December 11, 2006

「像」としての人間(2)

前回からこの連作ノートは、古代から中世にいたる思想圏の中の、人間の創造に関する記述を追っているわけだが、前回はユダヤ教思想圏から綿々と続くテーマとしての「二重創造説」の広がりの一端を見てみた。今回はそれに関連するかもしれない魂の創造のテーマに触れて、それから重要な結束点をなすと思われるアウグスティヌスの創造論を概観しよう。まずは前回の話の要点を振り返っておくと、二重創造説は、旧約聖書の人間の創造の箇所をめぐって、人間が二段階で創造されたとする説だった。一度めが魂としての人間、二度めが肉体をもつものとしての人間という区分になる。アレクサンドリアのフィロンに見られるように、この説はプラトン主義的な系譜の中に位置づけられるものと考えられる。

◇二重創造説と二重霊魂説

新プラトン主義の碩学の一人、イアンブリコスは、壮大なコスモロジーを展開する主著『エジプトの謎』(参照"Les Mystéres d'Egypte", Les Belles Lettres, 2003)において、「二重霊魂説」を紹介している(8巻6章)。古代のエジプト人が抱いていたとされる、人間の自由意思が星辰に依存するという考えについて詳述した箇所である。その説によれば、人間には二重の魂があるのだという。一つは第一の知解可能なもの(第一質料?)に由来するもので、それは創造神の力にも与る。もう一つは天体の回転により人間に注入されるものである。前者は不動であり上位に置かれ、後者は可変であり天体の動きにともなう影響を被る。これは興味深い論である。魂と肉体の二元論ではなく、魂そのものに二元性を見るという立場だからだ。これは二重創造説のアップストリームということになるのだろうか?

この二重霊魂説については、ハンス・ヨナスがその著書『グノーシスの宗教』(H. Jonas, "The Gnostic Religion", Beacon Press, Boston, 1958-2001)で詳しく取り上げている。ヨナスは「ヘレニズム世界には、キリスト教との関連から完全に自由な形でのグノーシス的思想や思弁が広く存在した」(p.147)と言い、一例として、ヘルメス文書の代表格『ポイマンドレス』を挙げてみせる。ただし多少の保留つきではある。というのも、『ポイマンドレス』の逸名著者は、70人訳聖書を知っていたと考えられるからである。とはいえ総じて言えるのは、「感覚的なものと精神的なもの、肉体と心といった際立った二元論は、グノーシスの姿勢にも見事に合致するが、同様にキリスト教、もしくはプラトン主義の枠組みにも合致する」(同)ということだ、とヨナスは指摘する。そこに見いだされるのは、キリスト教的グノーシス思想からは独立した、それでいてグノーシス的なコスモロジーもしくは人間学なのだという。

その二重霊魂説は、『ポイマンドレス』の次のくだり(15節)に出てくる。「かくして、地上のすべての生き物のうち、人間だけは二重なのである。肉体ゆえに死する存在であり、本質ゆえに不死なのだ。不死であり、あらゆるものを支配してはいるが、運命の影響を受けて死を被るのである。調和を越えた存在でありながら、調和の中にあって隷属し、男女両性の父から生まれた両性的存在、眠ることのないものから生まれた眠ることのない存在でありながら……(性別と眠りに)支配されているのだ」("καὶ διὰ τοῦτο παρὰ πάντα τὰ ἐπι γῆς ζῷα διπλοῦς ἐστιν ὁ ἄνθρωπος. θνητὸς μὲν διὰ τὸ σῶμα, ἀθάνατος δὲ διὰ τὸν οὐσιώδη ἄνθρωπον· ἀθάνατος γὰρ ὥν καὶ πάντων τὴω ἐξουσίαν ἔχων, τὰ θνητὰ πάσχει ὑποκείμενος τῆ εἱμαρμένη. ὑπεράνω οὗν ὣν τῆς ἁρμοωίας ἐναρμόνιος γέγονε δοῦλος ἀρρενόθυλυς δὲ ὤν, ἐξ ἀρρενοθήλος ὢν πατρὸς καὶ ἄϋπνος ἀπο ἀϋπνου ...... κρατεῖται.")。ここで言われている二重性とは、不死である天上的部分と、死する運命の地上的部分との重なり合いということだ。

