2005年05月05日

No.56

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.56 2005/04/30

自宅のネットワーク機器が突然不調になり、ひどく難儀した末にやっと復旧しま
した……本メルマガも発行予定日を過ぎそうな按配でしたが、どうにか間に合っ
てホッとしています。こういうことがあると、機械に頼った生活というものの微
妙な理不尽さを改めて想ったりもします……。

------クロスオーバー-------------------------
学業事情の今昔

このところ様々な形で教育問題がクローズアップされていますが、その危機的状
況を危ぶむ声の一つに、学業が就職に結びつかなくなって生徒や学生のモチベー
ションが下がっている、という議論があります。もちろん、学業の動機付けは就
職だけに帰されるものではありませんが(「学問する喜び」といった教育の自己
目的化も重要ですよね)、これだけ汎経済論的な世の中では、まずもって学業イ
コールよりよい就職、ひいてはよりよい暮らし、つまりはマネーという結びつき
が重要なモチベーションになるのも仕方のない話ではあります。この「世の中お
金がすべて」という汎経済論に匹敵する、「世の中信仰がすべて」という汎神論
的状況が、かつての西欧には確実にありました。現代人が「お金がなければ生き
ていけない」と思うのと同じような感覚で、中世人は「信仰がなければ生きてい
けない」と思っていたらしいのですが、してみると、そうした思いに下支えされ
る社会は、どこか現代社会とパラレルに見えてきたりもします。当時の学業事
情・就職事情も気になってくるところですね。

ジャック・ヴェルジェ『中世末期の学識者』(邦訳は野口洋二訳、創文社)によ
れば、14〜15世紀にかけての中世末期、学識層にとって純粋な知の喜びという
ものはそもそも存在せず、個人の成功は信仰にどれだけ帰依できるかにかかって
いました。学問はまずもって聖職のためのものでしたから、それを修めるという
ことは即聖職者として活動することを意味していました。とはいえ、13世紀か
ら登場した大学での神学の修得には、博士までいたるなら15年を要していたた
め、そこまでいたるのはごく限られた人のみで、多くの人々は教会組織や行政組
織の中枢から末端にまでいたる様々な水準の職務に付いていたようです。同時に
その頃は、都市や商業の発達により、世俗での各種技能の必要性が高まる一時期
でもありました。ところが伝統を重んじる大学はなかなかそうした現実には対応
しようとせず、そのため文法などの初等教育を担う世俗の教育機関が徐々に広が
りを見せ、聖職者や世俗の教師たちが職を得ていったのでした。

「地位ある立場を得る」というのは確かに学問の大きなモチベーションだったよ
うで、13世紀のロバート・グロステストなどは農家の出身ですし、15世紀のニ
コラウス・クザーヌスは船頭の息子だったといいます。とはいえ、その場合の
「地位ある立場」は、一義的にはやはり、宗教的な徳ある者として人々の尊敬を
集めることができる、という意味合いが強かったのだとされます。ただ、そうし
た宗教的な下支えも時代が下るとともに風化していきます。16世紀初頭までに
は学生数が著しく増加し、人材の過剰供給ぎみにすらなったようですが、そこか
ら逆説的に、少数エリートの地位と権威の安定化が進み、特権階級の再生産が固
定化していきます。社会自体も、教会や王権の権力強化をともない、硬直化して
いくのですね。なんだかこれ、現代の状況にどこか似ていなくもありません。

では逆に、「学問する喜び」はどこから形成されてきたのでしょうか。これには
心性の変化、媒体の変化が大きく関係していそうです。上の同じ本の中でヴェル
ジェは、独学が基本的には書物の大量消費時代の産物であることを指摘していま
す。中世の学問修行はいわば徒弟制度であり、口頭での議論や伝授がメインで、
大学という一種の職能集団に属していなければなしえないものだったのでした。
活版印刷により書籍が広く普及してはじめて(それは従来考えられているほどに
は速やかではなかったようですが)、いわゆる独学は可能になり、学業の自己目
的化も助長された……のですが、一方で「学業イコール社会的地位」は、それを
下支えするものが信仰からマネーへと移り、新たな段階を迎えていくのですね。
つい最近まで、コンピュータの普及により学問の自己目的化が再び組織され直
す、といった議論もありましたが、現状はどうなのでしょう?いずれにしても、
学業の自己目的化は、新たに立て直すに値するモチベーションだと思うのですが
……。


------中世の古典語探訪「ラテン語編」------
第7回:等位接続詞

4月19日に新ローマ法王が選出された際の発表のラテン語をお聞きになった方も
多いと思います。全文はこんな感じです。最初に各国語で「親愛なる兄弟姉妹
よ」と呼びかけ、それにこう続きました。

Annuntio vobis gaudium magnum. Habemus papam, eminentissimum ac
reverentissimum Dominum, Dominum Josephum sanctae Romanae
ecclesiae Cardinalem Ratzinger, qui sibi nomen imposuit Benedictum XVI.

annuntio(私は発表する)vobis(あなた方に)gaudium magnum(大きな喜
びを). Habemus(私たちは持っている)papam(父を・法王を). ここからは
同格で、「すなわち〜」となります。eminentissimam(eminiensの最上級:こ
の上なく秀でた)ac(および)reverentissimum(reverensの最上級:最も尊
敬に値する)Dominum(長を). そして「ヨーゼフ、聖なるローマ教会の枢機卿
ラッツィンガー」と続き、qui(関係代名詞:その者は)nomen(名前を)
imposuit(imponoの完了形:定めた)、Benedictum XVI(ベネディクト16世
と)。

