2004年10月12日

No.42

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.42 2004/10/09

------クロスオーバー-------------------------
モデルケースとしてのスコラ哲学

一般にスコラ哲学というと、中世の神学者たちが現代の眼からするとおそろしく
空疎な議論を繰り返していたかのように捉えられがちです。確かに、例えば「同
一空間に複数の天使は存在できるのか」といった問題が扱われているのを眼にし
たりすると、私たち現代人は「なんのこっちゃ」と思ってしまうかもしれませ
ん。この天使についての問題は13世紀後半に、当時の碩学ドゥンス・スコトゥ
スが論じているものです。ですがこの問題、実は「個体がそれぞれに異なるのは
なぜか、それはいかに異なるのか」「個体はいかにして個体になるのか」といっ
た問題の一環として扱われているのです。個体をめぐる差異や生成の問題……こ
れって、いわゆる「現代思想」がつい最近まで(そして今なお?)取り組んでき
た問題そのものではありませんか。

もちろん現代と13世紀とでは方法論も違えば、思考の発現形も違います。けれ
ども、底を流れる問題意識はそれほどかけ離れたものではないのかもしれませ
ん。13世紀の場合には、キリスト教の教義の枠という大きな制約が課せられて
いました。そうした中で、ともすれば異教的といわれる哲学思想(アリストテレ
ス)を取り込み、上のような問題を考え抜いていったのです。そうしてみると、
時代が課す制約とそこから出てくる発現形を考える上で、スコラ哲学は興味深い
モデルケースをなしていることになります。これはもしかして、現代のある種行
き詰まった思想状況についての洞察を与えるヒントになるかもしれません。

そういう視点から興味深い考察をした人物として、例えばエディット・シュタイ
ンを挙げることができるでしょう。フッサールに現象学を学び、ユダヤ人ながら
カトリック信者となり、後にアウシュヴィッツで殺害されるという実に劇的な人
生を歩んだ人でした。その思索の軌跡を唯一日本語で読める論集が、『現象学か
らスコラ学へ』(中山善樹訳、九州大学出版会)です。収録されているうち最初
の論文は、フッサール現象学とトマス・アクィナスの哲学との対話を試みた一編
で、前者の本質直観をめぐる議論と、後者の「存在の類比」による神の認識とい
う問題とが、いかに重なりあるものであるか詳細に論じています。なるほど両者
は、「すべての自然的な人間の認識は、感覚的素材を知性が加工することによっ
て獲得されている」(p.28)というスタンスを共有しつつ、知性の加工方法に
おいて大きな違いが生じているというわけです。神という存在と対峙しなければ
ならなかったトマスと、技術やメディアに支えられた初期の感覚の変容の時代を
生きたフッサールとでは、おのずと見識の発現は変わってくるのでしょう。

そういえば、このところ現象学の見直しといった話をよく耳にします。社会の変
化とそれがもたらす感覚変容の問題がさらに大きくなっているせいでしょうか。
ヨーロッパには分析哲学と「大陸哲学」という二つの大きな哲学文化があるとい
いますが、両者の対話の可能性を現象学的視座を通じて開こうと提唱する論もあ
ります(サイモン・クリッチリー『ヨーロッパ大陸の哲学』(佐藤透訳、野家啓
一解説、岩波書店))。そのような動きとも関係する形で、スコラ哲学の提示す
る様々な問題も、もしかすると新たな光が当てられていくかもしれません。とい
うか、当ててみたいという気がします。ヨーロッパの知的伝統においても、中世
哲学はマージナルなものとして片づけられてしまうことが多いといいますが、そ
れだけに、スコラ哲学にはまだまだ掘り下げられていない、あるいは見過ごされ
ている未知の鉱脈、考えるためのヒントが隠されているかもしれませんね。


------文献講読シリーズ-----------------------
ダンテ「帝政論」その7

今回は6章と7章です。いずれも短いので、一気に読んでいくことにしましょ
う。ここでは、前の章から続いている一者による支配の議論を、部分と全体とい
う観点からまとめ直しています。

