2005年03月25日

No.53

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.53 2005/03/19

*本号は都合により、短縮型の編成とさせていただきます。ご了承ください。

------中世の古典語探訪「ラテン語編」------
第4回 -- 名詞・形容詞の格変化(1)

今回の文法トピックスは格変化です。よく文法講座などで「格というのは日本語
のテニオハみたいなものだ」と説明されます。名詞が文においてどのような機能
(手段などを表す補語なのか、間接目的語なのか、直接目的語なのか、主語なの
か)を担っているかを示す際、日本語では助詞が名詞の後ろに付くことによって
それとわかりますが、ラテン語では名詞にいわば「融合した」形になる、という
ことです。もちろんこれはあくまで便宜上の比較の話ですが、理解としてはそれ
ほど悪くはないと思います。このテニオハのそれぞれに対応する格を、順に「奪
格(〜で)、与格(〜に)、体格(〜を)、主格(〜は)」といい、さらに「〜
の」(所属を表す「属格」)と「〜よ」(呼びかけを表す「呼格」)を加えて、
全部で6つの格があるわけですね。

日本語ならテニオハ+ノヨは助詞ですから、どの名詞についても形は一定です
が、ラテン語では名詞の種類によって、この格の形も変わってきます……という
わけで、初学者は格変化を覚えるのを面倒に思ってしまうわけですが、実はそう
いう面倒に思えるものこそ、慣れてしまうと実に便利なものであることが多いで
す。なにしろ名詞や形容詞の修飾関係はどの格かで歴然と判別できますし、目的
語なのか補語なのかとか、そういう機能もはっきりします。実はとっても便利な
ものを学習するのだ、ということを念頭に置いておくことが、覚えることを苦に
しないポイントだと思います。

というわけで、第一変化名詞といわれるものの復習です。主格・体格・属格・与
格・奪格の順番で見ると(呼格は省略)
単数:carta, cartam, cartae cartae carta
複数:cartae, cartas, cartarum, cartis, cartis
となるのでした。中世ラテンでは、cartaeはcarteとなったりします。同じ文献
内で表記が揺らいでいることもごく普通に見られます。写本や初期印刷本などで
は、cartamの末尾のmが省かれて、その前のaの上にチルダ記号が付けられたり
もします。これで省略を表しているのですね。ページにより多くの文字を詰め込
もうとして(あるいは筆写作業の簡略化のために)、そうした省略が多様されま
す。そういう表記も地方ごと、あるいは書物ごとに異なっていたりしますが、総
じて、慣れていけば問題にはなりません。

# # #

個人的にロムしている古仏語系のメーリングリストで、最近オンライン辞書の話
が出ていましたので、ここにも記しておきます。Lewis & ShortのA Latin
Dictionary(Oxford)は定評ある辞書でしたが、これが今やオンライン化され
ています。http://www.perseus.tufts.edu/cgi-bin/ptext?doc=
Perseus%3Atext%3A1999.04.0059をどうぞ。また、ローカル環境で使うラ
テン語辞書として、Latin WORDSという辞書も紹介されていました。語形変化
からも引けて、なかなか便利そうです。http://users.erols.com/whitaker/
words.htmから各種OS版がダウンロードできます。

(このコーナーは"Apprendre le latin medieval", Picard, 1996-99をベースに
しています)


------文献講読シリーズ-----------------------
ダンテ「帝政論」その18

約半年に渡って見てきたダンテの『帝政論』第1巻も今回でゴールです。では最
後のところを見ていきましょう。

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9. Sed hoc esse non potest nisi sit voluntas una, domina et regulatrix
omnium aliarum in unum, cum mortalium voluntates propter blandas
adolescentie delectationes indigeant directivo, ut in ultimis ad Nicomacum
docet Phylosophus. Nec ista una potest esse, nisi sit princeps unus omnium,
cuius voluntas domina et regulatrix aliarum omnium esse possit.
10. Quod si omnes consequentie superiores vere sunt, quod sunt, necesse
est ad optime se habere humanum genus esse in mundo Monarcham, et per
consequens Monarchiam ad bene esse mundi.

9. だが、一つの意思、他のすべてを一つとして支配し統制する意思がなけれ
ば、それは存在しえない。というのも、人間の意思は、若者の愛すべき喜びのた
めにも導きを必要とするからだ。哲学者(アリストテレス)が『ニコマコス倫理
学』の末尾で述べているように。すべての者に対する一人の長がいて、その者の
意思が他のすべてを支配し統治するというものである以外に、そのような一つの
意思はありえない。
10. 以上の結論がすべて正しいならば−−それらは正しいのだが−−、人類が最
も善くあるためには、世界には君主がいなればならず、結果的に、君主制は世界
が善くあるために必要となるのである。

XVI. 1. Rationibus omnibus supra positis experientia memorabilis attestatur:
status videlicet illius mortalium quem Dei Filius, in salutem hominis
hominem assumpturus, vel expectavit vel cum voluit ipse disposuit. Nam si
a lapsu primorum parentum, qui diverticulum fuit totius nostre deviationis,
dispositiones hominum et tempora recolamus, non inveniemus nisi sub divo
Augusto monarcha, existente Monarchia perfecta, mundum undique fuisse
quietum.
2. Et quod tunc humanum genus fuerit felix in pacis universalis tranquillitate
hoc ystoriographi omnes, hoc poete illustres, hoc etiam scriba
mansuetudinis Cristi testari dignatus est; et denique Paulus "plenitudinem
temporis" statum illum felicissimum appellavit. Vere tempus et temporalia
queque plena fuerunt, quia nullum nostre felicitatis ministerium ministro
vacavit.

