2005年01月12日

No.48

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.48 2005/01/08

松の内も過ぎましたが、皆様よいお正月をお過ごしでしたでしょうか。本メルマ
ガは今年も中世と現代とについてまったりと考えていきたいと思っておりますの
で、どうぞよろしくお願いいたします。

------クロスオーバー-------------------------
必要は発明の母、利用の母、そして……

スマトラ沖地震と津波はこれまでにない大きな被害をもたらしています。津波に
関する警報体制がなかったことが問題を大きくする要因だったということで、そ
うしたシステムの設置について各国の協力体制が動き出すようですね。必要は発
明の母ですが、今回はその必要が認識されるために大きな犠牲を払わざるをえな
かったのが、なんとも痛ましいことです。とはいえ考えてみると、人為的な発明
というものはそもそも、なんらかの不都合や事故、失敗、不測の事態によって組
織されていくようにも見えます。そうした事態に対応するために、広い意味で技
術は作られていく……。もちろん、だからといっていつも大きな犠牲を伴う形で
しか物事が進んでいかない、というのでは困るのですが……。

当たり前といえば当たり前ですが、いったん考案された新技術が普及するに際に
も、やはりそれなりの必要(需要)がなくてはなりません。例えば羅針盤。ア
ミール・D・アクゼルの『羅針盤の謎』(鈴木主税訳、アーティストハウス)で
は、世界三大発明の一つといわれる羅針盤は、もとは中国で生まれた磁気コンパ
スが西欧に伝わってから発展したもの、との説を取っています。中国の航海術
は、ヨーロッパもかつてそうだったように、沿岸の地形と、夜間の星の位置、昼
間の太陽の位置を観察して行うというもので、磁気コンパスはそれほど必要にな
らなかったのですね。磁石は磁気コンパスというよりも占いに活用されるにとど
まります。また、今回の地震が起きたインド洋は、もともとモンスーンの風向き
で方向がわかるため、船乗りがコンパスを使う必要も生じなかったといいます。
磁気コンパスの利用拡大には、地中海の交易拡大の欲求と、港湾都市の覇権争い
といった動因が必要だったのです。

紙や印刷の普及にも同じような力学が働いていそうです。こちらはヨーロッパよ
りも東洋でいち早く普及するのですが、箕輪成男『紙と羊皮紙・写本の社会史』
(出版ニュース社)がそういう力学を指摘しています。製紙法は二世紀の中国で
生まれ、750年ごろにアラブ世界に、950年頃にスペインに伝わり、12世紀以
降、次第にヨーロッパ各地で使われるようになります。ところが、ヨーロッパは
なかなか自前で紙を作ろうとはしないのですね。紙は輸入だけなのです。活版印
刷が登場する前のヨーロッパの状況では、写本が少部数作られるだけで、羊皮紙
があればそれで十分間に合っていたのだといいます。そして状況が変わるのも、
活版印刷が発明されたからではなくて、書物を読む人の数が増え、従来の少部数
の写本では間に合わなくなってくるからだ、と著者は喝破します。製紙法と活版
印刷は、人々の需要に応えて普及したのだということです。需要こそが技術の発
明を、そして普及を促すのだ、とうわけです。

とはいえ、発明の普及を真に突き動かすのは、やはりなんらかのインパクトを
もった不測の事態なのではないかという気がします。そうした側面はあまり正面
きって論じられおらず、文献的に立証しなければならない点ですが、磁気コンパ
スの普及の動因にはおそらく数多くの海難事故があったことでしょうし、紙や活
版印刷の普及にも、おそらくは貴重な文献の消失・散逸などが多数付随していた
だろうと想像できます。発明は決定的に問題への後追いでしかないのかもしれま
せん。それでも、悲劇が繰り返されるのを防ぐという意味で有効ではあるのです
が……。その一方で、現代社会で求められているのはむしろ「予防」というキー
ワードです。これは「予防のための戦争」といった形で安易にイデオロギー化さ
れてしまう危険もあるわけですが、今回の地震の被害などを見るにつけても、グ
ローバル化する社会・経済においては、技術の開発と普及が果たして問題への後
追いのままでよいのかという問題が突きつけられているようにも思われます。当
然それは、人為的発明に後追いである以外の可能性があるのか、あるとすればど
のような形でありえるのかといった、ある種の哲学的な問いにも繋がっていきま
す。とするならば、そういう問題を考えるヒントを探すためにも、歴史的事象は
ますます大きな探求の場になっていきそうです。


