を述べています。まずは端的に「個
別的な事物はそれ自体個別である」としています。個別は、(実在論的
に)それに何かが加わって普遍になったりするのではなく、共通本性も、
それに何かが加わって個別になったりするのではない、というわけです
ね。次に今度は「心の外にあるのは個別だけであり、それらは数的に一で
ある」とします。オッカムはそうした自説を前提として、そこから共通本
性や普遍といったものがいかに成立していくのかを考えていこうとしま
す。その先に、『大論理学』などで展開する代示理論などが控えているの
ですが、それはまた別の機会に見ていきたいところです。

とりあえず今の話で言えば、個別と共通本性とが断絶しているという立場
はスコトゥスにもオッカムにも見られるものですが、スコトゥスが共通本
性から個別の成立を考えていたのに対して、オッカムはむしろベクトルを
逆転させ、個別から共通本性なるものの成立を考えようとしています。そ
の際にオッカムは、共通本性が心の中でのみ、概念としてのみ成立するも
のと考えるのですね。オッカムが唯名論と言われるゆえんです。その立場
はある意味、近・現代の記号論の嚆矢のようにも見えます。オッカムに端
を発する唯名論からの流れは、非常に長い射程を誇っていました。とはい
えスコトゥスの系譜も必ずしも絶えてはいません。それはやがて、思いが
けない形で復活するようです。
(続く)


------古典語探訪:ギリシア語編----------------
「ハリポ」で復習、古典ギリシア語文法(その7)

ハリー・ポッターの映画版は5作目が公開になりますね。原作も完結編の
予約が始まったとか。古典ギリシア語版は続刊は出ないのでしょうか?
ま、ともかく、私たちはゆっくりと1巻冒頭の続きを見ていくことにした
いと思います。今回の原文テキストはこちら(http://
www.medieviste.org/blog/archives/A_P_No.7.html
)。

he^ gar adelphe^ he^ te^s Doursleias e^n gune^ tou Pote^ros・ ou
me^n oude sunegenonto alle^lois polla ete^.

前半は特に問題はないと思います。冠詞が名詞と形容語句で繰り返される
のももうおなじみですね。adelphe^は「姉妹」。ここでまでで「という
のも、ダースレー夫人の妹はポッターの妻だったからだ」。me^nは強調
を表す小辞。sunegenontoはsungignomai(会う)のアオリスト。
alle^loisで「互いに」。polla ete^で「何年も」。全体で「もっとも、彼
女らは互いに何年も会っていなかったが」。

ekeine^ d' oun eiro^neuomene^ ouk ephe^ echein adelphe^n
oudemian.

ekeine^は「その」。d' ounはde oun。ounは「そこで」、
eiro^neuomene^はeiro^neuomai(知らぬふりをする)の分詞(名詞用
法)。ephe^はphe^mi(言う)の未完了過去。その目的語が不定詞句
echein adelphe^nになっています。oudemianは「一人たりとも」とい
う強調の否定辞。これで「しかもそこで彼女は知らぬふりをし、妹がいる
などとは決して口にしなかった」。

pantapasi gar ek diametrou einai ta te^s heauto^n diaite^s kai ta
to^n suggeno^n, te^s te adelphe^s kai tou andros ekeinou
kakoe^thous ontos.

pantapasiは「まったくもって」。ek diametrouで「正反対に」。
diaite^sは「暮らしぶり」の属格。ここは定冠詞とともに用いられて漠然
と「事象」を表す属格の用法でしょう(たとえばto te^s tuxe^sという
と、「運命の事柄」の意味になります)。suggeno^nは「家族の」。こ
れで「自分と家族の暮らしぶり」。kakoe^thous ontosで、「悪い存在
の(良いところがない)」。全体で「というのも、自分とその家族の暮ら
しぶりは、妹とその何の取り柄もない旦那の生活とはまったく対極的だっ
たからだ」。

今回はpolla ete^という言い方が出てきたので、ついでながら、年数を表
す表現を辞書から抜粋しておきます。
毎年:hekastou etous または kata etos
5年ごと:ana pente etea
5年目ごと:di' etous pemptou
来る年も来る年も:etos eis etos


------文献講読シリーズ-----------------------
アルベルトゥス・マグヌスの天空論・発出論を読む(その6)

前回までは「天空は魂によって動かされている」という立場の諸説を紹介
している箇所でした。今度はそれに対する反論が紹介されていきます。

# # #
Contra hanc opinionem disputat Averroes et Rabbi Moyses et
multi alii philosophorum arabum quinque ratones potissime.

Quartum prima est, quod intelligentia semper et ubique uno modo
se habet. Eius igitur quod semper et ubique eodem modo se
habet, ipsa erit causa. Motus autem cuiuslibet caeli semper et
ubique eodem modo se habet. Motus igitur caeli potius erit ab
intelligentia quam ab anima, quae per imaginationem et
electionem non eodem modo se habet.

