2005年02月09日

No.50

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.50 2005/02/05
本メルマガはおかげさまで50号となりました。読者の皆さまには厚くお礼申し
上げます。今後ともご愛顧のほど、よろしくお願いいたします。

------クロスオーバー-------------------------
政治と宗教

先月末にイラクで行われた初の議会選挙。まだ開票は途中のようですが、事前の
予想どおりシーア派の連合会派が多数派になる見通しと伝えられています。そこ
で問われているのは、西欧型の民主主義が、イスラムの風土に根ざしている政教
一体的環境の中にどう根付いていくことができるのか、という問題ですね。どう
あがいても票数を取れないスンニ派政党の側は、選挙の正当性を疑問視する声明
を出したりしたようですが、考えてみるとこれは数だけの問題ではありません。
一方の宗派に属する人が他方の宗派に属する候補者ないし政党を支持できる、と
いう可能性がないのであれば、組織票による出来レースと変わらないことになっ
てしまいます。それでは選挙をしたところで、政権を担う党派を選ぶというより
も、宗派的結束の表明でしかなくなります。スンニ派、シーア派というのは教義
の根幹に関わる違いなのだと言われますから、一方から他方へと鞍替えするな
ど、そう簡単にはいかないでしょう。たとえすぐにイランのような政体になるわ
けではないとしても、政治と宗教がどこか未分化であり続ける状況は、そう簡単
には覆らないのではないかと思われます。

というのも、翻って西欧を見れば、その特殊性(こう言ってよければですが)を
なす政教分離は、実に長い時間をかけて培われていったものだからです。かつて
のローマ帝国の遺産ともいうべき統治形態と、いわば国家宗教となったキリスト
教との緊張関係は、11世紀に対立として表面化する聖職者叙任権闘争のはるか
以前から見られるものです。そうした緊張関係の一端は、例えば、フランスの歴
史家マルク・ブロックの『奇跡をなす王たち("Les rois thaumaturges")』
(邦題:『王の奇跡−−王権の超自然的性格に関する研究』、井上泰男・渡辺昌
美訳、刀水書房)などで窺うことができます。「王には瘰癧の治癒能力がある」
という古くからの伝承が(それは政教一体だった古代からの名残です)、特にカ
ペー朝以降、国王の威信を高めるための戦略として再利用され練り上げられてい
きます。その過程を丹念に追った古典的名著が同書です。国王のそうした戦略に
対して、教会側も当然黙ってはいません。最初は迷信として一蹴するものの、や
がてそうした「霊力」が王の戴冠式での塗油によって、教会を通じて与えられる
のだというスタンスに変わっていきます。それにより教会もまたみずからの威信
を誇示しようとするわけですね。すると今度は王家の側が、そうした奇跡は教会
による塗油によるものではない、それより以前に血筋として与えられているもの
なのだ、といった主張を展開するようになり、こうして徐々に世俗の権力と教会
との溝は深まり、距離も大きくなっていくのです。国王の側はやがて、その威信
を高めるための戦略として、宮廷スペクタクルのような別の装置を用意していき
ます。

後にヨーロッパは宗教改革とそれに続く戦争という嵐を経験しますが、そこで見
られたのは、宗派間の対立が国家規模の紛争にいたるという事例でした。その際
に、宗派の対立を抑え込むことができるとして威信をさらに高めたのが国家権力
の側だったのです。当時の宗教界に対する優位性を、世俗の権力はみずからに明
確に刻印したのです。アンリ4世によるナントの勅令は、宗教的な混乱を一時的
にせよ世俗の権力が鎮めたという意味で、重要なものでしょう。そこから先は権
力の威信はますます高まり、絶対王政の時代を迎えます。そしてさらに後、市民
革命を経て、国家の宗教的な中立という概念が確立されるのでした。このよう
に、近世以降の西欧の歴史は国家が宗教を抑え込む形で展開してきたわけです
が、その出発点、あるいは底流には、世俗権力と教会との対立関係・緊張関係が
見て取れるのですね。では、そのような内部的な関係性が不在である場合に、宗
派の対立はどう抑え込むことができるのでしょうか?イラクに見られるように、
まったく異質な外部の国家が、圧倒的な軍事力を持ち込んで決着を付けることが
果たしてできるでしょうか?私たちが目の当たりにしているのは、その意味で一
つの壮大な歴史的実験なのかもしれません(もちろん、他国に介入してそういう
実験をしてよいのかどうか、というのはまた別問題ですが……)。


------中世の古典語探訪「ラテン語編」------
第1回

前号で簡単に予告しましたが、中世ラテン語をめぐるトピックスをまとめていく
連載を始めたいと思います。フランスで出ている中世ラテン語の教科書
("Apprendre le latin medieval", Picard, 1996)を参考に、補足や雑談を加え
つつ、文法事項を中心に復習・整理をしていきたい、というのが基本的な趣旨で
すが、時には大きく脱線するかもしれません(笑)。第1回ということで、今回
はラテン語の歴史的変遷に少しだけ触れておきましょう。

