2005年03月14日

No.52

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.52 2005/03/05

------新刊情報-------------------------
欧州はこの冬、厳しい寒波に見舞われているようです。全体としては暖冬だった
日本も、3月だというのに各地で雪になっています。東京も昨日はいきなりの雪
でした。早く暖かくなってほしいと思います……。とりあえず、新刊情報です。

○『アレクサンドロス大王の歌−−中世ラテン叙事詩』
ガルテールス・デ・カステリオーネ著、瀬谷幸男訳、南雲フェニックス
ISBN:4-88896-347-9、4095yen

ガルテールス・デ・カステリオーネというのは、仏語名ならシャティヨンのゴー
ティエです。12世紀を代表する詩人で、とりわけ有名なのがこの『アレクサン
ドロス大王の歌』(1175年頃)です。200を越える写本があるのだそうです
が、抜粋などはさらに膨大な数になるようです。13世紀からは各国訳も出ると
いうほどの人気ぶりで、まさに中世のベストセラーだったのですね。なんとこ
れ、原典からの翻訳としては本邦初訳とか。素晴らしいですね。

トマス・アクィナス関連の書籍がいくつか出ています。

○『トマス・アクィナスにおける「愛」と「正義」』
桑原直己著、知泉書館
ISBN:4-901654-48-9、8400yen

○『トマス・アクィナスの人間論』
佐々木亘著、知泉書館
ISBN:4-901654-46-2、5040yen

○『神学大全−−第43冊第3部73-78』
トマス・アクィナス著、稲垣良典訳、創文社
ISBN:4-423-39343-3、5460yen

トマス・アクィナスの研究書はいろいろ出ていますが、やはりテーマ批評的なア
プローチが目立ちます。上の二冊、表題からすればそういう研究に連なるもので
しょう。個人的にはむしろトマスのアリストテレス注解などに関心があるのです
が、そういうモノグラフィーとなると日本語での論考はほとんど見当たりませ
ん。うーん、結構面白そうだと思うのですが……。長大な『神学大全』の訳出作
業も継続されているようで、喜ばしい限りです。注解書などの翻訳もあればよい
のにと思ってしまいます(笑)。


------中世の古典語探訪「ラテン語編」------
第3回 -- 発音について(2) +辞書の話

欧米語で重要なのは、実は個々の単語の音よりも、アクセントやイントネーショ
ンだったりします。日本人の英語が棒読みにしか聞こえないのは、一つにはそう
いうプロソディの部分を軽視しているからでしょう。ラテン語の場合、プロソ
ディも含め音声としては復元するしかないわけですが、だからといって適当に棒
読みしていてよいとも思えません(大学の授業などでは、時にそういう棒読みが
まかり通っていたりしましたが……)。ではどうすればよいでしょうか。これは
なかなか難しいところですね。一般的な傾向として、各国で教えられるラテン語
はその国の母語に引きずられる傾向があるようです。フランスのアシミル社の
テープ教材などは、どこかフランスっぽい抑揚ですし、前回も触れたラジオブ
レーメンのラテン語はドイツ語っぽさが残ります。

それはまあ、致し方ないところですね。古典ラテン語のアクセントは高低アクセ
ントで、2音節語なら第1音節に置かれ、3音節以上では後ろから2番目の音節が
長ければそこに置かれ、後ろから2番目の音節が短ければその1つ前(後ろから3
番目の音節)に置かれていました。音節が長いというのは、長母音、二重母音、
短母音+子音2個のいずれかを含む音節です。中世ラテン語になると、音節の長
短は区別がなくなり、アクセントも高低ではなく強弱のアクセントになります。
とはいえアクセントの置かれる位置は同じですから、やはり古典ラテン語は基礎
になります。そのあたりを一応押さえておいて、その上で現在のラテン系の言語
(別にイタリア語に限りませんが)あたりを参考にして抑揚をつけてみる、とい
うのが、中世ラテン語を読む際の近似的な発声法としては割によいのではないか
と思います。

さて、文法の話に入る前にもう一つ、中世ラテン語を読むための辞書を紹介して
おきましょう。古典用の一般辞書はもちろん必要ですが(羅英ならなんといって
も最高峰はOxford Latin Dictionaryですが、そこまで行かなくても、むしろ手頃
でよいのはLewisのAn Elementary Latin Dictionaryだったりします。羅仏な
ら、定番はLe Grand Gaffiotですが、ポケットサイズのLe Gaffiot de Pocheも
あります)、それに加えて中世の専門辞書が必要になります。網羅的なものは
NiermeyerのMediae Latinitatis Lexicon Minus(Brill)でしょうか。改訂で2巻
本となった大型の辞書で、英仏独の訳語がついています。語形変化にも目配せし
ています。とはいえ手軽で結構重宝なのは、ポケットサイズの羅独辞書
Mittellateinisches Glossar(Schoningh)です。とにかく辞書は基本ツールです
から、いろいろなものに当たれるに越したことはありません。羅伊・羅西の辞書
は不覚ながら知らないのですが、ちょっと調べてみたいです。

