May 30, 2004

12世紀の実利主義

「儀式の誕生」を扱おうというこのシリーズでは、王権や教会といった権勢の問題を中心に、中世の様々な側面を見ていくことを主眼にしようと思っているのだけれど、今回は11世紀から12世紀初頭にかけて、そうした権勢に深く関わったある人物像をモデルケースのように取り上げてみよう。その人物とは、パリのサン=ドニ教会の司教シュジェ(スゲリウス)だ。この人物はサン=ドニ教会の再建でとりわけ有名だが、当時の王権とも密接に結びつき、フランスの国家戦略にも多大な影響を及ぼしている。

◇実利指向の足跡

まずはその足跡を、著作全集(Suger "Oeuvres", Les Belles Lettres, 1996, 2001)の校訂者フランソワ・ガスパリの解説をまとめる形で見ておく。シュジェは1081年ごろに、ロワシー近くのシュヌヴィエール=レ=ルーヴルの農家もしくは騎士階級の家に生まれたのではないかとされている。決して位の高い家柄ではなかったようだ。10歳の頃にサン=ドニ修道院に預けられ、エストレの礼拝学校ではフィリップ1世の子ルイ(のちのルイ6世)とも面識ができたものの、その後父親とともに英国との戦争に参加する。修道院生活を愛したシュジェはその後1104年から06年まで修道院付属学校に学んだらしく(記録はないというが)、いずれにしても古来の文献に通じていたシュジェは、1107年にサン=ドニに戻ると聖職者の叙任権問題を担当するようになり、同年開かれた会議ではパリ司教の主張に対して、サン=ドニ修道院の地域における聖職者の叙任権などを守り抜いた。

その後、シュジェはノルマンディ地方ベルヌヴァルの行政官管轄区について権利を法廷で争ったり、ボーセ地方トゥーリの管轄区の管理を担当したりしている。この後者の在任期間には、当時フランスの王になっていたルイに訴え、領地を狙っていたピュイゼの城主との戦を起こしたりもしている。こうしてシュジェはルイ王の顧問役ともなり、教会と国家の両方の行政に関わることになる。1118年、ローマ教皇ゲラシウス2世が神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世に追われてフランスに亡命し、翌年その死去に伴いカリクトゥス2世が教皇に即位するが、この人物はフランスとの結びつきが強く、こうしてフランスと教皇との関係は最盛期を迎える。そんな中、ランでの公会議開催(1119年)の尽力を買って、国王ルイ(ルイ6世肥満王)はサン=ドニに王家の墓所を設ける。シュジェはその際にも仲介役となったほか、国王の使者としてカリクトゥス2世のもとへと派遣されてもいる。その任務を終えてフランスに戻ると、サン=ドニの修道院長の死去にともない、その役職を受け継ぐことになる。1122年のことだ。

就任後イタリアを訪れたシュジェは、そこでローマの建築の数々を目にし、それがサン=ドニ大聖堂の再建に大きな影響を与えたとされる。シュジェは王権をサン=ドニに結びつけようとしたようだとされるが、それはうまくはいかなかった。王の戴冠式はランで行われている(これについては後述する)。いずれにしてもシュジェは、王権を高めることと修道院の領地を拡大することを目標にしていたようだ。そのため、戦の調停などをも積極的に進め、神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世との戦を防いだり、ルイ7世の弟によるクーデターを防いだりしていく。一方、クレルヴォーのベルナール(ベルナルドゥス)などから、サン=ドニ修道院が無秩序になっていることを指摘され、シュジェはその制度面での改革にも着手せざるを得なくなる。そこでもまた、聖ベネディクトの修道院規則の遵守を求める圧力とサン=ドニの信徒共同体とのいずれをも納得させるため、折衷案的な施策を講じている。

1125年からはサン=ドニの拡張工事が始まり、シュジェはそれに伴い、過去に失われた財産の回復など金策をも積極的に手がけるようになる。そうした厳しい財政管理はその後も継続されていくが、その一方で1137年ごろまでは国の統治にも密接に関わっていく。アキテーヌ公ギヨーム10世の死去にともない、その領地がフランス王に譲渡される際には、シュジェは病のルイ6世にともだってボルドーに赴いている。その際にシュジェは遺言状を残しているというが、その中で自分の不適格さを恥じ、自分の死後は毎年祈りを捧げてくれるよう指示している。

1137年にルイ6世が亡くなって以後、シュジェは宮廷から遠のく羽目になり、結局修道院の再建事業に専念することになる。と同時に、ルイ6世の伝記の執筆にも取りかかる。そんな中、ルイ7世が聖地エルサレムへの遠征(亡くなった兄弟の誓いを果たすため)を決意するが、その留守を預かる摂政の大役にシュジェが指名される。ルイ7世の出発は1147年6月で、その後の2年間、シュジェは国政に全面的に携わる。まさに両剣(世俗の剣と精神的な剣)を一手に握ったシュジェは、教会の混乱や、王の不在に乗じた反乱などを鎮め、やがて1151年にこの世を去った。聖地から戻ったルイ7世がシュジェの死後まもなくプランタジネット一族との戦を始めるのが、いかにも象徴的だ。


