March 04, 2004

ロジャー・ベーコンの光学思想

◇中世の「視覚」?

中世はよく音が優位の世界だなどといわれる(*)。これはつまり、史料として残る視覚的なものの貧しさ、表現の貧弱さなどから、また一方で音楽的な豊かさなどから、視覚よりも聴覚の方が大きな影響力をもっていたのだという考え方だ。なるほど、確かに写本に描かれた人物像など、現代人の目から見れば「貧相な」ものにすぎないかもしれない。後代の遠近法もまだなければ、写実的描写も、ディテールの細やかさもない。中世の「芸術作品」はルネサンスに比べればはるかに見劣りがする……けれども、そう考えた時点で、すでに進歩史観の虜になってしまっているのではないか。直線的な、右肩上がりの歴史認識は、否定されたはずだったにもかかわらず、こういう中世の聴覚を重んじる立場に、すかし絵のように刷り込まれていたりするから厄介だ。

* これは例えばW-J. オング『声の文化と文字の文化』(藤原書店)などが触発した立場だ。そこでは音声と文字との関係において、前者が圧倒的優位に立つとされている。しかしながら、それはあくまで文字をのみ比した場合であって、他の視覚的な文化の豊かさは考慮されていない。

視覚に対する聴覚の優位、という話にはもう一つの「刷り込み」がある。視覚的な史料は乏しいながらも存在するのに対して、聴覚的史料というものは存在しない。あるのは聴覚に関連づけられるような史料だけだが(ネウマ譜などの写本、楽師らの図像など)、それもまた乏しいものでしかない。この点からすると、視覚に対する聴覚の優位は単純に云々できないことになる。とはいえその一方で、言語による情報伝達という観点を取り出してみれば、文字を目で追うよりも、口承されるものを耳から聞く方が一般的だった。それはその通りだろう。けれども、当然ながら情報伝達というのは言語だけに限定されない。非識字者といえど聞くだけでものごとを捉えていたわけではない。実際、教会は「貧者の聖書」として、一般の信徒に対して視覚による聖書の内容の教育をなすものだったといわれている。目と耳はいつの時代でも使われていたのだし、当たり前だが今でもそうだ。人は書物を読むが、同時に学校では口頭で授業が行われるではないか。相互に補完的な関係にあるものを分離して、どちらが優位かと比較するのは、すでにして近代的な「分業」的発想、「専門化」的発想、あるいは抽象的単位を仮構した「量的比較」という発想の虜になってしまっている。現代人のそういう発想が、認識に刷り込まれているというわけだ。

問題は視覚と聴覚のどちらが優位だった云々ではなく、それらがどのように用いられ、世界をどう切り出していたか、ということだ。視覚と聴覚はもちろん質的にはまったく異なるけれど、いずれも「世界の切り出し」に向けて動員され、そのために用いられていくことは確かだ。それは現代人の用い方とは別の用い方だったりもする。そうした部分に焦点を当てていくこと、それがここでの課題になる。それはつまり、中世の「世界観」の成立・変遷などを概観していきたい、ということだ。いずれにしても、ここでの「世界の切り出し」のプロセスとは、外部世界のカオスの中からなんらかの像・印象が浮上することをいうのであって、そこには視覚・聴覚の優劣などは存在しない。

このシリーズでは視覚についてそうした作用を考えていきたいと思っているのだが、それは視覚が優位だからでも劣位だからでもない。単にそれを先に扱ってみる、というだけのことだ。世界を認識する際の重要な要素としての視覚。その後には聴覚(あるいは嗅覚、触覚も)をめぐる考察も続けなくてはならないかもしれない。いずれにしても、ここで眺めてみたいのは、「視覚」の周辺から見えてくる風景だ。このシリーズは、いわば中世の視覚をめぐる一種の散策でありたいと考えている。視覚が切り出す世界像、視覚そのものの認識、古代の光学論の継承と遊離など、そこでは様々な風景が開けそうだ。そんなわけで、毎回なんらかの著者ないしテーマで、そうした風景に遊んでみることにする。

