October 31, 2004

個体化理論の今昔

◇はじめに

神があまねく支配するとされた中世において、大きな問題の一つに「いかにして個々の人またはモノはかかる個々の人またはモノとなるのか」という問いがあったのは周知の事実だ。言い方を変えると、これは要するに、個体同士の間に見られる差異とは何かという問題でもある。「これ」は「あれ」と異なるからこそ「これ」なのだが、ではそもそも、「これ」は「あれ」とどう違うのか、またその違いはどこからくるのか。神が壮大な統一体として考えられている中にあって、個々の差異はどこから、なにゆえにもたらされるのか。12世紀以後、現実世界の細やかな観察(それはアリストテレスに負うところが大きいのだが)を取り込んだ段階で、そうした現実が突きつける個体の問題は一挙に前面に出ることになったのだ。

けれどもそれで終わりではない。一方でそうした個体の問題は、近・現代においても存続している。比較的最近のシステム論などにおいても、自己生成過程の問題と関係する形で言及される場合がある。例えばルーマンのシステム論においては、他と違うものとしての意味の屹立、意味の切り出しの過程をそうしたオートポイエティックな生成過程と捉えている(注1)。個体化は古くて新しい問題としてたえず問題化され、考察されてきたのだ。では、それほどまでに継承され刷新されてきた「個体化」の問題は、すでにすっかり出尽くしていて、もはやすべて解決済みとなっているのだろうか?いや、意外にそうでもなさそうだ。私たちはここで一つのモデルケースを描いてみたい。つまり個体化が突きつけるなんらかの問題に対して、その解答の芽が、中世の議論の延長線上(もちろん必要な変更を加えて)においてアプローチできる可能性について、検証してみたいと思うのだ。とはいえ、現代的な問題の鍵をただやみくもに過去の事例に求めようというのではない。そうではなくて、問題にもよるだろうが、なんらかの議論をめぐっては、中世以来停止してしまい考察対象から外されている部分を掘り起こすことによって、新たな探求の途につけるのではないかということを、ささやかな事例でもって検証していこうということである。これは本稿だけでなく、本稿をもって開始する連作研究ノート「モノとことば」シリーズ全体を貫く姿勢になるだろうと思う。こうした検証作業のためにはまず、過去と現代の問題機制の方向性がどのように異なっているのかということから見て行かなくてはならないだろう。ここでもまずはそうした形でのアプローチを取ろうと思う。


◇質料形相論とスコトゥス

中世の個体化論といえば、真っ先に思い浮かぶのはドゥンス・スコトゥスの論であり、オッカムによるその批判だろう。両者の基本的スタンスについては先に「スコラ後期と時間論」(シリーズ:cogitatio temporis参照)で簡単に触れておいたので、ここでは繰り返さず、目下の主題である個体化について、両者の論の骨子を見ていくことにする。

そもそも中世の個体化論は、アリストテレスに端を発する質料形相論と密接に関係している。それはトマス・アクィナスによって新たな息を吹き込まれ、スコトゥスやオッカムの議論へと繋がっていく。アリストテレスにおいては、実体を認識論的に構成する「類」と「種差」のそれぞれに、質料と形相が割り当てられる。つまり、至極大まかに言えば、質料は共通するもの(受動性、不動性)をなし、形相は差異(特殊性、一性)をなすというわけだ(注2)。アリストテレスはここから、存在するものは両者の結合体としてあることを導くのだが、一方、それを継承したトマス・アクィナスの場合、この部分を読みかえて、質料そのものがすでに形相化されていると見る。形相を伴わない質料は存在しえないからだ。フランスの中世哲学研究者ミシェル・バスティの指摘では、運動もまた、形相により、質料がいっそうその形相に相応しくあるよう誘因を受けることを根拠に説明されるのだという(注3)。