◇儀式の設置

さて、上に示したシュジェの足跡で注目される三点に下線を引いておいた(修道院の改革、財政管理、そして遺言)が、それらの事項を中心に、具体的なシュジェの活動を見ていこう。上述したように、当時のサン=ドニ修道院に対しては、修道院規則を守っていないという批判的見解が示されていた。とはいえ、ベルナールの批判はあくまで伝聞に基づくものだったようで、また同じく批判的だったアベラールは具体的なことには触れていない(ガスパリの解説、"Oeuvre", vol.1, p.XIX)。そういった点からすると、あるいはシュジェの活動が国王寄りだったことが、教会にとっての問題だったのかもしれない。

1122年の文書を見てみよう("Oeuvre", vol.2, pp156-167)。ここでは聖母マリアへの聖務を毎週行うことが定められている。家柄がよいわけでもないのに(これについてシュジェは再三言及する)修道院長に選出されたことを神に感謝するため、聖母マリア(教会参事会が奉っている)へのミサを毎週土曜に捧げ、精霊降臨祭からの8日間のうち最後の3日をミサに当てることにした、とシュジェは記し、加えて、人は惨めな死すべき存在であるがゆえに、そのミサは終わることなく、将来にわたってこのミサはなされなければならないとしている。さらに修道院が名を冠するサン=ドニ、聖ディオニュシオスに捧げるミサも執り行うとし、それは裁きの日に備えるためなのだと説く。こうしたミサの挙式に必要な予算として、シュジェはエストレの通行税の引き上げ(日々の徴収額を6スーから10スーへ)、ヴェクサン(北仏)での税収と、国王ルイ6世からの税を当てると述べている。このあたりの具体的な財政管理のセンスがシュジェの興味深いところで、大祝日のミサを荘厳に行うためとして、各日に120スー(ソリドゥス)を当てるとし、60スーはエストレの通行税、もう60スーはヴェクサンの税収から拠出するといった具合に、かなり細かく規定している(これは他の証書でも同様だ)。また、そうした税収分が不足するといった事態には、他の財源から流用することも指示している念の入れようだ。なお、国王からの税負担分はそれらの祝日の食事の増額分などに当てられる。

そしてこの文書の末尾では、その国王の誕生日を祝うミサを毎年執り行うことをも謳っている。これについての注釈では、幼少の頃から親しんでいた国王との友情と、王家と修道院との結びつきを強化しようという政治的関心とがそうした式典の動機だとされているが、そうした心理的な面に立ち入らなくても、これが国王へのある種の配慮であることは間違いない。やや唐突な感じに言及されるこのミサだが、そのことからも、ある意味でこのミサの創設そのものが、国王が教会に対して払う税への見返りをなしていることが窺えないだろうか。このミサにはヴェクサンの税収を20スー当てると記されており、国王からの財源をこれに当てずわざわざ別の財源を持ってきている。このことにも、あまりに露骨な見返りの関係(当人の寄付を当人のミサに当てるわけにはいかないのだろう)を目立たなくする意図があったように読めなくもない。上の例でも見て取れるように、いわば本来の自助努力としての通行税その他の徴税増があって、その上で国王からの負担分は別枠の扱いになっているように見受けられる。

とはいえこのギブ&テイクの関係はそれなりに明確だ。そうした関係は、世俗との関係において、ある意味でシュジェの行動原理ですらあるのかもしれない。1125年の文書(同、pp.166-175)には、サン=ドニ修道院の領地内の住民に対して、重い負担となっていた死亡税(死亡した際に領主に納める税金)を廃止することを決定しているのだが、その代わりとして200リーヴルを納めることを条件としている。その金額は修道院の入り口の改修費用に用いられることになっている。

◇シュジェにとっての王家

財政状況の改善のために、シュジェは様々な方策を打ち出す。1140年の文書(ibid, pp228-257)では、食事の世話や看護などの務めの代価の「値上げ」が決定されている。と同時に、その同じ証書の中で、シュジェは修道院への多大な貢献をした人々を記念するミサを創設する意向を示し、特にシャルル禿頭王に捧げるミサの復活を謳っている。シャルル禿頭王(カール2世)は9世紀の西フランク王で、後に三代目のローマ皇帝の称号を得た人物だが、ではなぜここでカペー朝の時代に、それ以前のカロリング朝の王を讃える動きに出るのだろうか?一つには、カペー朝が中央集権化していく過程で、その権限の根拠としてカロリング朝の系譜、とりわけローマ皇帝の権威を持ち出してきたという動きがある。