◇ロジャー・ベーコンから始めよう

今回はまずロジャー・ベーコンを取り上げよう(後のフランシス・ベーコンではない)。ロジャー・ベーコンは13世紀のイングランドのスコラ哲学者だ。生年や没年も詳しいことは不明のようで、生まれは1210年とか1214年とか諸説あり、また出身地に関しても諸説ある。パリで神学を修め、当時盛んに教えられていたアリストテレスの自然学を講じるようになるが、後にはスコラ哲学に異を唱え、実践的な学問へと学問全体の改革を訴えるようになる。1266年から68年にかけて、教皇クレメンス4世のために『大著作(Opus majus)』『小著作(Opus minus)』『第三著作』(Opus tertiumu)』『形象の増殖について(De multiplicatione specierum)』などを執筆する。一般に、ロジャー・ベーコンが重要なのはその学問的な改革指向のためだといわれている(*)。神学の豊かさのためには、異教の学問を取り込むことをも辞さない(ヘブライ、ギリシア、アラブの言語を学び、西欧の知的向上に努めるべきだとした)という立場は、なかなか画期的なものだった。また数学を(それまでの論理学ではなく)重視する立場を取り、自身はとりわけ光学の研究に打ち込んだ点も特徴的だ。もちろん光学研究には先駆者たちもいるが、彼の光学は独自の自然哲学となしているとされる。こういうわけで、ベーコンはまさに本シリーズの冒頭を飾るに相応しい。

* ロジャー・ベーコンの学問的スタンスについては、山本義隆『磁力と重力の発見 1』(みすず書房、2003)に一章が割かれ詳述されている(pp.232-267)。

そんなわけで、ここではべーコンの光学の核心部分を『形象の増殖について』(『形象増殖論』と言われたりもする)で眺めてみることにする。この形象の増殖こそが、ベーコン自然学の核心的な部分だとされている。参照するのは羅英対訳本("Roger Bacon's Philosophy of Nature", trans. by David C. Lindberg, St. Augustine's Press, 1998, Indiana)だ。 この対訳本の訳出にあたっているリンドバーグは、冒頭の解説文で、ベーコンの光学にまでいたる知の流れを振り返っている(pp.xxxv - liii)。光のメタファー(とりわけそれを神と同一視する考え)はプラトンや聖書から始まって、アレキサンドリアのフィロン、プロティノスのネオプラトニズムを経ていく。さらにはアウグスティヌス、5世紀の偽ディオニシウス・アレオパギタを通じ、中世にまで継承され、オーベルニュのギヨーム、ボナベントゥラ(ベーコンが属していたフランチェスコ会の代表的知識人だ)などへと引き継がれていく。さらにプロティノスの系譜はイスラム世界をも経由し、ベーコンが盛んに引用するイスラム世界の哲学者アル=キンディのほか、アヴィケンナ、ユダヤ系のアヴィケブロンなどを経、それらの翻訳を通じて中世世界にも大きな影響を及ぼすことになる。そこには、ベーコンの師でもあるグロステストなども連なる。こうした見取り図の先に、ベーコンの光学思想が位置づけられる。ではさっそく、その思想のエッセンスがまとめられている第一部を中心に、同書を見ていくことにする。

◇形象の成り立ち

そもそも形象(species)とは何か。それは自然の作用素(agens)がもたらす効果(effectus)のことだ。「例えば、大気中の太陽の明かり(lumen)は、太陽がその本体にもつ光(lux)の形象だ(dicimus lumen solis in aere esse speicem lucis solaris que est in copore suo)」(p.2)。この場合、太陽の光が作用素で、それが媒質(medium)である大気を媒介することで、結果的に(その効果として)明かりが存在する。ここで重要な原則がある。上に挙げたアヴィケブロン(当時のフランチェスコ会に多大な影響を及ぼしていたとされる)の説では、発出したものは、その発出の元になったものの似姿となるとされる(p.xlvii)。もともとはアリストテレスから来るこの説を用い、ベーコンは、作用を受ける受容体は、最初は作用素とは似ていないのだが、作用が働くことによって作用素に似るのだと述べる(p.6)。受容体は作用素の効果を受けて変容するのだ。こうして大気中の「明かり」は、もとの太陽の「光」に似たものとなる。