スコトゥスにおいては、質料の存在はより強く意識されている。同じくバスティの指摘するところによれば、スコトゥスは生成・消滅といった現象の考察から、「質料の存在は変容によってが明らかになる」と述べている(『アリストテレス形而上学のきわめて微細な問題』)。ここでの存在とは、いわばなんらかの実体としてあるということだ。なんらかのモノが変化する際には、その変化が生じる主体がなくてはならない。質料は普通、変化を受けるものとされている。しかしその変化においては、それまでその質料に結びついていた形相が破棄される。とするならば、残っている質料は限りなく主体に近いものになる。こうして有名なスコトゥスのテーゼ、つまり質料には単に作用を受けるだけの客体的な潜在性があるのみならず、主体的な潜在性もある、というテーゼが導かれてくるのだ(注4)。なるほどそれはトマスの議論(質料が誘因を受ける形で逆接的に運動を導く、という考え方)を継承したものだ。けれどもそこから帰結する存在論的テーゼはかなり趣を異にするものになる。というのも、そのような二種類の潜在性を認めると、質料と形相の対立関係はかなり曖昧なものになるからだ。可能態(潜在態)といわれる質料は、主体的なものとして実体に近いわけだから、現実態であるといってもよくなる。けれども、現実態をなす形相からすればそれはあくまで可能態でなければならない。ということは、質料と形相それぞれの可能態・現実態には相対的な程度の差しかないことになってしまう。同じ統一体であるモノ(事物)が、かくして見方によって潜在性とも現実性とも取れるようになってくるのだ。

スコトゥスの個体化論(Ordinatio II, distinctio 3, pars 1)(注5)はここに絡んでくる。スコトゥスはまずもって、数として「一つ」(大きな「一」)であることと、存在として「一つ」(小さな一)であることとを分けて考える。前者はモノの本性に存する単一性、後者は同じそのモノを多様性の観点から見た場合の単一性、つまりは現実にそのモノが存在する限りでの単一性だとされる(n,1)。モノは現実には個別性として存在するのであり、それは認識に先行する(n.29,)。そしてこの個別性、存在としての「一つ」には、本性自体は関与しないのだ(n.30)。本性は類の側に、存在としての「一つ」は種差の側にあるということだ。認識は、その存在としての「一つ」が織りなす差異をもとに、本性を知性によって捉えることであり、捉えられたた本性が普遍であるとされる(n.34)。

とすると、モノが「このもの」としてあるのは本性によってではなく、それに付加される何かによってだということになる。可能態である何かが他のものによって現実態としての「一つ」になる場合、それはその「他のもの」の一性によって一つになるのだと考えられる。ではそれは何だろうか。それは一見、質料でも形相でも、両者の結合体でもない(n.143)。それらはあくまで本性の側に関わるからだ。けれどもここで、上に述べたように、可能態と現実態、質料と形相とが相対的な差しかないのであれば、質料と形相には本性としての実体のほかに、個別の実体でもあるような複数の存在性(現実性:realitas)を考えることができる。こうして同じモノの中に、類と種差とを区別できるような複数の存在性を見て取ることになる(n,184)。


◇オッカムの批判

こういってよければ、スコトゥスにおいては、二項対立的なものの一種の揺ぎによって、あらゆるものが両義的な価値を持つ形で体系化され直すかのようだ。しかしこれは当然ながら批判の対象にもなるだろう。かくしてオッカムはその基本的な考え方に疑問を突きつける。ここでは先に国内で刊行された対訳版『スコトゥス「個体化の理論」への批判』を参照することにしよう(注6)。

スコトゥスは数としての「一つ」と存在としての「一つ」を区別するところから論を起こしている。「あらゆる現実的(実在的)な一が数的なものであるなら、あらゆる現実的な差異も数的な差異であることになる。だがこの結論は間違っている。なぜなら、あらゆる数的な差異は、数的なものである以上、その程度は同じであり、結果的に、あらゆるモノはどれも互いに同じ程度に異なることになるからだ。その場合、知性はソクラテスと線とに共通するものよりも、ソクラテスとプラトンとに共通するものをいっそう抽象できる、ということがなくなり、いっさいの普遍は知性の純粋な想像になってしまう」(n.23)。二つの「一つ」を区別しなければ、現実に存在するのは個別的存在のみとなり、その本性が普遍として認識されるそもそもの契機がない、というのだ。だがこれに対し、オッカムはそうした推論の妥当性そのものを検証し批判する。