これはいわば定型句ですが、さすがはヴァチカン、様々な機会にラテン語が使わ
れます。第二ヴァチカン公会議で各国の教会でのラテン語の使用は取りやめに
なったわけですが、これはちょっと寂しい感じもしないでもありません。

さて、長々と横道に逸れましたが、今回の本題は接続詞の簡単なおさらいです。
上にもac(および)が出てきました。付加を表す接続詞には、ほかにetもあれ
ば、名詞の語尾となる-queもありました。clerus ac populus、clerus et
populus、clerus populusqueはどれも同じ意味になるのでした。ただetは意味
が広いようで、etiam(〜もまた/同様に〜)の意味で使われることもありま
す。necnonも中世の用法ではetと同じように用いられるほか、quoque、
item、immo(〜もまた)などもあります。

選択的な意味を表すもの(〜か、それとも〜か)として、autは相反するものか
ら一つを選ぶという意味になり(例:Oportet vivere aut mori)、velは様々な
選択の可能性や言い換えなどを表すことができます。語尾につける-veもありま
すね。逆接の接続詞(しかし/だけれど)と言われるものには、対立する意味合
いの弱さの順に、autem、vero、sed、verum、tamen、atなどがありますが、
この意味合いの度合いは中世ではかなり薄まっていて、それほど用法に差がある
ようには思えません。そのほか、原因を表す(なぜなら/なにしろ)ものとし
て、nam、enim、etnimなど、結果を表す(したがって/そんなわけなので)
ものとして、ergo、igitur、itaque、quare、quapropter、proptereaなどもあ
りますが、やはり全体として、中世のラテン語においては、意味の差は薄れ、む
しろ同語反復を避けるための別単語として使われたりしているようです。

(このコーナーは"Apprendre le latin medieval", Picard, 1996-99をベースに
しています)


------文献講読シリーズ-----------------------
プロクロス『神学提要』その3

今回は提題5を見ていきます。例によって一と多の話が続きますが、提題5は
ちょっと長いので、今回は前半部分だけとしました。原文はこちらに用意してお
きました。
http://mediateurs.main.jp/blog/archives/000473.html

# # #
(5):多はすべて「一」に連なる。
一よりも前に多があるのであれば、一は多に与ることになるが、一より前にある
多は一には与らない。一となる以前に、それは多であるのだからだ。存在しない
ものに与ることはできない。「一」に与るものは、一であるとともに「一」では
ないのだから、多が原理として存在する場合には、一は決して措定されない。け
れども、なんらかの多が「一」に決して与らない、というのはありえない。よっ
て、多は一より前にあるのではない。

そこで多が一とともにあり、ピュシス(自然の秩序)において同列であるなら
(時間的秩序によってそれが妨げられないなら)、その場合の一はそれ自体とし
て多ではないし、多も一ではない。一方が他方の前後関係をなさない以上、ピュ
シスにおいて反対のものとして分割されるためだ。それゆえ、多はそれ自体とし
て一ではなく、そのそれぞれの一は一をなさず、無限へといたることになる。だ
がこれはありえない。多はみずからのピュシスにおいて「一」に与るのであり、
そこに一でないものを見いだす者などありえない。一でない存在は、すでに示し
たように無限から無限へといたるだけだからだ。したがって、いかなる場合にも
「一」に与るのである。

一はみずからにおいて一として存在するのであり、決して多に与ることがない。
多はいかなる場合も一より後に生じ、一に与るのであって、一から与られるので
はない。(続く)
# # #

今回の箇所は、一が多に先行するのであって多が一に先行するのではない、とい
う話です。原因と結果に時間関係が織り込まれている(当たり前ですが)ことが
明示されています。一と多をめぐる話は提題6まで続きます。中世で流布したこ
の『神学提要』の訳本には、一部、この提題6までがないものがあるようです。
そのあたりの話は次回に送り、今回はプロクロスの生涯の話の続きから。

プロクロスの晩年は、後継者問題でいろいろ心労があったようです。後継者と目
された弟子は、病弱だったり(マリノス)、プロクロスのもとを去っていたり
(アスクレピオドテス)、代わりに推薦されたその甥が継承を望まなかったり
(イシドロス)と紆余曲折があって、結局はマリノスが後を引き継ぐことになり
ます。かくして485年、おそらくは老衰により、プロクロスはその生涯を閉じま
す。アテナイから東の墓地に、師匠シリアノスの遺言に従ってその同じ墓に埋葬
された、ということです。

著作活動ですが、これは弟子たちを多数抱えた壮年期の頃を中心に行われたと考
えられていますが、著作についての年代記は確かなことは言えず、ただ『「パル
メニデス」注解』のことが『プラトン神学』の中で言及されることから、後者が
時代的に後だということだけが確定されているのですね。著作は注解書(アリス
トテレスの『解釈について』『第一・第二形式論理学』、プラトンの『ティマイ
オス』『国家』『パルメニデス』など。さらに重要なものとしては『ユークリッ
ド原論第1巻』の注釈も)、小論、入門書、『神学提要』を含む体系的著作、数
学・天文学などについての著書、神的秘術についての著書などがあります。『神
学提要』は比較的若い頃の著作ではないか、という説もあるようです。このあた
りの確定されない議論も、なかなか興味の尽きない部分ですね。

次回は、提題5の残りと6を見ていきたいと思います。と同時に、プロクロスの
西欧中世への流入についてもまとめてみましょう。

投稿者 Masaki : 2005年05月05日 19:08