Secunda est, quod anima per imaginationem et electionem mota
ad aliquid, illo motu non procedit ulterius, sed stat in ipso et
fruitur illo. Nulus autem motus calestis est, qui stet in aliquo.
Motus igitur caelestis ab anima non est.

Tertia ratio est, quod omne mobile a perfectione sui motoris
necesse est in multis deficere. Motus enim infinitus est secundum
virtutem, mobile autem finitum. Si ergo aliquod mobile sit, cuius
motus est supra virtutem animae, illius motor anima esse non
potest. Anima autem, sicut iam habitum est, determinata est ad
unum per imaginationem et electionem, quod in una tantum
differentia situs est. Si ergo mobile est tale quod secundum
omnem partem mobilis ad quamlibet differentiam situs movetur,
illud secumdum omnem partem sui ubique est et non hic vel ibi
tantum. Motus ergo ille supra virtutem animae est. Ab anima igitur
non est motus caelistis. Cuiuslibet enim caeli quaelibet pars ad
quamlibet movetur situs differentiam.

こうした考えに対し、アヴェロエスとモーセス師、その他多くのアラブの
哲学者たちは、主に5つの議論を展開する。

まず一つめはこうである。知性はいかなる場所でも常に、みずから一つの
様態をなす。それがいかなる場所でも常に一つの様態をなすのは、みずか
らがその原因であるからだ。しかるにどの天空の動きも、いかなる場所で
も常に一つの様態をなしている。したがって天空の動きは、魂によるとい
うよりは知性によるのである。前者は想像力と選択的意志のせいで、同じ
様態をなさない。

二つめはこうである。魂は想像力と選択的意志のせいで、何かへ向けて動
かされるが、その運動によってさらに先に進むことはなく、おのれのもと
にとどまり、その運動を享受する。しかるに、何かにとどまるような天空
の運動は存在しない。したがって天空の運動は魂によるものではないので
ある。

三つめはこうである。すべての可動体は、その動因となるものの完全さに
対し、様々な点で欠損せざるをえない。というのも、運動は潜在力として
無限である一方、可動体のほうは限定的であるからだ。したがって、なん
らかの可動体があり、その運動が魂の潜在力を超えている場合、その動因
は魂ではありえない。しかるに魂は、すでに確認したように、想像力と選
択的意志によって一つのもの、つまり一つの位置的差異に向かうよう決定
づけられている。可動体がすべての可動な部分に即し、なんらかの位置的
差異に向かって動かされるとするならば、それぞれの部分に即してそれぞ
れに向かい、ここ・そこといった特定の場所に向かうのではなくなる。す
るとその運動は魂の潜在力を超えたものとなる。天空の運動は魂によるの
ではない。というのも、天空のそれぞれの部分は、いずれかの位置的差異
に向かって動かされるからだ。
# # #

1段落目のモーセス師というのはユダヤ教の思想家マイモニデス(1138 -
1204)のことですね。その主著の一つ『迷える者への手引き』の第二部
4章には、次のような話が記されています。天球には魂がある。その円環
運動は直線的な運動とは違い自然によるものではなく、よって魂の存在が
証される。けれども、もし魂をもつもの(動物)のように、何かを求めた
り、何かを逃れるために動くのであれば、その目的に達した段階で動きが
止むはずである。ゆえに円環運動においてはなんらかの「知的概念」がな
ければならない。そうした概念は知性の中にしかありえず、したがって天
球を動かしているのは知性なのである……。これはちょうど上の二つめの
議論に重なります。ですが、それに続けてマイモニデスは、知的概念を抱
く知性はみずからは動いたりはしないと述べ、魂だけでも知性だけでも円
環運動にはいたらず、両者が結びつき知的概念への欲望が生じる必要があ
るとしています(その場合の欲望の対象は神にほかならない、とも述べて
います)。

マイモニデスはアリストテレスに準拠しているわけですが、明らかにそれ
は、アラブ系の注解者たちを経たアリストテレスです。アヴェロエスもま
たアリストテレスの注解で名高い思想家ですね。アルベルトゥスが参照し
ているのは『天空と世界について(De caelo et mundo)』ですが、残
念ながら現在手元にその書がないので、ここでは中身の紹介はできませ
ん。ただ、アヴェロエスはマイモニデスの同時代人で親交もあったよう
で、宗教こそ違えど、同じような文化的遺産を受け継いでいたことは間違
いありません。アリストテレス関連のほかの議論をみても、そのことが感
じられます。


*本マガジンは隔週の発行です。次号は7月21日の予定です。

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投稿者 Masaki : 19:49