------文献講読シリーズ-----------------------
ダンテ「帝政論」その13

前回の12章8節まででは、「おのれのためにだけある」という意味での自由こそ
が、人間の本来の姿なのだと論じていました。今回はその続きです。次いで13
章にも少し入りますが、統治に最も適する者とはどのような者かが考察されてい
きます。

               # # # # # #
9. Genus humanum solum imperante Monarcha sui et non alterius gratia
est: tunc enim solum politie diriguntur oblique—democratie scilicet,
oligarchie atque tyrampnides—que in servitutem cogunt genus humanum,
ut patet discurrenti per omnes, et politizant reges, aristocratici quos
optimates vocant, et populi libertatis zelatores; quia cum Monarcha
maxime diligat homines, ut iam tactum est, vult omnes homines bonos fieri:
quod esse non potest apud oblique politizantes.
10. Unde Phylosophus in suis Politicis ait quod in politia obliqua bonus homo
est malus civis, in recta vero bonus homo et civis bonus convertuntur. Et
huiusmodi politie recte libertatem intendunt, scilicet ut homines propter se
sint.

9. 人類は君主の統治下にある場合にのみ、他者のためではなく、おのれのため
に存在するようになる。だが実際には、その際に不正な政体−−民主制、寡頭
制、専制など−−ばかりが整えられ、いずれの検討からも明らかなように、人類
は隷属を強いられてしまう。そしてその政体を治めるのは、王や貴族など「特権
階級」と称される人々の場合もあれば、あるいは民衆の自由を擁護する者の場合
もある。というのは、すでに述べたように、君主が人々を最大限に愛する場合、
その者は人々すべてが幸福であってほしいと願うものだからだ。だがそれは、不
正な政体において不可能なのである。
10. ゆえに哲学者(アリストテレス)は、自著『政治学』において、不正な政体
における善き者とは悪しき市民のことであり、真に正しき政体においては、善き
者は善き市民になると述べているのだ。そのような正しき政体は自由を志す。人
間がおのれのために存在するように、だ。

11. Non enim cives propter consules nec gens propter regem, sed e
converso consules propter cives et rex propter gentem; quia
quemadmodum non politia ad leges, quinymo leges ad politiam ponuntur,
sic secundum legem viventes non ad legislatorem ordinantur, sed magis ille
ad hos, ut etiam Phylosopho placet in hiis que de presenti materia nobis ab
eo relicta sunt.
12. Hinc etiam patet quod, quamvis consul sive rex respectu vie sint domini
aliorum, respectu autem termini aliorum ministri sunt, et maxime
Monarcha, qui minister omnium proculdubio habendus est. Hinc etiam iam
innotescere potest quod Monarcha necessitatur a fine sibi prefixo in legibus
ponendis.
13. Ergo genus humanum sub Monarcha existens optime se habet; ex quo
sequitur quod ad bene esse mundi Monarchiam necesse est esse.

11. 市民は執政官のために存在するのではないし、人々は王のために存在するの
でもない。そうではなく、逆に執政官が市民のために存在し、王が人々のために
存在するのである。いかなる形であれ政体が法に即して確立されるのではなく、
むしろ法が政体に即して確立されるのと同様に、法に則って暮らす人々が立法者
に対して秩序づけられるのではなく、立法者の方が人々に対して秩序づけられる
のである。ちょうど哲学者が、目下の問題について、私たちに残した著書で示し
ているように。
12. 以上のことから明らかなように、執政官や王は方法の観点からは他の人々を
支配するが、目的の観点からすれば他の人々に仕えるのである。そして最高位の
君主は、明らかにあらゆる者の従者でなくてはならないのだ。それゆえ、君主は
立法者としてみずから定める目的により必要とされることが認められるのであ
る。
13. したがって、君主の下で暮らす人類は、最良の生活を手にするのである。ゆ
えに、世界が善くあるためには君主制が必要であることが導かれる。

XIII. 1. Adhuc, ille qui potest esse optime dispositus ad regendum, optime
alios disponere potest: nam in omni actione principaliter intenditur ab
agente, sive necessitate nature sive volontarie agat, propriam
similitudinem explicare.
2. Unde fit quod omne agens, in quantum huiusmodi, delectatur; quia, cum
omne quod est appetat suum esse, ac in agendo agentis esse quodammodo
amplietur, sequitur de necessitate delectatio, quia delectatio rei desiderate
semper annexa est.
3. Nichil igitur agit nisi tale existens quale patiens fieri debet; propter quod
Phylosophus in hiis que De simpliciter ente: "Omne" inquit "quod reducitur
de potentia in actum, reducitur per tale existens actu"; quod si aliter aliquid
agere conetur, frustra conatur.