               # # # # # #
VI. 1. Et sicut se habet pars ad totum, sic ordo partialis ad totalem. Pars ad
totum se habet sicut ad finem et optimum: ergo et ordo in parte ad ordinem
in toto, sicut ad finem et optimum. Ex quo habetur quod bonitas ordinis
partialis non excedit bonitatem totalis ordinis, sed magis e converso.
2. Cum ergo duplex ordo reperiatur in rebus, ordo scilicet partium inter se,
et ordo partium ad aliquod unum quod non est pars, sicut ordo partium
exercitus inter se et ordo earum ad ducem, ordo partium ad unum est
melior tanquam finis alterius: est enim alter propter hunc, non e converso.

6章
1. 部分が全体に対して関係するのと同様に、部分の秩序も全体の秩序に対して
関係する。部分が全体に対してもつ関係は、部分が目的や最良の形に対してもつ
関係と同様である。したがって、部分における秩序が全体の秩序に対してもつ関
係も、(部分における秩序が)目的や最良の形に対してもつ関係と同様である。
ゆえに、部分的秩序の秀逸さが全体的秩序の秀逸さを越えることはないが、その
逆は十分ありうる。
2. したがって事物には二重の秩序が認められる。つまり部分同士の秩序と、部
分ではないなんらかの一者に対する秩序である。軍の分隊同士の秩序と、指揮官
に対する秩序のように、だ。一者に対する秩序は、それがもう一つの秩序の目的
である限りにおいて、上位に置かれる。もう一つの秩序はその秩序のために存在
するのであり、逆ではないからだ。

3. Unde si forma huius ordinis reperitur in partibus humane multitudinis,
multo magis debet reperiri in ipsa multitudine sive totalitate per vim
sillogismi premissi, cum sit ordo melior sive forma ordinis; sed reperitur in
omnibus partibus humane multitudinis, ut per ea que dicta sunt in capitulo
precedenti satis est manifestum: ergo et in ipsa totalitate reperiri debet.
4. Et sic onmes partes prenotate infra regna et ipsa regna ordinari debent
ad unum principem sive principatum, hoc est ad Monarcham sive
Monarchiam.

3. ゆえに、そうした秩序の形が人間の多彩さの一部に見いだされるのであれ
ば、前述の三段論法の流れに即して、その多彩さそのもの、あるいはその全体性
においては、いっそう際立っているはずである。その秩序、あるいはその秩序の
形は、より優れたものであるのだからだ。いずれにしても、前章で述べたことか
ら十分わかるように、その秩序は人間の多彩さのあらゆる部分に見いだされるの
であり、したがって、秩序は全体性そのものにおいても見いだされるはずであ
る。
4. 先に示した王国内のすべての部分と同様に、王国そのものも、一人の支配者
または指導者に対して秩序づけられなくてはならない。つまり、君主あるいは王
政に対して、ということである。

VII. 1. Amplius, humana universitas est quoddam totum ad quasdam partes,
et est quedam pars ad quoddam totum. Est enim quoddam totum ad regna
particularia et ad gentes, ut superiora ostendunt; et est quedam pars ad
totum universum.
2. Et hoc est de se manifestum. Sicut ergo inferiora humane universitatis,
bene respondent ad ipsam, sic ipsa 'bene' dicitur respondere ad suum
totum; partes enim bene respondent ad ipsam per unum principium tantum,
ut ex superioribus colligi potest de facili: ergo et ipsa ad ipsum universum
sive ad eius principem, qui Deus est et Monarcha, simpliciter bene
respondet per unum principium tantum, scilicet unicum principem.
3. Ex quo sequitur Monarchiam necessariam mundo ut bene sit.