さらに媒質を介することによって、様々な特性も形作られる。「彩色と輝きは、色と明かりから媒質と視覚とに生じるが、彩色は色が存在しなければありえないし、輝きは光がなければありえない((...)a colore et luce advenit medio et visui coloratio et illuminatio. Sed coloratio non est nisi per coloris, nec illuminatio nisi per esse lucis)」(p.8)。光だけが問題なのではないことは、すでにこの「色」への言及からも読みとれる。あらゆる形象は、作用素(ここでは色もまた作用素をなしている)から媒質(大気)への効果として生じる。その際、作用素がもたらす第一の効果(最初の効果)は常に同じだ(p.18)。しかも形象は偶然によって生じるのでもない。それは認識や判断にも関与することから(「羊は狼の複合的な形象を感受し、その形象は類推力を司る器官にまで浸透する、そのため羊は一目見て逃げ出す(p.24)」)、「実質」(認識や判断に関わる部分だ)によって生じるのだ。

さて、上に言及した山本義隆は、師グロステストに対してベーコンが異なる点として、光の捉え方と、近接作用のモデルを上げている。まず光の捉え方については、グロステストが光をすべての作用の原質とするのに対し、ベーコンにとっての光は様々な作用の一例にすぎないのだという(『磁力と重力の発見 1』、p.256)。さらに近接作用のモデルは、作用素と受容体とが近接する際に「第一の効果」が生じ、それが「第二」「第三」などの効果を近接的に、また連続的に生じさせるというもので、あくまで光が瞬時に球面上に広がるとするグロステストに対して、ベーコンが時間的な伝播を論じている点が独創的なのだという(同、p.258)。なるほど、ベーコンの形象の考え方では「いかに作用するか」が重要なのだ。それは順次、時間的に(ごく短い時間だが)波及する。音の場合を除き(音の場合には、衝撃によって本来の場から動かされることによる振動が問題であって、第一の効果に関する限り作用素と媒質の関係ではないとされる。ただし第一の効果から第二の効果(共振動など)は形象と考えられている(テキスト、p.20))、自然の一般的現象としての形象はあらゆる細部にまで及んでいく。人間の感覚もまた形象を作り出すが、それはごく一部の特殊な形象にすぎないのだ。ここから導かれる人間観は、認知の及ばないもの(形象が得られないもの)にも取り囲まれているという意味で、人間は実に限定的な存在でしかない、ということになるだろう。

◇視覚と世界

数ある形象の作用には、人間の感覚が作り出す形象も含まれる。色、匂い、味、様々な感触など、各感覚器官がそれぞれに形象を作り上げる(p.32)。視覚はその中の一つにすぎない。しかもその視覚についての認識は、少なくとも11世紀以前の伝統的な視覚の認識とも異なっている。サビーヌ・メルシオール=ボネ『鏡の文化史』(竹中のぞみ訳、法政大学出版局)によれば、古代から中世まで継承されていた「視覚」の考え方には、プトレマイオスに準拠する説と、デモクリトス、ルクレティウスに準拠する説があった。前者は、目から直線状の視覚光線が発せられ、その光線が物体に到達して形や色を目に伝えるという考え方で、後者は、物体の側から粒子が発せられ、それが目に達するという考え方だ。プラトンがそれを総合し、目からの光線と日の光との流れが出会うのだとしていた。10世紀後半から11世紀前半に活躍したイスラムの数学者アル・ハーゼンが網膜の残像を指摘するまで、それは修正されなかったのだという(『鏡の文化史』、pp116-117)。アル・ハーゼンの著作が翻訳されてヨーロッパに伝わるのは11世紀中のようで、ベーコンもアル・ハーゼンを盛んに引用しており、当然ながら、目から光線が発せられるという見解は明確に否定している(p.32)。

ベーコンの場合、対象物のもつ形や色は、媒質(この場合は空気がその役割を担う)を経て視覚において形象を形作る。そのためには、対象物がなんらかの密度(媒質とは異なる密度)をもっているだけで十分なのだ((...) sufficit visui quod color et lux sint in denso aliquali, scilicet, ut terminetur visus, non enim terminateur nisi per densum.)(p.38)。人間は対象物の形象を対象物そのものとして受け取るが、形象の生成とは、受容体の実質に潜んでいる能動的な潜在性を引き出す形で行われる(per veram immutationem et eductionem de potentia activa materie patientis)(p.46)。作用を受け取る側にあらかじめ存在している潜在性を、その作用が顕在化させるのだ。色ガラスを例に取ると、その色の形象は最初大気中に作られるのだが、それだけでは発色しない。空気が色の潜在力に乏しいからで、その空気が不透明な混合物に接した時の方が強く色の形象が生じる。そちらの方が実質として、より色に適切な潜在力をもっているからだ((...) quando venit ad corpus mixtum, quod magis aptum est ad colorem, potest species in aere existens educere de potentia materie speciem pleniorem)(p.54)。