まずもってランでの戴冠式がその表れだ。というのも、ランはクローヴィス以来のメロヴィング朝の王宮があった場所でもあり、その地の大聖堂において王が塗油を受ける(王権授受の儀式に含まれている)ということは、ハトの姿をした聖霊によってもたらされた油により、クローヴィスが塗油を受けたという故事にならうものだったのだ(ジャック・ル=ゴフ『ヨーロッパは中世に誕生したか?』("L'Europe est-elle née au Moyen Age ?", Seuil, 2003, p.102))。その意味では、ランでの戴冠にシュジェの政治的野心の失敗を見ようとするような立場(校訂者ガスパリがそういう見解を述べているが)には疑問が残る。むしろ大事なのは、また別の主要人物を通じて、つまりこの場合はシャルル禿頭王だが、昔のカロリング朝とカペー朝との流れをも合致させることだったのではないだろうか(実際そうした動きは王権の側からの発意としてあり、例えばシャルルマーニュなどは少し後の1170年以降、叙事詩に取り込まれ覆いに流布することになる:ロベール・モリセー『白髭を湛えし皇帝』("L'empereur à la barbe fleurie", Gallimard, 1997)。シャルル禿頭王の場合、リュエイユの村をサン=ドニに寄贈することを遺言書に記し、王の命日の記念の儀式をその地で行うよう命令書を残したとされる。7つのランプを礼拝堂で燃やし続けることも命じられていて、さらにはその地を埋葬場所に指定しているのだ。シュジェがシャルル禿頭王の貢献や儀礼の中身を書き連ねる仕方は妙に細かく具体的で、そうした儀礼を復活させることによって、王権の意向を汲むとともに、現行の王や貴族にも、同種の、ともまではいわなくとも、なんらかの貢献を促しているようにすら思わせる。


◇聖堂改修の意味するところ

かくも政治感覚に優れたシュジェだが、その行動原理を支えるのはなんといっても教会への務めだ。神の栄光を讃えるべく、シュジェは修道院の聖堂の立て直しに着手する。工事は1137年ごろから始まったとされ、献堂がなされたのは1144年だった。越宏一『ヨーロッパ中世美術史講義』(岩波セミナーブックス、2001)によれば、その建築様式は同時代のノルマンディ地方の建築流派から影響を受けているという。現在は内陣周歩廊と梁間だけが残されているのだというが、その重要な特徴として、扉口の周囲に豊かな彫刻が配置されていたりもしたという。後の時代に破壊されてしまったわけだが(18世紀)、円柱人像など彫刻の構想自体は、やはり同時代のシャルトルの大聖堂から類推されるのだという(同書、pp.148-149)。

校訂者のガスパリは、シュジェが修道院長就任後に赴いたローマへの旅が決定的だったと述べている。シュジェはローマに半年ほど滞在し、その地の聖堂建築に深く心打たれたのではないかというわけだ("Oeuvres", vol.1, p.XV)。しかし、一方にはクレルヴォーのベルナールによるサン=ドニへの批判もあった。一般にベネディクト会が豪奢な傾向を持ったのに対して、シトー会が清貧を説くという図式で語られがちだが、ガスパリはこの点について、アウグスティヌスの時代から、美的体験が神秘の啓示の原初的側面であるという認識が引き継がれていて、ベルナールにしてもそうした流れは無視できなかったのではないか、と述べている(同、p.XX)。

シュジェが聖堂内の内陣を切り崩して、より多くの光が入るようにしたというのは有名な話だが、『サン=ドニ教会献堂録』("Oeuvre", vol.1, pp.6-10)という文書でシュジェは、もともと内陣が狭く、礼拝に来る人々が押し合う状況があり、それを改修するためだったと述べている。また、それにもまして注目されるのは、教会内に華麗に施された装飾や、大量に入手された宝物類だが、『スゲリウスによる修道院の管理』という文書では、教会の装飾に多くの財を投じたのは「自分たちならびに後継者たちから、全能の神に感謝を捧げる」ためだと述べている("Oevres", vol.1, p.110)。金などの貴重な顔料を用いて、当時の最良の絵師らを導入して装飾にあたらせたとあり、金箔を施した青銅製の扉(pp.114-116)から始まって、後陣にかける金と宝石をちりばめたパネル、聖人らの墓碑、黄金の十字架、様々な小品など、多くの品が言及されている(pp.124-154)。

