January 11, 2005

貨幣をめぐる中世のまなざし(その1)


先にシュジェについて概観した際にも明らかであったように、12世紀当時の西欧社会において、修道院はすでに決して小さくない財を蓄えた地主として、地域にその影響力を振るっていた。けれどもその一方で、当のキリスト教の教義には、蓄財を悪行と見なす伝統も息づいていた。この矛盾する状況をどう捉えればよいか、というのがここでの当面の問題である。今回のノートはそのためのプレリュードとして、貨幣を軸に据え、貨幣を取り巻く情勢の推移と貨幣観の変化について、14世紀フランスの神学者ニコル・オレームの貨幣論を中心にまとめておこうと思う。

◇ 貨幣をめぐる情勢

まずは貨幣を取り巻く情勢についてだが、ここではフランスの公共高等教育中世史家学会28回大会(1997年)の紀要『中世の貨幣』("Largent au Moyen Age", Publication de la Sorbonne, 1998)を参照することにしよう。この中でとりわけ注目できる報告として、ジョジアーヌ・テソー(Josiane Teyssot)「13世紀から14世紀にかけてのバス・オーベルニュ地方における王立貨幣−−政治権力の道具」(同書、pp.93-100)がある。それによると、13世紀にカペー朝が進めた中央集権化政策では、その一環として貨幣の管理が含まれ、それにより王家の貨幣は徐々に地方のすみずみにまで浸透していくようになるのである。それ以前、地方の領主(特に教会)は、領地でのみ通用する私的な貨幣を鋳造していた。ところが、やがてそうした私的流通は中央の貨幣によって駆逐されていくのである。その一例として、テソーはバス・オーベルニュ地方(フランス中南部)の事例を取り上げてみせる。

地理的に他地域との交流がそれほど盛んではなかった同地域では、11世紀以降、地元の領主の後を継ぐ形で、司教が中心となりクレルモンなどで貨幣の鋳造を細々と行っていた。1250年ごろになると、ポワティエ伯だったアルフォンス(聖王ルイ9世の弟)がリオン(Riom)に鋳造所を作り、実際の価値が低い貨幣を大量に流通させる。悪貨を作りばらまくというこの攻勢に対して、クレルモンの司教側はいわゆる平価の切り下げで抵抗するしかなく、徐々にクレルモンの通貨は追い込まれていった。アルフォンスのこうしたやり方は、一度は兄のルイにたしなめられるのだが、その後紆余曲折があって、今度は聖王ルイが、トゥールの貨幣を王国全土に流通させることを決意する。かくして地方通貨(領主の貨幣)や外国の通貨の流通は著しく制限され、同時に、地方通貨を抑え込む形で鋳造所が各地に作られ、王家は貨幣鋳造を一手に握り集中管理するようになる。アルフォンスのやり方は、ある意味でカペー朝の統制に先鞭を付けたといえそうだ。いずれにしても、こうして14世紀初頭には封建領主の作る個別の地域通貨は廃れてしまうのだ。

この事例でとりわけ特徴的なのは、アルフォンスが権力波及の手段として貨幣を押さえようとしていたことだ。貨幣が権力と密接に関係するというのはもちろん古くからある考え方だが、アルフォンスは意図的に貨幣による攻勢をしかけたようにも思われる。その背景には、リオンという都市が当時、地域の新たな中心地として台頭しつつあったという事情もありそうだ。また、当の相手が司教だったことも示唆的だ。クレルモンでは、1030年に領主のギヨーム5世から司教へと貨幣鋳造の権利が譲り渡されて以来、教会が地域通貨の管理に携わってきた。アルフォンスの攻勢は、いわば世俗権力からの異議申し立てだったという風にもとれなくない。クレルモンの通貨がトゥールの通貨に駆逐されるのは、1273年から1283年のわずか10年ほどの間でのことだったという。


