2004年11月22日

No.45

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.45 2004/11/20

------クロスオーバー-------------------------
イスラム思想・他文化理解

外部の者からすると、学会の紀要などというのは、時にあまり読んで面白いもの
でなかったりもするのですが、まれに目の覚めるような論考が載ることもないで
もなく、また、現行の研究水準や動向を知るためのゾンデとしての利用価値も大
いにあることは事実で、たまに目を通すのは決して無駄ではありません。中世哲
学会が毎年刊行している『中世思想研究』は最新の46号が出ていますが、とり
わけ目を引くのは、2003年秋に行われたシンポジウムの記録です。「存在と知
性−−イスラームから西洋へ」と題されたそれは、同学会がイスラムと西洋中世
との関係性を正面から取り上げるの初めての機会だったようです。これだけイス
ラムのプレゼンスが顕著になっている昨今の世界情勢においては、ある意味当然
の流れなのかもしれませんし、中世思想史の研究だけの文脈においても、両者の
関係がこれまでそれほど綿密に取り上げられてこなったとすれば、それはそれで
手落ちであったわけで、いずれにしても、イスラム思想の西欧への影響関係はこ
れから様々に問い直されていかざるをえないでしょう。同時にそれは、現代世界
でのイスラム問題を考える基礎にもなると思われます。

掲載されたシンポジウムの発表は2つです。まず小林春夫「イスラーム哲学の転
換点」は、イスラム研究史の概要と、イブン・スィーナー(アヴィセンナ)の自
己概念(アプリオリな自己認識を「空中人間」の比喩で表しているのですね)の
紹介を行っています。一般に、アヴィセンナの存在論はアリストテレスを下敷き
にした独自のものだと言われます。後者が分割的知性であるのに対し、アヴィセ
ンナは一種のホーリズムを思わせますがどうなのでしょう?ちょっと読んでみた
いですね。

もう1つは水田英実「トマス・アクィナスの異文化理解」で、トマスのアヴィセ
ンナ批判・アヴェロエス批判を踏まえつつ、『対異教徒大全(護教大全)』が宣
教のマニュアルなどではなく、キリスト教側の知識階級の知的欲求を満たすもの
で、その際の「異教徒」も差別的な意味はなく、議論の相手として取り上げられ
た知性的人々として想定されているといった論を展開しています。とはいえ、相
手の知性を尊重する視座が、実際の異文化理解を推進したかどうかは別の問題だ
とも指摘しています。余談ですが、ライムンドゥス・ルルスがアフリカでの宣教
に失敗するのは、知的議論ばかりをあまりに重んじたからだという話もあり、異
文化への接し方というのはより大きな問題として捉えられそうです。

ついでながら中世哲学会のページ(http://wwwsoc.nii.ac.jp/jsmp/)も、紀要
で取り上げた書誌データや一部ですが既刊分の目次などがあって便利です。


------文献講読シリーズ-----------------------
ダンテ「帝政論」その10

今回は11章を途中まで読んでみます。前回に引き続き、正義について思索をめ
ぐらしています。

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4. Sunt enim huiusmodi forme quedam compositioni contingentes, et
consistentes simplici et invariabili essentia, ut Magister Sex Principiorum
recte ait. Recipiunt tamen magis et minus huiusmodi qualitates ex parte
subiectorum quibus concernuntur, secundum quod magis et minus in
subiectis de contrariis admiscetur.
5. Ubi ergo minimum de contrario iustitie admiscetur et quantum ad
habitum et quantum ad operationem, ibi iustitia potissima est; et vere tunc
potest dici de illa, ut Phylosophus inquit, "neque Hesperus neque Lucifer sic
admirabilis est". Est enim tunc Phebe similis, fratrem dyametraliter intuenti
de purpureo matutine serenitatis.

4. 『6大原理』の師が正しく述べているように、そのような形式(正義)は存在
し、(事象の)構成に関与している。また、単純かつ不変なるものの本質を維持
してもいる。とはいえそれらは、多かれ少なかれ、関係する主体からもそれらの
性質を受け取っている。それは、主体に、その反対物をなすものがどれほど混合
するかに応じて決まる。
5. ゆえに、正義の反対物が最小限のみ混合される場合に−−それは様態に関し
てであったり行使に関してであったりするが−−、正義は最も強い力を得るので
ある。その状態については、哲学者(アリストテレス)が述べているように、
「宵の明星も暁の明星も、これほどの驚嘆には値しない」と言うことができる。
それは、赤みがかった穏やかな朝の光の中で弟を目にする月(ポイベー)にも似
ているのだ。

6. Quantum ergo ad habitum, iustitia contrarietatem habet quandoque in
velle; nam ubi voluntas ab omni cupiditate sincera non est, etsi assit
iustitia, non tamen omnino inest in fulgore sue puritatis: habet enim
subiectum, licet minime, aliqualiter tamen sibi resistens; propter quod bene
repelluntur qui iudicem passionare conantur.
7. Quantum vero ad operationem, iustitia contrarietatem habet in posse;
nam cum iustitia sit virtus ad alterum, sine potentia tribuendi cuique quod
suum est quomodo quis operabitur secundum illam? Ex quo patet quod
quanto iustus potentior, tanto in operatione sua iustitia erit amplior.
8. Ex hac itaque declaratione sic arguatur: iustitia potissima est in mundo
quando volentissimo et potentissimo subiecto inest; huiusmodi solus
Monarcha est: ergo soli Monarche insistens iustitia in mundo potissima est.