(このコーナーは"Apprendre le latin medieval", Picard, 1996-99をベースに
しています)


------文献講読シリーズ-----------------------
ダンテ「帝政論」その17

いよいよこの『帝政論』第1巻も大詰めです。15章の続きを見てみます。

               # # # # # #
3. Hinc videri potest quod peccare nichil est aliud quam progredi ab uno
spreto ad multa; quod quidem Psalmista videbat dicens: "A fructu frumenti,
vini et olei multiplicati sunt".
4. Constat igitur quod omne quod est bonum per hoc est bonum: quod in
uno consistit. Et cum concordia, in quantum huiusmodi, sit quoddam
bonum, manifestum est ipsam consistere in aliquo uno tanquam in propria
radice.

3. ここから、罪を犯すとは「一」を蔑み「多」に向かうことにほかならないこ
とがわかる。詩篇作者もそのことを取り上げ、こう述べている。「穀物、ワイ
ン、オリーブの恵みによって、多となった」。
4. このように、善であるすべてのことは、次のことによって善なのである。す
なわち、一をなすことによってだ。融合はそれ自体でなんらかの善をなしている
が、おのれに固有の根底部分として、なんらかの「一」に基づいているのは明ら
かだ。

5. Que quidem radix apparebit, si natura vel ratio concordie summatur: est
enim concordia uniformis motus plurium voluntatum; in qua quidem ratione
apparet unitatem voluntatum, que per uniformem motum datur intelligi,
concordie radicem esse vel ipsam concordiam.
6. Nam, sicut plures glebas diceremus 'concordes' propter condiscendere
omnes ad medium, et plures flammas propter coadscendere omnes ad
circunferentiam, si volontarie hoc facerent; ita homines plures 'concordes'
dicimus propter simul moveri secundum velle ad unum quod est formaliter
in suis voluntatibus, sicut qualitas una formaliter in glebis, scilicet gravitas,
et una in fiammis, scilicet levitas.

5. 自然、あるいは融合の道理を受け入れるなら、そうした根底部分が現れるだ
ろう。融合とは、多の意思が均一に動いていくことをいう。その際、意思の統一
−−「均一に動いていく」というのはそういう意味だが−−とは融合の根底、あ
るいは融合そのものであることが理解される。
6. 複数の土塊が中心に向かってなだれ込んだり、複数の炎が周囲に対して上
がったりする場合、それらが自ら進んでそうなっているならば、私たちはそれを
「融合」と言う。同じように、複数の人間が同時に、みずからの意思で、意図的
に抱いた一つの目標に向かって動く場合、私たちはそれを「融合」と言う。ちょ
うど土塊に一つの性質、つまり重さがあるように、また炎の場合には軽さがある
ように。

7. Nam virtus volitiva potentia quedam est, sed speties boni apprehensi
forma est eius: que quidem forma, quemadmodum et alie, una in se,
multiplicatur secundum multiplicationem materie recipientis, ut anima et
numerus et alie forme compositioni contingentes.
8. Hiis premissis propter declarationem assummende propositionis ad
propositum, sic arguatur: omnis concordia dependet ab unitate que est in
voluntatibus; genus humanum optime se habens est quedam concordia;
nam, sicut unus homo optime se habens et quantum ad animam et quantum
ad corpus est concordia quedam, et similiter domus, civitas et regnum, sic
totum genus humanum; ergo genus humanum optime se habens ab unitate
que est in voluntatibus dependet.