◇ 貨幣をめぐる考え方:ニコル・オレームの場合

他の貨幣に似せたデザインで悪貨をばらまくというアルフォンスのやり方は国王によってとがめられ、1263年の段階でデザインを変更しているらしいのだが、それにしてもこの悪貨をまく戦術も巧妙だ。周知のように、当時の貨幣では、金属の重さで計る実質的価値とその貨幣が示す表示価額とに著しい差が生じないよう調整を計る必要があった。それを悪用すれば差額で儲けを出すこともできるし、アルフォンスの場合のように、市場への貨幣流通に変化を生じさせることもできる。トゥールの貨幣160リーヴルに対して、アルフォンスが作っていたリオンの貨幣は表示額200リーヴルが同じ重さで対応していたという。そうなれば当然、トゥールの貨幣は市場に出回りにくくなり、リオンの貨幣ばかりが使われるようになってしまう。まさしく「悪貨は良貨を駆逐する」だ(この諺の出自は16世紀のトマス・グレシャムによるとされているので、ここではアナクロニズムということになってしまうのだが)。

そんなわけである以上、こうした悪貨の鋳造を批判する向きも当然出てくる。時代はもう少し後になるものの、ここではニコル・オレームの貨幣論をまとめておこう。ニコル・オレームは14世紀のフランスを代表する学僧の一人で、とりわけアリストテレスの翻訳や物理学、貨幣論などで有名な人物だ。シャルル5世の家庭教師を務めたことでも知られている。スーザン・M.バービット(Susan M. Babbitt)の論考『オレームの「政治学」およびシャルル5世時代のフランス』("Oresme's Livre de Politiques and the France of Charles V", The American Philosophical Society, 1985)の冒頭の紹介文でまとめておくと、オレームはノルマン人で、生まれは1320年頃と推測され、1348年から56年までパリ大学ナヴァール校で神学を修めた。1362年にはルーアンの聖母マリア聖堂の参事会員となり、後の1377年にはリジュー(Lisieux)の司教となる。と同時に、王家にも仕え、ヴァロア朝のジャン2世、そしてその息子のシャルル5世の相談役として政務にも関わった。オレームの貨幣論は、通貨価値の頻繁な変更にともなう資金難について、ジャン2世が助言を求めたことに対する返答だったとされている。ポワチエの戦い(1356年)の敗北によってジャン2世が英国の捕虜になり、その間の摂政となったシャルル5世も、通貨の安定化についてのオレームの主張を受け入れ施策に反映させている。

ではオレームの貨幣論「貨幣の変更について」の内容を簡単に見ておこう("De mutatione monetarium: tractatus", Kulturverlag Kadmos Berlin, 1999による)。オレームはまず、貨幣が本来、交換のための道具であることを、アリストテレスの倫理学をもとに論じる(第1章)。次いで素材について概観し(金・銀)(第2章)、その鋳造過程において、不要な混ぜものを用いてはいけないと断ずる(第3章)。次に話は貨幣のフォルムに及び、材質と重量(貨幣価値)の表示の適切さが求められること、さらには為政者の肖像の表示が、権威の付与という点で適切であることが述べられる(第4章、第5章)。貨幣は誰のものか、という次章(第6章)の問いでは、貨幣は王個人のものであるとともに、共同体全体のものでもあるという二重性が語られる。オレームはまた、貨幣の鋳造には労力を要するがゆえに、金属の厳密な重さが表示金額をわずかに下回るようにし、その差額を鋳造のコストに充てるべしと論じている(第7章)。このように、オレームは貨幣を肯定的に捉え、実利的な面に配慮した貨幣論を展開している。