13章
1. さらに、統治に最も適する者は、他の人々を最もよく秩序づけることができ
る人物である。というのも、あらゆる行為において、行為者の主要な意図は、そ
れが自然の摂理によるものであれ意思によるものであれ、おのれの類似性を広め
ることにあるからだ。
2. ゆえに、あらゆる行為者はなにがしかの喜びを抱くのだ。存在するすべての
ものはみずからの存在を求め、行為を行う際には、その行為によって、なんらか
の形で存在が拡大するようにするのであり、そこから必然的に喜びが生ずるから
である。というのも喜びは、求める対象に必ずや付随しているからだ。
3. したがって、行為者は辛抱強くあらねばならず、そのような形で存在する以
外、いかなるものも行為をなしえない。これについて哲学者は、「単に存在する
ものについて」においてこう述べている。「可能態から現実態へと移るすべての
ものは、そのように現実態として存在するものによって移るのである」。なぜな
ら、仮に別の形での行為を試みようとも、それは無駄な試みだからだ。
               # # # # # #

10節で言及されている『政治学』の該当箇所は、仏訳本の注釈によれば3巻
1276 b30となっています。船を救うのが船乗り全員の務めであるのと同様に、
政体を守るのは市民の務めであるとした部分に続く箇所、「ゆえに政体は市民に
とって必然的に優れたものとなるのである」という一節です(ちょっと微妙にず
れている感じもしますが)。11節での言及は同書の4巻1289a13〜15の「市民
のために法を置くべきであり、法のために市民を置くべきではないからだ」とい
う箇所です。13章の3節に出てくるのは、やはりアリストテレスの『形而上学』
9巻8章、1049b24の「存在するものは常に、現実態として存在するものによっ
て、存在するものの可能態から現実態へと至るのだからだ」という箇所です。

ここではpolitia obliquaを不正な政体と訳出しましたが、代議制的なものがそう
いう政体として挙げられているのが面白いですね。ダンテはあくまで賢人による
一極支配を唱えています。民の幸福という意味での真の民意を反映するには、そ
ういう民の幸福にひたすら尽くす単一の賢者による統治が必要だという趣旨から
すれば、より個別的な思惑を抱く代表者たちの協議に基づく体制や、民の幸福を
顧みない独裁体制はとうてい正しい政体とは言えないことになります。この「賢
人による」というところが、いわばダンテの論の要の部分ですね。とはいえ、民
の幸福を重んじる賢者という存在は、あくまで論理的に導かれる理想として描か
れているにすぎないように見えます。実際には欲望がその理想を阻む障壁となっ
ている、と前回のところでダンテは論じていました。

フランスの高名な中世思想史家エチエンヌ・ジルソンの『ダンテとベアトリー
チェ』("Dante et Beatrice", Vrin, 1974)は、ダンテの『帝政論』を、思索
の確かさと表現の簡潔さの点で、中世において他に類するもののない、個人のオ
リジナルな哲学的思想の成果であると高く評価しています。ジルソンによれば、
若い頃のダンテは、死せるベアトリーチェを讃えるに相応しい言葉を探して哲学
を学び始め、あたかも哲学が第二のベアトリーチェであるかのようにのめり込ん
でいき、その探求の一端がこの『帝政論』に結実しているのだといいます。ジル
ソンは『帝政論』全体を、教会と国家との関係をめぐる哲学・神学的論考として
捉えています。私たちが読んでいる第1巻は君主制の擁護論に始終しています
が、これまで読んだ部分からだけでも、理想としての君主は、いわば神にも近し
い人物ということになりそうです。そうなると当然、教会との関係も重要なファ
クターになってきます。少しそのあたりのダンテの考え方も視野に収めておきた
い気がします。この第1巻も残すところあと数章ですが、次回以降、2〜3巻で展
開されるそのあたりの内容も簡潔にまとめておこうかと思います。とりあえず、
次回は13章の残りを読んでいきましょう。お楽しみに。

投稿者 Masaki : 2005年01月12日 13:41