ヨナスは、グノーシス的な起源論として考えると、これがグノーシス本来の、より一般的なバージョンよりも、むしろ聖書の記述に近接しているとし、例の二重創造説を引き合いに出している。「創世記の二箇所の記載を、それぞれ天上および地上の人類の創造に言及したものだとするラビの思弁が、最初の人間に関する聖書とグノーシス思想とのリンクをなしている」(p.155)というのである。聖書のモデルがグノーシス的なモデルに先行するのかどうかについては、近代の学者の間でも議論が繰り返されているとしつつ、いずれにしても人間が、両性的な原理(=神)から発出したものであるとする点に、その近接性が見られるのだ、ということを指摘している。グノーシス的なモデルからすると、人間は下界に下る際に、7つの天球の支配を受け、その特性をおのれの中に取り込んだとされる。魂はそうした星辰の力、惑星の支配を内側に取り込んでいる、ということになる。この天球的な影響は、ヘルメス主義的な思想の一大テーマをなすことになるのだが、特にグノーシスの場合には、そうした下界への魂の下りは、本来あった本性の「堕落」と見なされる点が特徴的だとされる。

ヨナスはまた、マクロビウスを引き、下ってくる過程で順に7層の特性を「衣服のように」纏う、というその「取り込み」の特徴を紹介している。天空の層とは逆順の層ができあがるというわけだ。ではそうしてできあがる7層の核をなす部分は何かというと、それは超越的な非コスモスの原理なのだとされる。秘められた原理、地上世界では明らかにされず、神的な光に照らされなければ決して実定的に捉えられることのない原理だ。グノーシス思想ではこれを「プネウマ」と呼び、プシュケーはその「コスモス的」な発現形を言い表す用語となる(前掲書、p.158)。ヘルメス文書群では、プネウマはときに知性を表す「ヌース」に置き換えられていたりするという。上のプネウマとプシュケーの両者を指すものとしてプシュケー(「魂」)が使われることもあるといい、用語のゆらぎが見られる。2世紀のアレクサンドリアの思想家で、グノーシス派の大物とされるバシレイデスの一派では、この後者の用法を拡大する形で、プネウマが纏う付加物もまた、魂を構成する要素と見なされるようになるのだという(p.159)。イアンブリコスが報告している二重霊魂説は、このような形で結実したものだという。グノーシスから新プラトン主義への流れを、ヨナスはこのように端的に位置づけてみせる。

◇マニ教的世界観

グノーシスの二重霊魂説と、聖書解釈の伝統としての二重創造説との決定的な違いは、肉体の関与に見いだされる。繰り返しになるが、前者はあくまで魂の二元論であり、後者は魂と身体の二元論である。ここで、両者をよりラディカルにすり合わせた(と思われる)ものを見ておこう。すなわちマニ教の教義である。マニ教がグノーシス思想の流れを汲むものであることは古くから知られているところだが、それにしても、その教義には身体的なもの、物質性などが取り込まれており、聖書解釈の伝統をも取り込んでいるように見えるのである。具体的な教義内容を示唆する主要文献の多くは断片的なもののようで、網羅的に見ることはここでは不可能だが、とりあえず、それら貴重な文献のいくつかがまとめられ英訳されているので、ここではそれを参照することにしよう。イアイン・ガードナー&サミュエル・N.C.リューの編纂による『ローマ帝国時代のマニ教関連文献』(Gardner & Lieu, "Manichaean Texts from the Roman Empire", Cambridge Press, 2004)である。さらにここでは、創造過程への言及部分だけを概観しておく。

マニ教の教義内容は主に、敵対するキリスト教の側からの報告によって知られている。たとえば4世紀の新プラトン主義者、リコポリスのアレクサンドロスによるものがある。「マニ教の見解に対する論述」(上掲書、pp179-182)は、マニ教の教義について大まかに記した文章である。これを見ると、まずマニ教の体系でとりわけ特徴的なのが、質料(matter)の捉え方だということがわかる。そこでの「質料」とは、ランダムな運動状態をなすものなのである(余談ながら、このあたり、ストア派の質料概念との照応関係がありそうに思えるが、それはまた改めて検討したいところだ)。アリストテレス以来の、静的・受動的なものではない。この一種の運動体である「質料」が上昇の欲望に捉えられ、一度天上世界の高みに登ってしまう。するとその「質料」は、高みにある神的世界に魅せられ、その世界を支配しようとするようになる。それに対して神は罰を下そうとするのだが、そもそも当の神的世界には邪悪なるものが存在しないため、そうした異質なるものを制御できる術がない。質料の側を押さえ込むには別の力が必要になる。こうして、質料に対峙させるために送り出された別の力、それが魂なのだという。神の恩寵でもって、それを質料と混じり合わせ、その力を押さえ込むという算段なのだが、この混合において、魂は質料の側の属性を受け取ることになる。かくして魂は、その本来の性質からかけ離れたものになってしまうというのだ。