続く第8章から23章までが、この論の中心部分となる貨幣の変更についてである。その基本線は次の通りだ。オレームはアリストテレスを引きながら、法の変更が権威を貶めるのと同様に、不必要な貨幣の変更は混乱と、統治者の権威失墜を招くだけだと述べる(8章)。フォルムの変更は必要以上に行うべきではなく、金貨と銀貨のレートも無闇に変えてはならず、鋳造過程において金属の混入割合を不正に変えて利潤を得ようなどもってのほかだ、とされる(12章、13章)。さらにオレームは、こうした不正行為がなされないようにするには、共同体側からの監視が重要になるとも述べている(13章)。これらの議論は繰り返しの形で何度か言及されるが、いずれにしても、(1)一定のレートの保持、(2)金属の比率の保持、(3)共同体からの監視が大きなポイントになる。

(1)に関しては過去にフランスにおいてそういう事態があったことを示唆している(17章)。具体的記述はないものの、これは明らかにジャン2世の施策を指していると思われる。オレームの立場はアリストテレス的であり、賢人統治を理想としていることは明らかだ。社会的安定を施策の目標とし、そのためには第一人者(王)による堅実なる施策が必要とされる。貨幣がそれを乱す要因になりうる、という捉え方は、裏返せば貨幣が統治の道具にもなる、ということを意味する。ゆえにオレームは、貨幣のフォルムとして統治者の肖像を彫るのは権威を示すためによい、とも述べているのだろう。貨幣を交換の道具と見るような「道具」観は、それが別の目的−−この場合では統治だが−−の道具にもなるという視点を内在している、ということなのかもしれない。

(2)の比率の保持が破られる場合の不利益については、あくまで論理的な議論ではあるけれども、オレームは比較的具体的に論を展開している。まず、一度不正な鋳造がなされてしまうと、対外的に流出した貨幣が再度流入し、長期的に見ると結局は利益にならない、という議論が示される。悪貨流通の原則だ(18章)。次いで、たとえ鋳造する権力側がそれで利益を出したとしても、共同体を構成する多くの民のもとにはそうした悪貨が出回り、結果的に国全体は貧しくなっていく、との議論が続く。富はますます偏り、貧富の差が大きくなる。これは神の教えや正義の概念に反するのである(19章)。巨視的な視点で問題を考えている点がとりわけ特徴的だ。

重要なのが(3)の共同体指向の議論だ。共同体(communitas)はまず貨幣の二重の帰属という議論(6章)で言及されているわけだが、この帰属の議論を敷衍する形で、共同体には、貨幣システムの運用について不正がないよう監視を行うという役割が付与されている(10章、13章)。ここにオレームの政体思想が現れていると見ることもできるだろう。そもそもオレームは、君主を公的秩序を実現するいわば行政の長と見なしているようで、したがって重要なのは民、すなわち共同体なのだと考えているのだろう。そのため貨幣制度についても、共同体が直接にそうした制度そのものを変更したりはできないものの、理性にもとづき制限という形で立ちはだかることにより、監視機能を行使できると考えているのだ(21章)。市民の共同体は本来自由なものであり、そのような自由なものとしてあるべく君主に権限を委託をするのであり、専制的な暴君のもとに下るいわれはない。したがって君主が過度の不正をはたらく際には、共同体はどのような形であれ(quomodolibet)、その罷免を要求することもできる(同)。これはオレーム流の「暴君討伐論」だ。暴君と君主の差異は、前者が私利私欲に邁進するのに対して後者は公的な利益の追求を優先することにあるとされる。そして前者に対しては、どのような形であれ、拒絶を突きつけることができるのだ。この「どのような形であれ」、という部分がとりわけ興味深い。共同体が拒絶する際、手段は選ばない、というふうにとれるからだ。『貨幣論』がジャン2世からの求めに応じて助言として書かれたことから考えるには、これは王への警告以上のものではないかもしれないが、いずれにしてもここでは、アリストテレス的な共通善の追求、という観点から、共同体のあり方が再考されていることは注目に値する。