作用素の効果は常に同じであっても、このように受容体が異なれば作用も異なる場合がある。また逆に、例えば太陽と月のように(ベーコンの時代にはいずれも光源と考えられている)、光の作用の大きさや速度は同じだとしても、光源の強度が異なる場合もある。ベーコンはこの場合は大きさが異なるからだとし、プトレマイオスの『アルマゲスト』をもとに、太陽は地球の170倍、月は地球の39分の1という数字を挙げている(p.64)。数字は現代において知られている実際のものとは相当違うものの、地上世界が限定的なものであるという認識はここに明確に見て取れる。さらに、作用素の効果には漸減性もありうる。作用素は第一の効果を及ぼし、近接作用によって第二次、第三次の効果が生まれ、作用が及ぶ限りの末端にまで達するわけだが、その過程において効果の完全性が受容体の性質などによって漸減していくのだ(p.68)。

ベーコンはプトレマイオス的世界観(地動説、周転円説)に即して、世界は球形であるとし、その理由の一つは、天空が球であることによって、天空の力が中心、つまり地上という創造の場にすべて流れ込み集まるからだ、としている((...) sperice figure esse debet ut undique a partibus spere confluant virtutes celorum in centrum huius spere, quod est locus generationis.)(p.78)。作用は上から下へともたらされる。効果が完全になるには、作用素が受容体より力が強く、また両方に共通の実質が存在することが条件なのだ(Stat igitur ratio generationis effectus completi in duobus, scilicet quod agens habeat potentiam maiorem quam patiens ut vincat, et quod materia sit communis agenti et patienti (...))(p.82)。したがって、条件がうまく揃わなければ、効果の完全性は漸減しうるのだ(ここから、屈折などの現象が想定される)。ここには強から弱へという力の階層関係が見て取れる。神を頂点とした天空から地上への階層、それに連なる地上の物質の階層だ。それなくして形象の作用は生じえない。また、上の二つめの条件から、諸階層にはなにがしかの実質の共通性が前提とされていなければならない。ベーコンの考える世界は、このようにきわめて階層的であるとともに均質的だ。

◇幾何学的認識へ

さて、ここまでが『形象の増殖について』の第一部のアウトラインだ。ベーコンの自然学のエッセンスは基本的にここまでで出尽くしていると思われる。これに続く第二部から第六部では、形象の増殖という動きに関して、より具体的な問題についての説明がなされる。例えば屈折の考え方だ。形象が媒質を通過する際に、その媒質からの抵抗を受けて屈折するわけだが、これをめぐっては入射角と反射角の等号や、物質による屈折率の差、形状による反射の違い、天体の蝕の問題などが言及される。また、移動する物体の形象の問題もある(形象それ自体は移動するのではなく、その都度作られる)。さらに複数の作用素から複合的な形象を受け取る場合の統合という問題もあり、垂直方向(直線的ということ:階層性、つまり上下関係があるため垂直という言い方になっている)の形象が、受容体に優位に働くと説明されている。これらの細かな問題については今後触れることもあるだろうから、ここではこれ以上取り上げない。

とはいえ、いずれにしても興味深いのは、それが幾何学的図形を駆使して説明される点だ。それはまさに客観的な記述を指向していることの証しだ。図形そのものは概略的なものではあっても、視覚に訴えることが理解を助けることをベーコンは承知している。一方でそれは、当然ながら抽象的な思考の全面的開花を示している。これはまさに、13世紀のスコラ学の「言語論的転回」(論理学的展開)とパラレルだ。両者は同じ抽象的な認識の上に成り立っているように思われる。観察・言説といった一次的なものをベースに抽象思考を練り上げる動きは、まさに中世盛期からの特徴点をなしている。そしてそれはより広い社会的なコンテキストにも開かれているはずだ。

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とりあえず今回は、ベーコンの光学的な視座を確認するだけだったが、これは出発点としては有益だ。上に挙げた個々の問題(世界観、視覚についての認識、光学、幾何学など)は、時代的に遡及したり、系譜をたどり直したり、同時代的な動きを追ったりすることができそうだ。さしあたり次回は、ベーコンより先行する時代(12世紀)のコンシュのギヨームあたりを取り上げたいと思う。

(text :2004年02〜03月)

投稿者 Masaki : March 4, 2004 12:07 PM