アレクサンドロスによるこのサマリーは、新プラトン主義的な色合いを感じさせる。光の神と闇の神とといった、より広く知られているマニ教の体系そのものへの言及がないからだ。そのあたりの詳細は、別の記述、たとえば「アルケラエウス伝」(pp.182-187)などに示されている。それによると、上の記述で魂と称されたもの(こちらでは「原人」)は光の世界に、質料と称されたものは闇の世界に属し、両者の争いの中で、後者が前者のところにまで上昇してきたため、光の世界の神が原人を下方の闇の世界に送り込む、という話になっている。下界に下った原人は闇の圧力に苦しみ、それを救うために、光の世界の神は聖霊(Living Sprit)なる別の力を発出させて送り込み、原人を闇から救い出した、というふうに話は続く。その聖霊はまた、魂の残像としての光をもたらし、また地上世界を8つの層として作ったとされる。

いずれにしてもポイントは、魂が纏うとされた二重性は、ここでは出自すらまったく異なる対立物の混合という形で解釈されていることである。下方の闇の世界の「質料」は、いわば物質的な存在だ。しかもここでは、その質料の側、物質的なものの側がドライヴする形で、魂(原人)を引き込み、聖霊の助けを借りて人間が、また地上世界が成立するという図式になっている。アリストテレスのものとは相当異なる質料概念だが、それを承知であえて言うなら、これは質料因の突出というふうにも取れなくない。身体(肉体)という言い方はされていないが、世界創造において肉体的・物質的なものの関わりを説いたものとして、マニ教はかなり特異なものと言えそうだ(もっとも、それは後に、より確かな形で、そうした肉体的・物質的なものを放逐するためだったのだが)。新プラトン主義に見られるような、天上世界の側が一様にドライヴする発出のベクトルの、これはまさに正反対だ。しかも、地上世界が層をなすといった点に、新プラトン主義的なコスモロジーの継承も見られ、かくしてこれは、古代の遺産を接ぎ木細工のようにつないだキマイラのようなもの、という印象すら受ける。

◇アウグスティヌスと二重創造説

新プラトン主義の側(あるいはその影響を受けた思想家)からすれば、マニ教のそうした質料因的な考え方、コスモロジーの歪曲は、とうてい許されるものではないのだろう。マニ教の基本的な論点を批判的に取り上げている代表的人物といえば、何をおいてもアウグスティヌスを挙げないわけにはいかない。たとえば「異教について」の一節で、アウグスティヌスは、対立する善悪二つの原理の想定そのものを「馬鹿げた不浄な寓話」と一蹴している(同、p.188)。

二重創造説そのものに対するアウグスティヌスの立場はどうだったのだろうか。この点を検討するには、創世記についてのアウグスティヌスの注解を見る必要がある。創世記に関するアウグスティヌスの著作は大きく5つある。そのうちの3つは創世記の注釈が単独のテーマになっている。『創世記について:マニ教論駁』『創世記注解(未完)』『創世記逐語的注解』)がその3つだ。ほかに『告白録』の末尾の議論、さらに『神の国』11書などがあるが、ここでは、前3者に絞り、合本英訳版("On genesis", Augustinian Heritage Institute, New City Press, 2002)を参照しておく。

結論から言えば、アウグスティヌスは二重創造説の考え方をそのまま受け取り、さらに発展させてもいる。順に見ていこう。最初の『マニ教論駁』は、アウグスティヌス30代半ばの388年ごろに、題名通りマニ教への批判として書かれたもので、特に第1書でそうした批判を展開し、第2書では人間の創造についてのより細かな解釈、しかも字義的でない比喩的解釈を展開してみせる。創世記の、二箇所の人間創造への言及についてアウグスティヌスは、「土くれから」の創造を、肉体の創造にのみ言及しているものと解釈し、「神の像に似せて」というところを、内面性をもった人間、すなわち魂の創造と解釈している。そして両者の結合は調和のうちになされているということを強調する(上掲の英訳本、p,77)。要するにアウグスティヌスは、肉体と魂の原初的な拮抗関係を否定し、同時にまた両者の結合が苦しみの中で行われたのではないとして、マニ教の教義内容に真っ向から反論しているのである。