7. 意思の力はある種の可能態だが、掌握される善の特性は形相をなしている。
その形相は他のものと同様に、それ自体としては「一」であり、その形相を受け
取る質料の多様性によって多様化する。魂や数もそうだし、混成物へと至るその
他の形相もそうである。
8. これらの前提を、提言を示すために採用するならば、次のように論じられよ
う。すなわち、あらゆる融合は意思に見られる一体性に依存するのであり、人類
が最善であるのは、なんらかの融合を見る場合なのだ。なぜなら、一人の人間が
最善の状態にあるのは、魂と肉体とがなんらかの融合を見る時であり、家、都
市、王国でもそれは同様であり、人類全体でもそうだからだ。したがって、人類
が最善であるかどうかは、意思における一体性に依存する。
               # # # # # #

3節の詩篇の言及箇所は、4番「平安」の8行目のようです。今回の箇所は「融合
(concordia)」がキーワードですね。融合と訳出しましたが、歩を一にすると
いうような意味です。ここでは質料形相論なども絡んできています。形相が
「一」で質料が「多」の要因をなすという考え方は、当時の質料形相論の特徴で
もある、質料の重視という方向性にも合致しそうです。ほぼ同時代のドゥンス・
スコトゥスなどは、質料は単純に形相を受け入れるだけなく、形相を破棄したり
もできることから、ある種の能動的な可能態を質料に対して考えているほどで
す。形相と質料の区別に微妙な揺らぎが導入されるという興味深い事態もそこか
ら導かれていくわけですが、今はちょっと深入りできませんのでまた別の機会に
(笑)。ダンテにおける質料形相論なども細かく検証したら面白いかもしれませ
ん。

さて、前回は2巻の内容をざっと見ましたので、今回は3巻の内容にも触れてお
きましょう。2巻では、ローマの建国が神の意に適ったものだったという議論を
展開していました。これを受けて3巻では、いよいよ君主と教皇の関係が問われ
ます。まずダンテは、教会権力と世俗権力との対立関係が神の望むところではな
い、というところから説き始めます。当時のフィレンツェの内戦が教皇派と反教
皇派の戦いであったことを明らかに反映していると思われます。ダンテは、教会
が唯一の権威として振る舞うことを皮肉たっぷりに否定します。「教会の伝統は
教会の後からできたもので、伝統によって教会の権威が与えられたのではない、
教会によって伝統に権威が与えられたのだ」。こうして伝統主義を斥けたダンテ
は、王権の権威は教会によって与えられるという考えの是非を、聖書にまで遡っ
て検討し直します。『創世記』冒頭の昼夜分割のくだりについて神秘主義的な解
釈、つまり教会権力と世俗権力とを太陽と月になぞらえる解釈の誤謬を指摘し
(二重の政体はそもそも人間の偶発的な産物であり、また、創造の4日目には人
間そのものが創られていない)、前者が後者の権威の根拠なのではなく、後者は
前者と相まって、天の意向にいっそう添った統治をなしえるのだと、一種の共存
関係を示唆します。

両剣論についても、ダンテはその論のもととなった『ルカ書』22章38の前後を
再検討しています。キリストが弟子の一人一人に「剣のない者は買っておけ」と
言ったのは明らかだとし(ということは、本来剣は12本必要なのです)、ま
た、2本の剣を前に「それでよい」とキリストが語った点についても、『マタイ
書』10章34の「私は剣を投げ込むために来た」を引いて、弟子たちの剣はむし
ろ言葉と行為によってキリストの意思を継ぐことなのだとの解釈を示してみせま
す。コンスタンティヌスの寄進についても、それが一方の他方への従属関係を担
保するものではないとしています。細かな議論は省きますが、このように、教会
と帝国はそれぞれに異なる権威をもち、それぞれの関係性をもった別個の存在な
のだ、というのがダンテの基本的な立場です。前者の権威は後者の権威の根拠に
はなっておらず(教会が存在する以前からローマ帝国は存在していた)、権力付
与はそもそも教会本来の性質(教会とはキリストの言葉や行為を体現する形相的
なもの)に反する、とまで述べています。

全体として、そうした伝統主義的・神秘主義的解釈を斥ける点にダンテの新しさ
があるように思われます。教会自体を否定するのではなく、それに付随する、時
に非常に人間臭い部分を斥けようとするのは、一種宗教改革の先駆け的な視点を
なしていると言えるかもしれません。いずれにしても、教会と王権の関係につい
てのダンテのこうした解釈は、双方が対立する構図を解消しようという試みのよ
うに思われます。「そのために、二つの目的に向けて二つの導きが必要になるの
だ。教皇は人類を永遠の生に導くため、皇帝は人類を地上での幸福に導くため
だ」、ダンテの教会論も面白いテーマになりそうな気がします。それをダンテ自
身の著作の文脈に、さらには時代の文脈に置き直してみる作業は、そのうちぜひ
行ってみたいですね。

次回はいよいよ『帝政論第1巻』の最終回となります。どうぞお楽しみに。

投稿者 Masaki : 2005年03月14日 19:44