December 15, 2002

「テ・デウム」と国王

◇「テ・デウム」

「テ・デウム」("Te Deum")といえば、17世紀のシャルパンティエ作曲のもの(冒頭の「凱旋行進曲」を含む)などが有名かもしれないが、それ以外にも実に数多くの作曲家による作品がある。例えば 三ヶ尻正『ミサ曲・ラテン語・教会音楽ハンドブック』(ショパン、2001) には、シャルパンティエやブルックナーのほか、35人ほどの作曲家名が一覧表として掲載されている。"Te deum, laudamus(神よ、私たちはあなたをたたえます)"で始まるその詩句は、文字通り、神の賞賛をその内容としている。上のハンドブックによれば、これはもともと、聖アンブロシウス(4世紀)が聖アウグスティヌスに洗礼を施す際に即興で作ったとされているというが、その真偽のほどはともかく、教会音楽のレパートリー(こういう言い方をしてよいかどうかは置いておくが)において、「テ・デウム」は特異な位置を占めている。聖務日課としては日曜などの「朝課」の最後に唱われるものだというが、国家行事・宮廷行事においても演奏されるからだ。

では、それはいつから宮廷・国家行事に取り込まれるのだろうか? ローマ以外のいわゆる蛮族において教会との関係が言及されるのは、メロヴィング朝のクローヴィスの改宗が最初とされる。フランク族の首長クローヴィスは、ブルグンド族の王女クロティルドを后に迎えるのだが、この王女がカトリックだったこともあって、アルマンニ族の制圧(その際、制圧が果たせたら信奉するとの願をかけている)を機に改宗する。トゥールのグレゴリウスが6世紀に著した『フランク族の歴史』(仏訳: Grégoire de Tours, "Histoire des Francs", Les Belles Lettres, 1999 )の第2巻31章には、司教だった聖レミによる洗礼の場面が綴られているが、そこには色彩と香りへの言及はあっても、音についての言及は見られない(「色とりどりの垂れ布がかけられ、教会は白の幕で飾られた。洗礼室も整えられ、芳香が広がり、かぐわしい蝋燭が灯された。洗礼堂全体が神々しい香りに包まれ、参列者たちを満たした神の恩寵は、楽園の芳香の中へと連れて行かれたかと思うほどのものだった」上掲書、p.120)。

しかしこのクローヴィスの改宗は、その後の教会と国家の結びつきにおいてモデルとしての機能を果たし続けるようだ。もちろん、メロヴィング朝の後にはカロリング朝が続き、シャルルマーニュこそが「キリスト教国家」の立役者となるのはその通りで、教皇レオ3世による帝冠の授与は時代を画す出来事には違いない。後世への影響という点からもシャルルマーニュの功績は大きい。しかしながら、教会権力と世俗権力の関係という点から見れば、クローヴィスの影は決してなくならない。それはさらに時代を下って、例えば聖王ルイの戴冠式にまでモデルとして受け継がれていくことになる。

◇教会権力・世俗権力

カトリック王の典型とも言われる聖王ルイ(ルイ9世)の時代には、戴冠式の式次第が書物として作られている。1246年のこのテクストと、ジャック・ル・ゴフほか4人の研究者による論考をまとめたものが最近書籍として出版されたが( "Le sacre royale", Gallimard, 2001 )、それによると、戴冠式は次のように進められる。まず戴冠を受ける王は、教会まで行進し、内陣の入り口にまで達したところで、大司教、司教らが席につく。すると、ランの聖レミ修道院の修道院長が聖油瓶を運んでくる(ここに、クローヴィスの洗礼が示唆されている)。大司教(ないしその代理)は、王に教会法を順守を宣誓させる。ここで二人の司教が民からの同意を求め、それが得られると最初の「テ・デウム」が歌われる。

次に王は二人の司教の手を借りて立ち上がり、民の平和を約束する。王はここでいったんひれ伏し、長い連祷がのべられ、王は神、教会、民に対して再度宣誓を述べる。次いで王は祭壇の前で衣服を変える。王の紋章である百合のモチーフが描かれた靴を履き、大司教からは剣を受け取る。この後に儀式のクライマックスともいうべき塗油へと移る。大司教が、王の頭、胸、肩、肘、手へと聖油をかける。こうして、王は旧約聖書の諸王に連なる存在になったと宣言される。

塗油の後は、様々な徴が与えられる。カペー朝において権力の色とされた青のトゥニカ、その上には袖なしの外衣を着、大司教から王の権威とカトリック信仰の証となる指輪や杖などを受け取る。そして王冠と玉座が与えられる。王は再度、神、教会、民に対する宣言をし、鐘が鳴り響き、聖職者は「テ・デウム」を、民衆は「キリエ・エレイソン」を歌う。今度は王妃への塗油、戴冠がなされ、王国と民の祝福、王妃の祝福などがあり、次いでミサが執り行われる(儀式が祝日に行われることから)。