「中世ラテン語」と一般に言われるものには、5世紀頃から15世紀頃までの約千
年のスパンがあります。それだけ長い期間ですから、当然時代や地域で様々な違
いが生じていますが、それでも巨視的に見ると、きわめて強靭な一体性を保って
いるように見えます。それは古典ラテン語を模範としているためでしょう。もち
ろん古典ラテン語も、紀元前3世紀のプラウトゥスのラテン語と、後1世紀のプ
リニウスのラテン語には大きな違いがあるといわれます。中世においてもっぱら
模範とされた作家には、例えば前1世紀のキケロがあり、その思想内容もキケロ
主義という形で取り込まれていきました。

古代末期の4世紀以降には、キリスト教世界に特有の語彙などが次々とラテン語
の中に形成されていきます。話し言葉として俗ラテンと称される民衆語が生じ、
各国語に分化していくのもその頃とされます。メロヴィング朝の頃になると、そ
うした俗ラテンの影響を受けて、かなりばらつきのある言葉になっていたような
のですが、シャルルマーニュ時代のいわゆるカロリンガ・ルネサンスにおいて、
古典語を模範としてラテン語の再整備・再規範化が行われます。以後、もはやど
の国の母語でもなくなったラテン語は、「学僧たちエリートの父語」として、公
式の文書語としてのみ、とはいえそうした知識階級の層では盛んに使われる言語
として、後世に伝えられていくのでした。13世紀のスコラ哲学のラテン語など
を見ると、かなり独特な語彙も入ってきていますが、それはまさに、時代の思考
様式に相応しい言語に練り上げられたものと見てよいと思います。

ラテン語を学ぶという場合、多くの人は古典語から入るのが普通だと思います
が、中世のラテン語にはまた独特の味わいや晦渋さがあります。古典語を専門と
する人は、古代末期や中世のラテン語にはあまり興味がなかったりするようです
が、逆に中世を扱うとなれば、影響関係を調べる過程でどうしても古典語の文献
にも目を通さなければなりません。そんなわけで、古典語も重要であることは間
違いありません。その意味では、古典語から入って中世語へ、という流れはそれ
ほど不自然ではないでしょう。けれども逆の、中世語から入って古典語へ、とい
う形も考えられないわけではないと思われます。ま、残念ながらそういう教科書
はほとんどないのですけれどもね……。理想的には、古典語も中世語も視野に入
れて、広義のラテン文学として鑑賞していけるなら、それに越したことはありま
せん。


------文献講読シリーズ-----------------------
ダンテ「帝政論」その15

今回は14章の途中までを見ていきます。

               # # # # # #
XIV. 1. Et quod potest fieri per unum, melius est per unum fieri quam per
plura. Quod sic declaratur: sit unum, per quod aliquid fieri potest, A, et sint
plura, per que similiter illud fieri potest, A et B; si ergo illud idem quod fit per
A et B potest fieri per A tantum, frustra ibi assummitur B, quia ex ipsius
assumptione nichil sequitur, cum prius illud idem fiebat per A solum.
2. Et cum omnis talis assumptio sit otiosa sive superflua, et omne
superfluum Deo et nature displiceat, et omne quod Deo et nature displicet
sit malum, ut manifestum est de se, sequitur non solum melius esse fieri per
unum, si fieri potest, quam fieri per plura, sed quod fieri per unum est
bonum, per plura simpliciter malum.

第14章
1. 一人がなしうることなら、複数で行うよりも一人で行う方がよい。このこと
は次のように示される。ある者Aが任意のことをなすことができるとし、また、
複数の者AとBでも、同じことができるとすると、もしAとBで行える同じことを
Aによってもなしうるのであれば、Bが加わる意味はないことになる。なぜな
ら、同じことが先にAだけでなされたら、別の者が加わったところで結果には何
も生じないからだ。
2. そうしたいっさいの付加が無為または過剰となる場合、あらゆる過剰は神や
自然の不興を買う。おのずと明らかであるように、神や自然の不興を買うものは
すべからく悪なのであるから、一人で行えるならそうする方が複数で行うよりよ
いばかりか、一人で行うのは善く、複数で行うのは単純に悪しきこととなる。

3. Preterea, res dicitur melior per esse propinquior optime; et finis habet
rationem optimi; sed fieri per unum est propinquius fini: ergo est melius. Et
quod sit propinquius patet sic: sit finis C; fieri per unum A; per plura A et B:
manifestum est quod longior est via ab A per B in C, quam ab A tantum in C.

4. Sed humanum genus potest regi per unum suppremum principem, qui est
Monarcha. Propter quod advertendum sane quod cum dicitur 'humanum
genus potest regi per unum suppremum principem', non sic intelligendum
est, ut minima iudicia cuiuscunque municipii ab illo uno immediate prodire
possint: cum etiam leges municipales quandoque deficiant et opus habeant
directivo, ut patet per Phylosophum in quinto ad Nicomacum epyikiam
commendantem.