7章
1. さらに言えば、人間の普遍性はなんらかの部分に対するなんらかの全体をな
し、またなんらかの全体に対するなんらかの部分をもなしている。上に述べたよ
うに、それは王国の特殊性と民族とに対するなんらかの全体をなしており、また
全体的な普遍性に対するなんらかの部分をなしてもいる。
2. このことは自明である。したがって、人間の普遍性の下位にある要素が、普
遍性そのものに対してうまく関係を結ぶのと同様に、人間の普遍性それ自身も、
その(普遍性の)全体に「うまく」関係を結ぶのだと言われるのだ。上で述べた
ことから容易に結論づけられるように、部分が全体そのものへと関係するのは単
一の原則によってである。したがって、人間の普遍性みずからが普遍性そのもの
に対して、あるいはその支配者−−つまり神、君主だが−−に対して端的にうま
く関係するのは、そうした単一の原理、すなわち単一の支配者によってなのだ。
3. 以上から、王政は世界がよくあるために必要であることが導かれる。
               # # # # # #

ダンテが考えている一点を頂点とする構造は、いわゆるピラミッド構造なので
しょうか。とりあえずここではそうだとしておきましょう。ピラミッド型の階層
構造は、なるほどトップダウンの意志疎通(例えば会社組織での上司から部下へ
の流れ)においては効率的なのかもしれませんが、逆にボトムアップの流れは大
きな困難を伴います。現代においては、ピラミッド構造は権力論とのからみで批
判されることも多い形式になっていますね。ま、それはともかく、ダンテの王政
論でやはり気になるのは、それがコムーネ体制の混乱に対する批判という側面を
もっていたのだろうという点です。

コムーネについて簡単に復習しておくと、カロリング朝の支配が終わった後、イ
スラム教徒やマジャール人(ハンガリー人)の侵入に対して、都市部の結束を固
めたのがそもそもの始まりと言われています。その中心には司教がいて、10世
紀の終わり頃にはなんらかの組織形態が出来上がっていたようです。その後、一
方では経済・商業活動の拡大があり、もう一方では叙任権闘争や十字軍などの混
乱があり、混乱を避け平和な繁栄を謳歌したい都市部の住民の結束は、さらに強
化されていきます。かくして12世紀前半ごろには、自治組織としてのコムーネ
がイタリア北部を中心に出来上がりました。司教は対外的な都市の代表でした
が、実権はコンソリが握っていました。コンソリは行政担当者で、貴族を中心と
した富裕層から選出され誓約によって職務の遂行権限が与えられていました。

コムーネは周辺領主の土地を巻き上げながら拡大していったといいます。それと
ともに都市の統治形態も変化していきます。旧領主や、新興の商人・職人ら(そ
の団体をポポロといいます)は不安定要因として働き、コムーネの不安定化を鎮
めるために、12世紀終わり頃からポデスタ制(他の都市から選出された司法官
に1年の任期で統治を委託する)が始まりますが、やがて13世紀前半には近隣
都市同士の抗争が起き、今度はそれを鎮めるために一人に都市の全権限を集中さ
せるシニョリーア制が登場します。従来のコムーネの統治方法と、このシニョ
リーア制との間を揺らいだ後、多くのコムーネはこの後者へと移行していきま
す。

興味深いのは、一人を頂点とする体制への移行の圧力は、なんらかの組織的な危
機(内的・外的)に際して高まっている、ということです。危機的状況にはトッ
プダウン型の決断の方が対応しやすいということなのでしょうか。組織論的に面
白そうな問題ですね。とはいえ、そのためには制度として揺るがないような基盤
がなければなりません。フィレンツェはこのシニョリーア制を採用するのが遅
く、それだけに基盤が脆弱だったのかもしれません。ダンテが就いた百人委員会
やプリオーレなどの役職は、シニョリーア直属の組織ということですが、前にも
記した通り、ダンテはすぐさま大きな政治闘争に巻き込まれてしまうのでした。
シニョリーア制はダンテにとって理想的な統治モデルをなしているのでしょう
か。そうかもしれません。ただ、その基盤が確たるものでなければ平和な統治は
できないということも、ダンテは身をもって感じていただろうと推測されます。

次回は8章から読み進めていきます。どうぞお楽しみに。

投稿者 Masaki : 2004年10月12日 07:35