こうした議論を下支えしているのは、人体と国家との照応という考え方である(22章)。君主を頭、共同体の成員を身体とする考え方は古来からの伝統として受け継がれているものだが、オレームの場合は、両者の関係がより有機体的で密接なものになっていると思われる。例えば、オレームは「体液が体の一部に過剰に流れれば、その部分は炎症が起こり、他の部分は干上がりやせ細ってしまう」という言い方をしており、そのことは共同体についても同じなのだと述べている。共同体において体液に比せられるものは明らかに貨幣であり、貨幣の交換は流れとして、循環として捉えられている。それは頭にも四肢にも共通するものであり、両者の間に介在し、双方によって制御されるものなのだ。もはやここには頭から四肢への一方的な支配があるのではない。両者は相互の関係の上に成り立っているのであり、そのため統治の方法も緩やかなものにならざるをえないのだ。アリストテレスに準拠するオレームは、君主の支配権を過度に増大させず、被支配者側の自由の余地を与えることを理想として掲げている(同)。厳密な規定ではなく、なにがしかの「遊び」を導入しておくこと。自由主義的な考え方の先取りという意味でも、これは実に近代的な論点をなしていると言えなくもない。

オレームの貨幣観は、こう言ってよければシステム論的だ。上で挙げたスーザン・M・バービットによれば、ジャン2世を継いだシャルル5世は、オレームの貨幣論を受けて、鋳造の際の金属混合割合を一定にすることとした(1360年)。このこと自体はオレームの直接的な功績なのだが、後の時代になると、『貨幣論』はオリジナリティを欠いているといった批判の的になるのだという。けれどもその論からは、少なくとも14世紀当時において、貨幣そのものはすでに社会の隅々までをも満たす、まさしく体液のようなものになっていることが窺える。オレームは利益の追求を排除したりはしない。一般的な利益の追求は共通善でもあるからだ。斥けられるのはあくまで不正な利益、権力者の私利利欲の追求なのだ。正しい体液を流通させること。それがオレームの論の主眼であり、貨幣に対する肯定的な構え方なのだ。


◇ 貨幣観の変化

こうした視点は、その前の世紀のトマス・アクィナスあたりからしても、かなり隔たっているように思われる。ここで再び、冒頭で挙げた『中世の貨幣』に戻って、より全体的な貨幣観の変遷について触れておこう。所収論文の一つ、ニコル・ベリウー(Nicole BERIOU)の「善悪のはざまにある金銭欲−−13世紀の説教における金銭欲の変遷」(前掲書、pp.267-287)では、13世紀の貨幣観について全般的状況がコンパクトにまとめられている。それによると、金銭の流通と蓄財は13世紀始め頃にはすでに社会にしっかりと根を下ろしており、これを受けてモラリストたちは、金銭欲(「philargiria」という言葉が用いられた)を罪の一つと見なし断罪していた。と同時に、フランシスコ会に代表されるように、民衆への説教においては喜捨が美徳として盛んに鼓舞されていた。末端の聖職者は、修道会の理念と世間の現実との狭間でもがいていたのだ。ペリウーによれば、そんな中で発表されたトマス・アクィナスの『神学大全』は、アリストテレスを基礎に、金が金を生んではならないという議論を確たるものにしたが、同時に新たな社会的状況を分析する眼を塞いでしまったのだという。