3. さらに、事物は最良に近いほどいっそうすぐれていると言われる。そして最
良の状態となるのは目的に達する場合である。ところで一人で事をなす方が目的
には近くなるのであり、したがってその方がよりよいことになる。その方が目的
に近いことは次の点からも明らかだ。目的をCとし、Aが一人でなすか、あるい
はAとBの複数でなすとする。するとAからBを経てCに至る方が、AからCにいた
るより明らかに行程は長くなる。
4. ところで人類は、最上の単一の指導者、すなわち君主によって統治されう
る。この場合、次のことに注意が必要だ。「人類は最上の単一の指導者によって
統治されうる」と言う場合、それを、任意の市民の最少の正義がすぐさま前面に
出るというふうに理解してはならない。さらに、市民の法にも時に不備があり、
修正が必要になったりする。『ニコマコス倫理学』5巻で哲学者が公平さを求め
ているように。

5. Habent nanque nationes, regna et civitates intra se proprietates, quas
legibus differentibus regulari oportet: est enim lex regula directiva vite.
6. Aliter quippe regulari oportet Scithas qui, extra septimum clima viventes
et magnam dierum et noctium inequalitatem patientes, intolerabili quasi
algore frigoris premuntur, et aliter Garamantes qui, sub equinoctiali
habitantes et coequatam semper lucem diurnam noctis tenebris habentes,
ob estus acris nimietatem vestimentis operiri non possunt.
7. Sed sic intelligendum est: ut humanum genus secundum sua comunia,
que omnibus competunt, ab eo regatur et comuni regula gubernetur ad
pacem. Quam quidem regulam sive legem particulares principes ab eo
recipere debent, tanquam intellectus practicus ad conclusionem
operativam recipit maiorem propositionem ab intellectu speculativo, et sub
illa particularem, que proprie sua est, assummit et particulariter ad
operationem concludit.

5. 民族、王国、都市によって特徴が異なるのだから、異なる法によって統制す
ることが必要になる。すなわち、法は生活を導く規則なのである。
6. スキタイ人の統治は別様になされなくてはならない。彼らは七番目の気候の
外で暮らし、昼と夜との著しい不均衡を被っており、氷のような寒さに耐えてい
る。ガラマンテス人も別様に統治されなくてはならない。彼らは昼夜が等しい場
所に住み、昼の光と夜の闇を常に等しく被っているが、灼熱のため衣服を用いる
ことができないのだ。
7. だが、次のように理解すべきなのだ。人類は、誰もがもつ共通部分に従い、
君主により統治されて、共同体の規則に則り平和に生きることができるのであ
る。諸侯はその規則ないし法を、君主より受けなくてはならない。実践的知性
が、理念的知性からよりよい提言を受けて、遂行にいたるように、また、おのれ
に固有の特殊性のもとでそれを担い、個別の実践をもたらすように。
               # # # # # #

4節で言及されている『ニコマコス倫理学』の箇所は、5巻10章(1137b20)
です。6節に出てくるスキタイ人は、黒海から北の草原に住んでいた遊牧民です
ね。「七番目の気候」とありますが、これは今のところ出典がはっきりしませ
ん。例えばコンシュのギヨーム(およびその出典もとであるマクロビウス)など
では、気候区分は6層となっているのですが……。もう少し調べる必要がありそ
うです。また、ガラマンテス人というのは、もとはヘロドトスの『歴史』に登場
する遊牧系のベルベル人で、現在のトゥアレグ族の祖先とのことです。

今回の箇所で興味深いのは、全体的な秩序を保持するのは一者でも、末端では
個々の特徴に合わせた微調整が必要だとしているところでしょうか。個々の多様
性は尊重するという姿勢が見られるわけですが、おそらくダンテは、その亡命生
活の中で、他の場所に対するフィレンツェの特殊性というものをいやというほど
感じ取ったのでしょう。多様なものが互いの差異もそのままに共存できるには、
それらをすべて包摂する超越的な秩序保持者が必要だ、という考え方は、ローマ
帝国的な統治が念頭に置かれていることは確かですが、組織論的にも面白い部分
です。

話を大きく脱線させてしまうと、コンピュータの世界には、フリーのソフトウエ
アを作ろうという自発的運動としてオープンソースムーブメントがありますが、
もともとはボランティアがゆるい連携を形作ってソフトウエアを共同開発してい
くというボトムアップ的な活動だったそれが、最近はどうやら、組織としてトッ
プダウン型に移行しつつあるようです。プロジェクトの規模が大きくなり、裾野
が広がっていくと、製品のクオリティの面などでも制約が生じ、無秩序化を克服
するためにはトップダウン的な統制が必要になってくる、ということのようです
が、それがあまりに硬直化してくると、従来の企業型の開発方式とそれほど違わ
ないことになって、全体として失速してしまう恐れもあります。そのあたりのバ
ランスをどう取るかというのは、やはり難しい問題になっていくのではないで
しょうか。ローマ帝国の統治は現実として、やがて崩壊への道を辿っていきまし
たが、ダンテはこのあたりをどう見ているのでしょうね?このあたりの話は第二
巻の主題にも関係しますので、次回、その部分をまとめてご紹介しましょう。も
ちろん上の14章の残りも読み進めていきたいと思います。

投稿者 Masaki : 2005年02月09日 18:22