細かな点は煩雑になるので、基本線(概略)だけ追っておこう。まずオッカムは、形相的に異なるものは実在的(現実的)に異なるという前提から出発する。ところで個体的差異と本性の場合、両者が区別されるとすれば、外界に存在するものと概念的に存在するものとの間の区別ということになる。すると両者はまったく同じというわけではなくなり、なんらかの事が一方で真、他方で偽となる可能性がありうることになる(p.30)。あるものが同時に肯定されかつ否定されることはない以上、「個体的差異と本性が形相的に区別される」という命題は成り立たないことになる(p.30)。これがスコトゥスへの第一の批判だ。

対立するもの同士は同一のものには属することができない。その場合、同一のものが二つの一性(数としての一性、存在としての一性)によって一つであることは不可能となる。だが仮に個体的差異と本性とが形相的・実在的に対立しないのであれば、論理的に言って、区別され相互に対立するものが、任意の同一のものに実在的に属することはできない、ということもなくなる(p.36)。ところがここで、この議論はスコトゥスの次のような命題と矛盾してしまう、というのだ。スコトゥスは、本性は数的な一であると述べ、同時に、存在としての(小さな)一は、数的な(大きな)一に対立する「多」と両立できる、としているからだ。上の議論からは、数的な一もまた多と両立できるという結論が導かれなくてはならないからだ(p,38)。これがスコトゥスへの第二の批判となる。

このように、オッカムの議論はこうした推論の形式をめぐって展開していく。そして、上の議論をもとに、個物の一性もまた数的な「一」でしかない、という結論を導く。その推論はこうだ。基体が多数化されればその属性も多数化され、共通するものも結果的に多数化する。こうして個物の数だけ共通なものも存在することになる(p.42)。ところでその場合の共通なものは、多くのものに関連づけられる一となる。また一方で、アリストテレスの『形而上学』(4巻)などに立脚すれば、あらゆるものは内在的なものによって他から本質的に区別されるのであって、付加的なものによって一をなすのではない(p,49)。ゆえにそれは数的に区別されるということができる。

こうしたオッカムの立場は、実は個体化論そのものを否定する立場でもある。スコトゥスは、質料と形相の差異こそ縮めたものの、普遍的な本性と付加的な差異という二重の構造を設けたがゆえに、ある種の生成論的な観点を獲得することができたといってよいだろう。ところがオッカムにいたっては、次のようにさえ述べているのである。「心の外の事物はみずからそのものとなるのだろう。したがって、個体が複合的である場合にその外的・内的な要因を探る以外、その他の個体化の原因を探るべきではない。むしろ、なんらかのものが共通かつ普遍となることを可能とするような原因を探るべきである」(p.72)。方向性はまったく逆になっている。スコトゥスが本性から差異の方へと下りようとするのに対し、オッカムは存在するのは個物だけだとし、いかにして普遍なるものが可能かを問おうするのだ(オッカムの考え方はまた新たな問題を導き入れるのだが、本稿ではあくまで個体化論を軸に据えているので、オッカムの問題については別の機会ににまた改めて考えることにする)。


◇近代的個体化論

さて、以上は大まかな概略にすぎないが、それでも中世盛期の個体化論の輪郭は示されただろう。ここで視点をがらっと変えて、近年の個体化論に目を転じてみよう。ここで取り上げるのはフランスの技術哲学者ジルベール・シモンドンの著作『個体とその物理的・生物学的発生』である。近年といっても、初版が刊行されたのは64年で、ここで参照するのは再編集版だ(注7)。なぜこれを取り上げるかといえば、それがおそらく質料形相論からより近代的なコミュニケーション理論への転換点に位置づけられるからだ。シモンドンの理論は一種のシステム論の先取りであり、個体の生成を、システム内のエネルギーが準安定状態(metastabilité)から別の準安定状態へと移行する過程として捉えており、技術産品から生命体までをもカバーしようとする広大な理論を目指している。

