2004年10月26日

No.43

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.43 2004/10/23

------新刊情報-------------------------
涼しく過ごしやすい季節になりましたね。読書に最適です(ただし台風さえ来な
ければ、ですが……)。というわけで新刊の情報です。季節がらでしょうか、文
化史の書籍がいろいろ出ていますね。

○『ワインの文化史』
ジルベール・ガリエ著、八木尚子訳
筑摩書房、?7,245
ISBN4-480-85776-1

大著です。ガリア人のワインから始まって、中世、近・現代まで、2000年以上
ものワインの歴史を集大成したものとか。著者はブドウ栽培などの歴史研究の専
門家。意外に類書が少ないので、これは貴重な一冊かもしれません。余談です
が、このところフランスでも、健康志向の高まりなどでワイン消費が落ちている
のだとか。そのため、規制されていたアルコール飲料の広告を一部緩めることに
なったようですね。

○『中世のパン』
フランソワーズ・デポルト著、見崎恵子訳
白水社、?1,050
ISBN4-560-07376-7

ワインと来ればパンです(笑)。92年刊の同書が手頃な新書サイズでお目見え
です。小麦粉がパン粉として確定したのは中世末期のこととされます。同書では
中世のパン作りの実際から価格や販売の形態にいたるまで、幅広い話題を取り上
げています。食からのアプローチは、それが基本的行為であるだけに刺激的で
す。これまた余談ですが、入ってきたばかりの最新ニュースとして、ホップを使
わないハープ系のグルートビール(中世のドイツなどの修道院で作られていたも
の)を、キリン(でしたか?)が再現したそうです。すばらしいですね(ちなみ
にホップが主流になるのは12世紀以後なのだそうですね)。残念ながらその再
現ビール、販売はしないそうです……。

○『修道院文化入門−−学問への愛と神への希求』
ジャン・ルクレール著、神崎忠昭、矢内義顕訳
知泉書館、?7,140
ISBN4-901654-41-1

修道院関連の書籍も最近は少しずつ刊行されていますね。内容説明をコピーして
おきましょう「6世紀のベネディクトゥスの戒律に従い、神を求める修道生活か
ら生み出されて12世紀に頂点に達する修道院文化の固有の性格を解明する。
ヨーロッパ基層文化の核心に迫る、古典的名著」。特に修道院内で培われた学芸
の数々にスポットが当てられているようです。

○『紙と羊皮紙・写本の社会史』
箕輪成男著
出版ニュース社、?3,465
ISBN4-7852-0114-2

さて、修道院といえば写本ですが、それにはまた長い歴史があります。その関連
でも新刊が出ています。まずこれは、写本の変遷を宗教書から世俗への拡散にい
たるまでを追っていくという趣向で、メソポタミア、エルサレム、バグダッド、
イスタンブールなどなど、写本文化を担った古代の要所別にまとめられているよ
うです。実に面白いアプローチになっていますね。

○『中世彩飾写本の世界』
内藤裕史著
美術出版社、?2,625
ISBN4-568-22119-6

こちらはエッセイをまとめたもので、著者は元医師とのこと。筆者の思い入れは
その目次にも窺えます。一部を紹介しておくと、こんな感じです。「彩飾写本と
パリの古本屋巡り」「彩飾写本の生まれ故郷」「彩飾写本の旅」「カタルーニャ
の中世美術」「フランドル絵画が辿った数奇な運命」……。興味をそそられるタ
イトルが並んでいます。ぜひ一読したいですね。


------文献講読シリーズ-----------------------
ダンテ「帝政論」その8

今回は8章と9章を見ていきましょう。単一の支配者による統治を、また別の形
で論証しようとしている部分です。帝政を弁護する議論がこれでもかこれでもか
と繰り出されていきます。この箇所では特に、神と人間の関係がモデルになって
いることをかなり直接的に示しています

               # # # # # #
VIII.
1. Et omne illud bene se habet et optime quod se habet secundum
intentionem primi agentis, qui Deus est; et hoc est per se notum, nisi apud
negantes divinam bonitatem actingere summum perfectionis.
2. De intentione Dei est ut omne causatum divinam similitudinem
representet in quantum propria natura recipere potest. Propter quod
dictum est: "Faciamus hominem ad ymaginem et similitudinem nostram";
quod licet 'ad ymaginem' de rebus inferioribus ab homine dici non possit,
'ad similitudinem' tamen de qualibet dici potest, cum totum universum
nichil aliud sit quam vestigium quoddam divine bonitatis. Ergo humanum
genus bene se habet et optime quando, secundum quod potest, Deo
assimilatur.
3. Sed genus humanum maxime Deo assimilatur quando maxime est unum:
vera enim ratio unius in solo illo est; propter quod scriptum est: "Audi,
Israel, Dominus Deus tuus unus est".
4. Sed tunc genus humanum maxime est unum, quando totum unitur in uno:
quod esse non potest nisi quando uni principi totaliter subiacet, ut de se
patet.
5. Ergo humanum genus uni principi subiacens maxime Deo assimilatur, et
per consequens maxime est secundum divinam intentionem: quod est bene
et optime se habere, ut in principio huius capituli est probatum.