6.様態に関する限り、正義が反対物を見いだすのは意志の働きにおいてである。
意志がすべての欲望を捨象しておらず、にもかかわらず正義がそこにある場合、
正義は少なくともその純粋さの十全な輝きにはない。というのも、正義はそこ
で、たとえごくわずかであっても抵抗する主体を有することになるからだ。だか
らこそ、審判者の熱意を煽るような者は遠ざけるのがよいのである。
7. 行使に関する限り、正義が反対物を見いだすのは力の可能性においてであ
る。正義は他者に対する力であり、誰にでも権能が与えれるのでなかったなら、
なにゆえに正義に従って行動しようとするだろうか?ゆえに、公正なる者の力が
強いほど、正義はその行使においていっそうの広がりを見せるのだ。
8. よって以上の論述から、次のように推論できる。この世で正義が最大の力を
得るのは、それが最大の意志と力をもつ主体に宿る場合である。そのようなこと
がありうるのは君主制を置いてほかにない。よって、君主制を据えることによっ
てのみ、この世の正義の力は最大になるのだ。


9. Iste prosillogismus currit per secundam figuram cum negatione
intrinseca, et est similis huic: omne B est A; solum C est A: ergo solum C est
B. Quod est: omne B est A; nullum preter C est A: ergo nullum preter C est
B.
10. Et prima propositio declaratione precedente apparet; alia sic
ostenditur, et primo quantum ad velle, deinde quantum ad posse.
11. Ad evidentiam primi notandum quod iustitie maxime contrariatur
cupiditas, ut innuit Aristotiles in quinto ad Nicomacum. Remota cupiditate
omnino, nichil iustitie restat adversum; unde sententia Phylosophi est ut
que lege determinari possunt nullo modo iudici relinquantur. Et hoc metu
cupiditatis fieri oportet, de facili mentes hominum detorquentis. Ubi ergo
non est quod possit optari, inpossibile est ibi cupiditatem esse: destructis
enim obiectis, passiones esse non possunt.

9. この前三段論法は、否定が内在する第二格に則っており、次のような形にな
る。すべてのBはAである。CのみはAである。よってCのみはBである。これは
次のようにも示せる。すべてのBはAである。C以外はAではない。したがってC
以外はBではない。
10. 先に述べたことから前者の命題は明証される。もう一方は、まず意志に関し
て、次に可能性に関して、というふうに示すことができる。
11. 前者の命題の明証するためには、アリストテレスが『ニコマコス倫理学』第
5巻で指摘するように、欲望(強欲)こそが正義の最大の反対物をなすというこ
とを示しておかなくてはならない。あらゆる欲望を遠ざけさえすれば、何も正義
に逆らうものはなくなる。ゆえに哲学者は、法によって裁かれうるものは、いか
なる形でも審判者を逃れてはならないと述べているのだ。人間の心を容易にまど
わす欲望への恐れゆえに、それは必要になる。望みうるものがない場合には、欲
望もありえない。対象物が破棄されてしまえば、情熱も生じえない。
               # # # # # #

今回はなんだか抽象論で、論旨が少し見えにくい感じがします。注釈的なことを
見ていきますと、4節に出てくる『6大原理』の師というのは、12世紀のシャル
トル学派を代表する人物、ギルベルトゥス・ポレタヌス(仏名:ジルベール・
ド・ラ・ポレ)のことです。普遍論争では、ギルベルトゥスは抽象的な認識を認
める立場を取ったといいますから、ここでは抽象概念(イデア)としての正義の
存在と、現世でのその実現形態(インスタンス)とのことを語っていることがわ
かります。5節のアリストテレスの引用は、『ニコマコス倫理学』第5巻、
1129bの28からの引用ですが、岩波文庫版の注釈によると、さらにこれはエウ
リピデスの『メラニッペ』からの引用だと記されています。いずれにしても、最
も偉大な徳としての正義がどれほどのものかを語るために持ち出されている一節
です。ダンテはここで、観念的世界のような純粋な抽象概念は、現世には存在し
ないということを述べています。

9節には三段論法の第二格というのが出てきます。三段論法はオッカムの『大論
理学』などにより、とりわけ中世盛期には大いにもてはやされたようです。第二
格は、大前提で「a=>b」、小前提で「c=>a」、結論で「c=>b」という形のも
のです(格は第四格までありますが、ここでは第二格だけを見ておきましょ
う)。矢印は関係性を表すものとします。関係性は「すべての〜は〜である」
(便宜的にこれを大文字Aで表します)「ある〜は〜である」(大文字I)「いか
なる〜も〜でない」(大文字E)「ある〜は〜でない」(大文字O)の4種類あ
るので、大前提・小前提・結論の組合せは4 x 4 x 4 = 64通りですが、このうち
成立するのは6通りしかありません。そのうち弱勢式といわれるものを除いた4
つ(EAE、AEE、EIO、AOO)は、覚えやすくするために、その母音を含む人
名、つまりそれぞれCESARE、CAMESTRES、FESTINO、BAROCOで表されます
(母音に注目してください。それぞれEAE、AEE、EIO、AOOになっていま
す)。他の格もふくめると全部で19種類の格式がこのような人名で表され、と
りわけ17世紀以降には「覚え歌」として伝えられていきました。語呂合わせで
暗記するのは今も昔も変わらないのですね。

なんだか大きく脱線してしまいましたが、今回の箇所は原理的な話で、11章の
残りの部分で具体的な話が示されていきます。というわけで内容的な面について
の話は次回に持ち越しといたします。

投稿者 Masaki : 2004年11月22日 23:43