同書はその最初の部分で、従来型の質料形相論を批判している。とりあえずその部分の要旨を追っておこう。まずシモンドンが指摘し批判するのは、質料形相論で扱われる質料と形相の概念がそれぞれに抽象的なものであり、現実に存在するモノに直接関係しないという点だ。シモンドンは煉瓦を例に、粘土が形を取るために必要な具体的操作に言及している(p.38)。煉瓦が煉瓦として形を取るには、原料である粘土と、煉瓦という完成形だけがあればよいのではない。そこには技術的操作が介在しなければならない。質料と形相が仮に結びつくのだとして、その両者を引き合わせるのはそうした操作なのである(p.41)。また、そうした操作が具体的に引き合わせるのは質料・形相相互の「力」だが、力という観点からすると、質料の力はそれが伝えるエネルギーに由来し常に働きかけられる状態にあるのに対し、形相の力はかたちのリミットを定めるだけという小さな作用しかもたらさない(p.42)。形相と質料はシンメトリーをなしてはいないのだ。シモンドンは、技術的操作はエネルギーとトポロジーを条件として、形をなしていく質料の内的な「共鳴」を起こさせるのだと述べている(p.43)。このように、技術的操作の次元を導入した点が、まずもってシモンドンの独自性の一端をなしている。

だがシモンドンの議論はそこにとどまらない。技術的操作は確かに個体化をもたらすが、生命体の場合、それ自身がみずからの個体化の原理をなす。その場合、個体化は一度の過程ではなく、継続的・漸進的な過程となる。こうした生物の次元を考えるとなると、質料形相論ではとうてい対応できなくなる。そこではきわめて複合的な作用が問題になってくるからだ。そしてシモンドンの場合、質料と形相を概念として温存できるような技術的操作をベースにするのではなく、むしろ生命体の場合をベースにし、技術的操作の方を特殊なケースとして考えようとするのである(p.47)。質料形相論の図式では、個体が両者の結合と見る以上、個体化の原理は質料と形相のいずれかに置かれ、両者の関係には置かれない。なぜなら、原理は常に結果に先行していなくてはならないとされる以上、両者の結合を結果として見る限り、個体化の原理が両者の結合そのものにある、とうわけにはいかないからだ。これに対してシモンドンは、上の内的「共鳴」概念により、エネルギーが潜在から顕在へといたる際の交換関係が導かれるとし、そうした関係においてこそ、個体化しつつある状態を個体化の原理と見なしうるようになると考えている(p.59)。

こうして古典的な質料形相論はエネルギー論(ひいては情報論なのだが、ここではそれについては省略する)へと止揚される、というわけなのだが、ここにはまた別の問題も生じている。なるほど、エネルギー論として捉えた個体化は、いわば準安定性から別の準安定性への移行過程として記述されうるだろう。だが、複合的な作用関係を視野におさめているとはいえ、それが抽象度を低めたものかといえばそうではあるまい。シモンドンの質料形相論への批判とはうらはらに、共鳴概念や準安定化概念はある種の抽象論には違いない。両者の違いがどこにあるかといえば、それは抽象度であるよりも、むしろ視点の差にあるように思われる。質料形相論が移行過程を捉えることができないというなら、エネルギー論は個体の個別性を外部から見ることを妨げてしまうのではないか。

また移行過程そのものに注目したとしても、それを原理として示すことは(後のオートポイエーシスに通じる点かもしれないが)、現象の一つの記述的な理解(産出の図式化)ではありえても(あるいは、だからこそ)、作用の複合性を解き明かすことにはならないのではないか。個別の技術産品の生成過程ではなく、生命体の理論を目指した段階で、シモンドンの論は作用の具体的記述を捨象するしかなく、抽象論以外ではありえなくなった。その意味で、質料形相論を凌ぐ生産性を果たしてどれほど持ちうるのかという疑問も生じざるをえない。もちろん質料形相論の方がよいとか、そういうことを言っているのではない。そうではなく、質料形相論にせよシモンドンのエネルギー論にせよ、抽象論であることをそもそも運命づけられている以上、そこに内在せざるをえない手詰まり感をどう打破していくのか、そのための鍵、あるいは布石が、どこに見いだせるのかを問わないわけにはいかない。だが、視点の斬新さの陰で、シモンドンの議論は案外そうした部分を問題にしていないようにも思われるのだ。一方、今やあまりに古くさいと捉えられている質料形相論の方に、これまた案外、そうした手詰まりを乗り越えようとする動きの萌芽があるのではないか、とも思えてくるのだ。