16章
1. 上に示したいっさいの推論は、記憶にとどめるべき経験がこれを証明してい
る。すなわち、人間を救うため人間の条件を受け入れた神の子が、みずからの意
思によって望んだ、あるいは確立した、人類の置かれる状態である。私たちすべ
ての罪をもたらした最初の祖先の過ちから後、人類が置かれてきた状況や時の流
れを見渡すなら、神聖なるアウグストゥス帝政期以外に、完全な君主制が実現
し、世界が平和になった例しはないことがわかるだろう。
2. 当時、人類が恒久的な平和の静けさの中で幸福であったことは、あらゆる歴
史家、著名な詩人たち、そしてキリストの寛容を伝える書記までもが、証言に値
するとしている。またパウロも、人類のこの上なく幸福な状態を「満ちる時」と
呼んでいる。時と現世はまさに満ちていたのだ。というのも、私たちの幸福に仕
える者が必ずやいたからだ。

3. Qualiter autem se habuerit orbis ex quo tunica ista inconsutilis cupiditatis
ungue scissuram primitus passa est, et legere possumus et utinam non
videre.
4. O genus humanum, quantis procellis atque iacturis quantisque naufragiis
agitari te necesse est dum, bellua multorum capitum factum, in diversa
conaris !
5. Intellectu egrotas utroque, similiter et affectu: rationibus irrefragabilibus
intellectum superiorem non curas, nec experientie vultu inferiorem, sed nec
affectum dulcedine divine suasionis, cum per tubam Sancti Spiritus tibi
effletur: "Ecce quam bonum et quam iocundum, habitare fratres in unum".

3. だが世界が、縫い目のないトゥニカが欲望の爪で初めて割かれる状態となっ
てしまったことを、せめて見ずにすませたいと私たちは考えてしまう。
4. おお、人類よ。どれほどの嵐と災厄、どれほどの難破をおまえは被らなけれ
ばならないのだろう。一方で、いくつもの頭をもった獣となったおまえば、様々
なたくらみをなそうとするのだ。
5. 知性の両面も病をわずらっている。心と同時にだ。あなたは高い知性を確か
な推論で育むこともせず、低い知性を経験で育むこともしない。そればかりか、
心を神の甘き愛で育むこともない。聖霊が喇叭を鳴らしこうささやく時でさえ。
「みよ、兄弟たちが一つになって住まうことが、なんと善く楽しいことか」。
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15章9節の『ニコマコス倫理学』への言及は、10巻9章(1179b 31)の若者へ
の教育を説いた部分です。16章では、ダンテの理想とする帝政がアウグストゥ
ス帝(ローマ帝国の初代皇帝:前63年〜後14年)の治世であったことが示され
ています。パウロの有名な「満ちる時」(「十全なる時」)は、「ガラテヤ人へ
の手紙」4章4からのものです。ダンテはこの「満ちる時」を、人類の地上での
至福の時と解釈していますね。ここには、そうした至福の時がすでに失われてい
るという寂寞感すら漂っていますが、まさしくこれはキリスト教的な時間の反転
構造(メシアがすでに到来し去ったという過去が、未来への希望へと反転すると
いう構造)です。

現代思想方面でも、例えばジョルジョ・アガンベンなどが(『残される時間−−
「ローマ人への手紙」注釈』)、ヘブライ語のヴァヴという時制転換の接頭辞
(動詞の頭にこれがつくと、未完了形が完了形に、完了形が未完了形になりま
す)になぞらえて、メシアの到来(過去)と、それが開く別の時間(希望の時)
とを解釈しています。このあたり、いかにも西欧的な時間概念ですが、なかなか
興味深いですね。思うに、前にも述べたような、論理的考察であると同時に一種
の社会的プログラムでもあるような議論(マルクスなどもそうですし、このダン
テの論もやはりそういう二重性を有しています)は、そういう時間の反転構造を
取り込んでいます。一種の完了形ともいうべき「論理的に導かれる理想」を示す
ことによって、いわば未完了形である「社会が目指すべき目標」へと転換する、
というわけですね。とはいえ、問題はより複雑で、かくして「進むべき方向」に
歩みだそうとすると、今度はそれがどこかの時点で「それは理想でしかない」と
いう完了形に反転する事態も、生じてしまいかねません。一度ヴァヴで反転され
たものに、再度ヴァヴが付いて再反転するということです。宗教も含めた救済型
の社会的プログラムには、どこかそうした危うさがつきまとっていますが、キリ
スト教が配してきた様々な神学的議論や制度などは、そういう再度の反転の力学
と、それを阻止ないし先送りしようとする力との拮抗関係の結果であるような気
もします。キリスト教が思想伝達のモデルケースであるといった話(レジス・ド
ブレのメディオロジーなど)は、そういう時間の構造の議論もからめて再考する
必要があるかもしれませんね。

さて、『帝政論』第1巻は以上で終了です。ダンテについては語るべきことがま
だまだ数多く残っている気もしますが(イタリアでの研究動向なども追ってみた
かったのですが、ちょっと間に合いませんでした)、それはまた形を変えて追々
取り上げていきたいと思います。次回からは、このメルマガでは初となります
が、ギリシア語で、プロクロスの『神学提要』の最初の部分(例によってさわり
だけですけれど)を眺めてみたいと思います。前にも話が出ましたが、「一」か
ら「多」が出てくるというプロセスは中世における大問題になっていきました。
この問題は思想史的にぜひ取り上げてみたいところですが、まずはそういう作業
のための足がかりという意味で、新プラトン主義の基本を押さえておく必要があ
りそうです。そんなわけで、いったん中世そのものからは離れてしまう形になり
ますが、5世紀の思想家プロクロスを読み囓り、中世に引き継がれた思想をざっ
と振り返ってみたいと思います。どうぞお楽しみに。

投稿者 Masaki : 2005年03月25日 01:32