しかしそうした矛盾した状況も13世紀末頃までにはゆるんでいき、聖職者も蓄財について寛大な姿勢を見せるようになる。そのあたりの事情について報告しているのが、シルヴァン・ピロン(Sylvain Piron)「商人と告解者−−時代状況の中でのオリヴィの『契約論』」(同書、pp.289-308)である。13世紀後半のフランシスコ会神学者ピエールジャン・オリヴィは、南仏ナルボンヌとモンペリエの修道院で読師をした人物で、その『契約論』という著書は、ラングドック地方でも盛んに行われるようになっていた高利貸し業などについて、修道会士たちからの要請を受けて執筆されたものだという。元のテキストは未入手なので確認できていないが、ピロンの論文によれば、いずれにしてもフランシスコ会士には商人たちの精神的な導き手となる役割があることを、オリヴィは論じているのだという。そしてその中心的議論は、適正な価格とは予め決められた固定価格ではなく、関係者相互の自由な合意で定めるべきものである、ということにある。利ざやを稼ぐことは罪とされるが、すると本来自由な人間は日々の行いで罪を犯していることになる。しかしそれは神学的には受け入れがたい。この問題を解こうとして導き出されるのが、上の自由主義的ともいえる市場原理なのである。自由な合意で取り決められた価格は不正なものではない。したがってそれは罪とはならない、とされるのだ。とはいえ、オリヴィは正当とされる一定の変動幅を仮定しており(適正価格の二倍になったら、それは不正価格とされる)、その範囲内での変動のみを正当と認めるのだ。

不当な価格設定がなされなければ商人もまた救われる、というのがオリヴィの所見であり、これは当時としては新しい見解だった。商人らへのこうした寛大な立場は、ラングドック地方でフランシスコ会が躍進する背景にもなったのだとピロンは述べている。と同時に、これは同地方だけに止まらない、より広範な動きだったとも指摘されている。全体的方向性として、そういう流れが出来ていたのは、上のニコル・オレームの論からも窺える。オレームは時代的にもオリヴィの一世紀後だし、場所も北仏だ。そうした流れはまた、オレームの次の時代になっても続いていく。パトリック・ジリ(Patrick GILI)による『中世の貨幣』所収の論考「15世紀イタリアの人文主義思想における貨幣の位置づけ」(pp.309-326)では、表題にある通り、イタリア人文主義を取り上げている。ストア派的な禁欲思想の復権を支えとして誕生し、一方で商業階級に密接な関係をもっていたというイタリア人文主義が抱える矛盾が、15世紀初め以降、時代を下るにつれて「解消」していく様を描き出している。

このように、自由主義的な流れが増大する中で、貨幣経済は徐々に宗教的な規制から解かれていくことが窺える。それは矛盾が解消していく過程とも言えるだろう。すると、ではそもそもなぜ、あるいはいかにしてそうした矛盾が温存されていたのか、という問いが改めて浮上する。上のオレームによる共同体擁護の議論も、自由主義的な見方の拡大を反映していることは間違いない。貨幣は社会を満たす体液と捉えられていたわけだが、やや不謹慎な言い方を承知で言えば、その遍在ぶりはまるで、もう一つの「神の力」のようでもある。とすると、あるいは教会権力と世俗権力という対立項だけではなくて、それらを取り巻き、支え、もしかすると突き崩しもするもう一つの項として、貨幣を立てることができるのではないか、というふうにも思えてくる。そう、まるで父と子(世俗権力と教会権力?)、そして聖霊(貨幣経済)として三位一体をなしているかのように。貨幣もまた「神」の位格として地に注がれるのだとしたらどうだろうか。教会が世俗権力の囲い込みと同様に貨幣を抑え込もうとしたのは、何かそうした新たな三位一体構造の出現を恐れていたからではないのか。このように考えるならば、貨幣の問題は再び神学の問題に帰着していきそうだ。貨幣を含めた経済戦略としての神学?もちろん、そうした観点からの作業、つまりカトリックの三位一体論を資本主義的原理の表明として読みかえるという作業は、すでに中沢新一『緑の資本論』などが先鞭を付けている。けれども、そちらはあくまで理念的・構造的な解釈だ。私たちにとっては、そうした観点により具体性をもたせ、権力関係も含めた現実の社会構造にまで目配せする形での戦略的思考を、神学論の中に読みとれないなだろうか、ということが課題になりそうだ。こうしたパースペクティブで、貨幣に絡む神学的問題を改めて検討してみたいと思う。(続く)

(Text:2004年11月〜2005年1月)

投稿者 Masaki : January 11, 2005 01:25 PM