酒井健『ゴシックとは何か』(講談社現代新書、2000)では、内陣の切り崩しと光の取り込みに、「地上での神の光輝の顕示」という契機を見てとっている(偽ディオニュシオス・アレオパギタの光をめぐる議論が重ねられるが、これはやや強引かもしれない)が、それは後から加えた正当化のようにも感じられる。光の取り込みは、まずもってそうした装飾の数々、展示される宝飾の数々が、よりいっそう映えるようにするためではなかったか。また、シュジェがそうした宝物の獲得に多大な投資を行った動機についても、同書は「王の威光を高めつつ、自分の威光をも高めようとした」(p.73)からだとしており、その証拠として、ステンドグラスに肖像画を描かせたり、改築工事を自分一人の手柄にしようとしたりしている点が挙げられているのだが、なるほどそういう側面もないこともないだろうが、そうした一種ナルシシズム的にも見える配慮を、単なる個人主義的な権勢指向の現れと捉えてよいかどうか、疑念の余地がありそうだ。確かにシュジェは自分の貢献が後の世に残ることを執拗に気に懸けているフシがあるが、どうもそれは、世俗的ともいえそうな宝物の蒐集活動に密接に関連しているように思われる。そしてその蒐集活動そのものには、12世紀というその時代を特徴づける経済活動の隆盛が読みとれるだろう。活発な財の流通がなければ、そもそも金銀や宝石などの蒐集はなされえない。シュジェにとって自分の権勢ばかりが必ずしも問題ではなかったように思われるのは、例えば上の『修道院の管理』において「自分たちならびに後継者たち」(この言い方は他の文書にも現れる)などと述べているからだ。この「後継者たち」という部分に注目するならば、宝物の数々は、シュジェが自分と後の世代、つまり将来(自分の将来とサン=ドニ教会の将来)に向けて蓄えた、一種の担保のようなものだったとも読めるのだ。そう考えれば、教会の蓄財はまさに救済のための前倒しの貢献(感謝の表明)であり、不特定の未来にその返礼を待つという意味で、「先物」的な、きわめて経済活動的な所作であると映る。上述したように、シュジェが俗世(封臣や王)との間にギブ&テイクの相互関係を敷いていたとするなら、それはもしかすると天上世界との関係にまで拡大されていくのかもしれない。

◇自己救済のために

そのような「経済的関係」にあってこそ、みずからの教会への貢献もまた生きてくる。1137年の文書("Oeuvres", vol.2, pp.193-211)では、シュジェは修道院長にまで登ったことへの神への忘恩を悔やみ、自分には多くの負債がある(tantis debitis obnoxius)とし、その返礼の一環として、自分の存命中は毎日聖霊のためのミサを執り行うことを、また自分の死後も、自分と教会人の魂の救済のため、毎年自分の命日に聖霊のミサを執り行うことを定めている。これは先に述べた遺言に相当する文書だ。この時点で「神への負債を背負っている」と自称するシュジェだが、その後の聖堂の改修におよぶと、上に述べたように後継者たちへの言及が出てくる。これは経済的な関係が時間の析出に関係していることを示唆していて興味深い。負債は過去から累積していくのが普通だが、現時点での負債の返済は未来でしかなされない。ということは、この時点ではひたすら過去にのみ焦点を合わせ、その負債を未来において果たしていくという、債務者としての一方的な関係しか結べない。しかしこれでは未来の保証は得られない。未来の保証を得るためには、みずからなんらかのアクションを起こして、過去の負債とは別に、なんらかの貢献による債権者の立場を作らなければならない。現時点での貢献を積み、未来において返礼を受けるのでなければならない。その場合、おのれの功績を担保として刻みつけることも必要になる。まさにこれこそが、聖堂の再建という事業を導いた動機の経済的側面といえないだろうか。もしこのように、聖堂の建設事業が、経済的な相互関係が世を席巻しつつあった12世紀にあって、救済のための「経済的」保証事業としてあったとするなら、上で述べたナルシシズム的な配慮、個人主義的な現れは、実は救済(自己の救済)の一つの発露でしかなかったとも考えられるのではないか。

12世紀は経済活動が盛んになった世紀として知られているが、それは当然、教会をも巻き込まずにはいなかったろう。そんな中で登場したシュジェという人物は、時代の空気を敏感に感じ取る、時代の申し子だったのかもしれない。もう一つ、シュジェについて忘れてはならない事がある。今回は触れられなかったが、シュジェは『ルイ肥満王の子、栄光のルイ7世』(『ルイ7世伝』)という未完の伝記をも記している。他の文書(『献堂録』など)にも散見される奇跡譚への嗜好も含めて、そうした伝記=物語への愛着は、また改めて取り上げるべき問題を含んでいるようにも思われる。特に今回提示した観点と合わせて、「12世紀の語りの宇宙」といった部分を考えてみることを、さしあたり今後の課題としておく。

Text: 2004年4月〜5月

投稿者 Masaki : May 30, 2004 12:21 PM