以上がアウトラインだが、これからも窺われるように、戴冠式には民衆も参列していて(王への同意を与える)、小さいながらも式進行の上での役割が与えられている。ル・ゴフはこれを世俗の貴族や少数のブルジョワが参列を許されたのだろうと述べている(p.24)。いずれにしても、ル・ゴフによれば、ここでの王は「『立憲君主』ではないにせよ、『契約的』君主」で、それは14世紀以降の絶対王政にまで至る流れをなしている(p.31)。式の中で「テ・デウム」は二度、民の同意の後と式の最後に歌われる。一度目については記載がないが、二度目の「テ・デウム」は参列する聖職者が歌うことになっている(民衆ではなく)。これは重要なポイントだ。というのも、これは王の戴冠を教会側が喜び神への感謝を述べる意味をなしているように思われるからだ。「テ・デウム」の歌詞を見ると。まず、「私たち」が「あなた」つまり神をたたえ、さらに天使、諸天(caeli)、世の力あるもの(universae potestates)もまた「あなた」をたたえる、と続く。さらに預言者、殉教者、教会が、父と子と精霊とをたたえる、と続き、次にキリストの栄光が述べられる。次いで、「しもべたち」を助けるよう、聖人たちとともにあるよう取りはからうよう、キリストへの懇願がなされる。それから「民を救い、あなたの世継ぎを祝福し、彼らを治め、永遠にまで高めてください」(Salvum fac populum tuum, Domine, et benedic hereditati tuae. Et rege eos, et extolle illos usque in aeternum. )と述べられる。民、世継ぎといった語は、ここで微妙な意味を付されている、と見ることもできる。つまりそれは通常の意味の「信者」「精神的指導者」といった意味に限定されず、「支配下の民」「世俗の指導者」という意味にまで拡大可能であり、また実際に拡大されているということだ。おそらくは「テ・デウム」が国家行事に使われるようになる理由の一端もそのあたりにあるのだろう。とはいえ、まだこの13世紀の戴冠式においては、あくまで教会が教会自身のために、神の名において、神の権限のいわば一部代行者のような形で国王を認め、権限を「分与」していた。ゆえに「テ・デウム」は聖職者たちが歌うのであり、世俗権力の教会権力への従属の関係が、ここで再確認され再生産されるのである。ル・ゴフはこれをこう定式化している。「神と人との仲介者である聖職者は、国王を、聖職者と民との仲介者に仕立てる。国王による、神と民との仲介行為は直接的なものではない。それは教会を、聖職者を通じて行われるのだ」(p.22)。

◇国王という存在

ルイ9世が「聖王」と呼ばれるのは、民のために正義と平和を重んじた人物として描かれたからだ。そこにはある意味での宗教的神秘と世俗的政治との融和・共存関係が見てとれよう。とはいえそれは、前者による後者への影響力のもとで維持されていた均衡だということもできるだろう。そしてその影響関係は、時代が下るとともに逆転する。

上掲書に所収のマリー=ノエル・コレットの論考(Marie-Noël Colette, ≪Le chant dans l'ordo du sacre≫)によると、「テ・デウム」が二度歌われるのは異例のことだという。戴冠式の式次第は、この1246年のテクスト以外にいつくかあり、それらでは「テ・デウム」は一度しか歌われない。しかも「テ・デウム」が恩寵を求めるものである以上、式の最初の方(同意を得るところ)でのみ歌われることが多い。逆にこの1246年のテクストでは二度歌われるために、その式の重要性が否応なしに強調されている、とコレットはいう(p.230)。

ミシェル・フォジェルの力作『告知の儀式』( Michèle Fogel, "Les cérémonies de l'information dans la France du XVIe au XVIIIe siècle", Fayard, 1989 )には、「テ・デウム」の変遷について扱った一節がある。それによると、「テ・デウム」は15世紀まで戴冠式の始めの方で歌われていたが、1484年のシャルル8世の戴冠から大きな変化を遂げる。「テ・デウム」は式の中心部分の締めくくり部分に、すでに玉座に座った王に対して捧げられるようになる。しかも、それまで無伴奏で歌われていたものが、宮廷音楽家たちによって、オルガンの伴奏が付いて奏でられるようになる。また、例えば1418年のコンスタンツ公会議における教会大分裂の終焉などを祝う際など、「テ・デウム」はすでに大きなイベントで使われるようにもなっていた。さらに後のアンリ3世の時代(16世紀)になると、「テ・デウム」は戦争の勝利をたたえるなど、王宮の威厳と決定的に結びついたものとなる。16世紀の末ごろには、「テ・デウム」が単独で凱旋の告知と記念に使われるようになるのだ。

1365年の戴冠式の式次第(シャルル5世の時代)では、「民による同意」の部分は削られたものの、「テ・デウム」が残されたことにより、教会はまだその影響力を行使できる立場にあった。実はこれは、イングランドにトゥールーズを譲ることとなったブレティニー条約(1360年)後のフランス王権の弱体化において、教会権力の支えが必要だったことの反映だった。しかし16世紀にもなると、フランソワ1世や続くアンリ2世による行進の多用など、宗教戦争における取締り強化の文脈において国家の力が増し、アンリ4世時代(16世紀末)になると、教会側の権限と責任は狭められていく。

このように、「テ・デウム」の位置づけは教会と王権との関係とともに変化していく。このことをふまえて先の1246年のテクストを見返してみると、「テ・デウム」が二度歌われることの意味の一つが、おぼろげながら見てくる気もしなくはない。つまり、教会の絶対的庇護のもとで、国王が内政的安定化に努めることが強く要請されているのではないか、ということだ。このテクストが収録された前掲書所収のエリック・パラッゾの論考(Eric Palazzo, ≪La liturgie du sacre≫)では、1246年のテクストと、上のシャルル5世編纂の式次第とが、あくまで理念的・イデオロギー的なテクストであり、現実の儀式のモデルとして他の君主らに使われることはなかったと指摘されている(p.79)。その意味において、二度の「テ・デウム」は、教会側の影響力というものを改めて誇示していると見ることができそうだ。封建的な王から国家の王への移行期ともいえる13世紀(ル・ゴフ)にあって、それは時代の理想の一形態だったのかもしれない。

Text: 2002年11-12月

投稿者 Masaki : December 15, 2002 12:19 PM