ちなみに、『創世記注解(未完)』は393年から95年ごろの著作だが、人間創造に関するそこでのコメントは、「わたしたちの像に似せて」という句の複数形をめぐる議論(つまり神とその子、という解釈)と、「像」「似せて」などの言葉の使い方をめぐる議論(像と本体との差異、似るということが含みもつ本体への関与性)だけのようなので、ここでは割愛する。一方、『創世記逐語的注解』では、マニ教を念頭においた議論は大幅に影を潜め、創世記の一句、一文についての詳細な問答を記す形になっている。401年から416年ごろ、ちょうど『告白録』の執筆が終わるころに取りかかった著作ということで、両者の議論には関連性が認められるかもしれない。

その『創世記逐語的注解』では、同時にまた新たな視点も導入されている。それは、あらゆる創造の二重性という議論である。2巻の8.16においてアウグスティヌスは、創世記の冒頭で光に譬えられているのが、精神的・知的存在の「予告」なのだと解釈する。「すると光があった」は、世界に対峙する理性的創造(つまり知性、または光)が、まだ世界との対峙を知っていない状態(世界が形成されていない状態)から、その対峙を通じて世界を知った状態への移行を意味しているのだと読むのである。このプロセスは、残りの創造のすべてに当てはまる、とアウグスティヌスは説く。つまり、創造とはまず、知性において知(被造物についての知)として創られ、それからその知解対象が具体的な種として創られることをいうのである(p.199)。かくして人間も、3巻の20.31に示されるように、まずは光(理性的存在=神)において知的被造物(知解対象)として創られ、それから実際の被造物として創られたとされる(p.235)。その知的被造物は光の似姿でもあることから(被造物もまた理性的存在、ということ)、その創造は、同時に、知的被造物による、神が創った世界の認識でもある、とされる(同)。ほかと変わらない被造物であったなら、その具現化を指して「すると人間があった」と表現されるところを、聖書はこの箇所だけ「神は自分の像に似せて人を創った」にしている。アウグスティヌスはそこに、神の創造=知的認識というプロセスの、知的被造物(人間)への写し取りを見て取るのである。

人間の創造にのみ関与するかのように説かれていた二重創造説は、ここへきて被造物全般の創造プロセスとして明確に規定された。とはいえ、これはあくまでプロセスの二重性を図式化しているもので、知的存在(創造主)における知解のプロセスとしての創造にばかり重きを置き、具体的な種としての展開については具体的なことは何一つ語られない。種(時間内存在)としての展開(たとえば個体の成長など)は、定められた原理にしたがって経時的になされる、と語られるにすぎないのだ。アウグスティヌスの議論はどこか前者の部分にのみこだわって、後者、すなわち具体的な「姿」の形成を不問とするかのようなのである。明らかにそこには、肉体、すなわち物質性への軽視、排除が見てとれる。

◇肉体の行方は?

先の二重霊魂説は、二重創造説の一種の組み替えのようにも映る。肉体の側を軽視する形で、霊魂の堕落の構造として人間の創造を解釈しているからだ。アウグスティヌスの解釈でも、肉体の軽視は顕著である。なにしろそこでは、「神がみずから、人間を土から創り、動物をも土から創ったのだとすれば、神の像に似せて創られたこと以外に、人間がその点において享受している傑出とは何だろうか?」(6巻22、p.313)と言われ、神の6日間の創造とはまずもって「原因の創造」であり、その原因をもとに、「人はみずから時間内存在になったのだ」(26、p.315)とされるのである。「土くれ」からの創造という部分についても、アウグスティヌスはこれを比喩的な物言いなのだとして、字義的解釈を斥けるべきだと述べている(20、p.312)。結果的に肉体性・物質性の問題は俎上に上がってすらこない。

アウグスティヌスにいたる新プラトン主義の流れの中での物質性(肉体)の問題は、かなり貧弱にしか扱われない。一方のマニ教は、たとえよりよく放逐するためであったとしても、教義体系の中で物質性の問題を一応は大きく取り上げてみせる。もちろんそれはかなり特異な事例ではあるのだが、いずれにしても物質性への解釈を肥大化(こう言ってよければだが)させているところは、注目に値する。本連作ノートでは、像としての人間、というテーマ系を追いかけているわけだが、そうなると当然、魂の側と肉体の側とを両方見ていかなくてはならない。物質性の問題、その思想的系譜を追うことはきわめて重要だ。さしあたりこの連作ノートでは、次にアリストテレス思想の流れの方に注目していきたいと思う。特にこの二重創造説との絡みに関して見ていこうと思えば、これまた当然ながらアラブ世界にも目配りする必要がある。これが次回のテーマとなる。
(続く)

(Text:2007年10月〜12月)

投稿者 Masaki : December 11, 2006 10:57 PM