◇中世哲学的「視座」がもつ可能性

上に挙げたシモンドンのスタンスには、実はスコトゥスの考えからそう遠くはない部分もある。例えば質料に関する見解がそうだ。シモンドンは、質料は予め、形相を受容しえる条件としての属性をもつと述べている。つまりそれは構造化されていなければならないのだ。形相の縛りがない状態でも、なんらかの凝集力をもっているというわけだ(p.50)。質料に対して大きな潜在性を認めていたスコトゥスの考え方に、これは大きく呼応している。これは両者にとっての議論の基礎的な部分である。だからこそ、スコトゥスの論における個体化の原理は、シモンドンが批判するような質料か形相かに置かれるものというよりも、むしろ両者の結合体に限りなく接近していくのである。上で述べたように、スコトゥスは個物がそのものとしてあるのを可能にするような何かは、形相でも質料でも両者の結合体でもないとしている。ここからプロセスについての思考が芽生えると見るのはうがった見方だろうか?

上でオッカムが反論した「個体的差異と本性とは形相的に異なる」というスコトゥスのテーゼについて、上の対訳書の訳者である渋谷氏は注において、スコトゥスへのオッカムの批判を検討し直している。そして、スコトゥスが形相的区別と実在的区別の間に、存在のレベルの相違を設けていると指摘している(同対訳書、p.133)。スコトゥスは、共通でありながら限定されうるものは、複数の存在性に分割されうるとし、その場合、一方が形相的に個体的差異、もう一方が形相的に本性としてあるが、それは実在的な区別にはならないと考えているのだ。そうすると、実在的区別でない形で個体的差異を本性とのが形相的に区別できることになり、これはオッカムの批判を無化する重要な論点になる。

ここで語られているのはつまり、数的な「一」と存在としての「一」という言い方を、存在論的な区分、存在論的なレベルの相違という形で読みかえるということにほかならないだろう。存在としての「一」とは、あるものが「他のものではない」という否定的な差異から措定される存在のことであり、数としての「一」は、あるものが、例えば現前するなどして、そのものとしての肯定的な価値から措定される存在のことだ。すると質料と形相は、あくまでその肯定的な価値を構成するものと考えられる。従来型の質料形相論に収まりうるのはそこまでだ。だが個体的差異の方は、存在論的レベルが異なる以上、質料と形相との結合体からしか生じえないことになる。ここにおいて、スコトゥスの議論はおそらくそうした質料形相論から脱する契機を孕んでいたのではないか。

だがそればかりではない。スコトゥスの問題機制は、さらに大きな射程で位置づけなおせるかもしれないのだ。それはつまり、個体化論における観察者の位置に関してである。上の存在論的レベルの区分は、同じ事物に対して措定しうる記号論的区分として捉えることができる。肯定的価値は、ある意味で外部からの観察を思わせる視点だ。一方の否定的な差異は、システム論的なネットワークに重ね合わせることができる。それを考える場合には、視点をそのシステムの中に取る必要があるだろう。ここでスコトゥスが提唱している区分は、まるで両方の視座をともに認める立場、どちらか一方を排除したりせずに、一度に両方を見渡せるようなある意味でホーリスティックなスタンスを得るためであるかのようにも思えてくる。このあたりの吟味はここでは立ち入る余裕がない。いずれ詳細に行ってみたいと思うが、とりあえず、以上に挙げた諸点を念頭におきつつ、スコトゥスの議論は読み直しが可能かもしれないということを指摘しておこう。
(Text:2004年9月〜10月)



1. ここではルーマンの『社会の宗教』("Die Religion der Gesellshaft", Suhrkamp, 2000)を念頭に置いている。
2. アリストテレス『形而上学』第7巻(ゼータ巻)3章から。
3. Michel Bastit, "Les principes des choses en ontologie médiévale", Editions Bière, 1997, pp130-131.
4. ibid., p.134.
5 原テキストが入手できていないので、ここでは仏訳("Le Principe d'individuation", trad. par Gérard SONDAG, Librairie Philosophique J. VRIN, 1992)を参照する。番号は節に相当する。
6. 『スコトゥス「個体化の理論」への批判』(渋谷克美訳、知泉書館、2004)。ページ数は同書のもの。
7. Gilbert Simondon, "L'individu et sa genèse physico-biologique", Editions Jérôme Millon, 1995.

投稿者 Masaki : October 31, 2004 12:25 PM