第8章
1. 第一の行為者、つまり神だが、その意思に従うものはすべて善くあり、また
最善をなす。神の善性が完成の極みに達していることを否定する者でもない限
り、このことはおのずと明らかだ。
2. 神の意思に適うとは、あらゆるものが、おのれの本性が許す限りにおいて、
神との類似を表すことである。ゆえにこう言われたのだ。「われわれの姿に似せ
て、人を作ろう」。人間より劣る事物については「姿に」と言うことはできない
ものの、「似せて」は何についても言うことができる。世界はすべて、神の善意
のなんらかの痕跡以外ではないからだ。したがって人類は、可能な限り神に似る
場合に、善くあり、また最善をなすのだ。
3. だが人類が最も神に似るのは、人類が最大限一つにまとまった時である。一
なる真の道理は神にしかない。ゆえに記されたのだ。「聴け、イスラエルよ。な
んじの主である神は一つである」。
4. だが人類が最大限一つにまとまるのは、全体が一人のもとに結束する時であ
る。自明なことだが、それが可能なのは、一人の君主に従属する時のみである。
5. このように人類は、一人の君主に従属する場合に最も神に似、結果的に最も
神の意思に適うのである。つまり、この章の始めに考えたように、善くあり、最
善をなすということだ。

IX. 1. Item, bene et optime se habet omnis filius cum vestigia perfecti
patris, in quantum propria natura permictit, ymitatur. Humanum genus
filius est celi, quod est perfectissimum in omni opere suo: generat enim
homo hominem et sol, iuxta secundum De naturali auditu. Ergo optime se
habet humanum genus cum vestigia celi, in quantum propria natura
permictit, ymitatur.
2. Et cum celum totum unico motu, scilicet Primi Mobilis, et ab unico
motore, qui Deus est, reguletur in omnibus suis partibus, motibus et
motoribus, ut phylosophando evidentissime humana ratio deprehendit, si
vere sillogizatum est, humanum genus tunc optime se habet, quando ab
unico principe tanquam ab unico motore, et unica lege tanquam unico
motu, in suis motoribus et motibus reguletur.
3. Propter quod necessarium apparet ad bene esse mundi Monarchiam
esse, sive unicum principatum qui 'Imperium' appellatur. Hanc rationem
suspirabat Boetius dicens: O felix hominum genus si vestros animos amor,
quo celum regitur, regat.

第9章
1. 同様に、あらゆる子は、おのれの本性が許す限り父親の痕跡に倣う場合に、
善くあり、また最善をなす。人類は天の子であり、天はあらゆる所業において完
全な存在である。『自然学』(アリストテレス)第二巻によれば、人が、そして
太陽が、人を生むのだ。したがって人類は、その本性が許す限り天の痕跡に倣う
場合に、最善をなすのである。
2. また天は、すべて単一の運動、すなわち第一の動体によって、また単一の動
因、すなわち神によって、運動も動因も、あらゆる部分が制御されている。哲学
のおかげで人間の理性がすこぶる明確に理解しているように、である。この弁証
法が正しければ、人類が最善をなすのは、単一の動因としての一人の君主によ
り、また単一の運動としての一つの法により、その運動も動因も制御される場合
である。
3. ゆえに、世界が善くあるためには君主制が必要であると思われるのだ。ある
いは「帝政」と呼ばれる単一の元首政である。こうした考えをボエティウスは望
み、こう述べている。「おお、麗しき人類よ。もしなんじの魂を、天をも支配す
る愛が支配するならば」。
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引用箇所を確認しておくと、まず8章2節のものは有名な『創世記』1章26、同
じく3節の引用は『申命記』6章4です。9章1節のアリストテレス『自然学』か
らの引用は194b13の"anthrwpos gar anthrwpon genna kai hlios"、同じく3節
のボエティウスは『哲学の慰め』第二部8の韻文の末尾です。岩波文庫版では
「おお、汝等人類は幸いなるかな、若し天を支配するその愛が 汝等の心をも支
配するならば」(旧字体は改めています)となっていますね。

ボエティウスは5世紀末から6世紀初めにかけて活躍した哲学者・政治家で、中
世を通じて大きな影響を与えました。キリスト教徒で、博識を誇り(アリストテ
レスの翻訳や神学論、さらには数学論・音楽論でも知られています)、東ゴート
王テオドリクスに重用され宰相にまでなったものの、内通の疑いで告訴された友
人をかばったことから、投獄されて処刑されてしまいます。ダンテの置かれた境
遇に類似していますね。そのせいもあってか、ダンテはボエティウスに少なから
ぬ思い入れがあったように思われます。『哲学の慰め』はその獄中で書かれたボ
エティウス最後の著書で、散文と韻文が交互に置かれるという形式を取っていま
す。内容は、哲学の女神が獄中のボエティウスに真の幸福や神の正義の支配など
を説いて慰める、というものです。ですが、ダンテが示唆するように、ボエティ
ウスも元首を頂点とする支配体制を肯定していたかどうかは少々疑問です。

『哲学の慰め』では、高位は徳を植え付けず、王威もまた無力であると説き、当
時の世相を批判しています。そして、世俗的幸福を一つずつ否定した後で、神の
最高善に従うことが真の幸福なのだと説いていきます。神性の獲得によって人間
は神々しくなる、とするボエティウスは、あらゆるものが福祉(幸福というもと
の意味での)という一つのものに統合される、というヴィジョンを展開します
(第三部10)。けれどもそれは、世俗の混乱をいわば天の次元において止揚す
ることに主眼があるのであって、決して、世俗的な政治体制を一者への統合とい
う形で実現することを説いているのではありません。

世俗の混乱に対し、ボエティウスとダンテは、同じような命題から出発して、前
者は天の次元へ、後者はやはり世俗の次元へと論を進めていきます。この対比は
興味深いですね。ここに読みとるべきは何でしょうか?時代状況の差でしょう
か?教会がもつ支配力の差(あるいは著者らの教会への関わり方)でしょうか?
あるいはまた、ボエティウスとダンテの置かれた境遇の差?このあたり、もっと
検討してみる価値がありそうです。もしかすると、帝国論を逆に批判するための
材料なども、そのあたりに見いだされるかもしれません。

次回は10章から読んでいくことにします。争いという観点から帝政を論じてい
る箇所です。どうぞお楽しみに。

投稿者 Masaki : 2004年10月26日 07:36