2005年06月01日

No.58

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.58 2005/05/28

気候の変化に追いつけず、風邪を引いてしまいました。皆さんもお気を付けくだ
さい。そんなわけで今回は短縮版とし、中世の古典語探訪「ラテン語編」はお休
みします。

------新刊情報--------------------------------
新刊情報がいくつか届いています。

○『中世ヨーロッパ万華鏡 3 名もなき中世人の日常』
エルンスト・シューベルト著、藤代幸一訳、八坂書房
ISBN 4-89694-739-8 2,940yen

3巻本と予告されていた『中世ヨーロッパ万華鏡』の3巻目。前2巻は、新しい視
点というよりは概論的な面に重点が置かれていたように思いました。中世後期の
賭博場、娼家、形場などを題材とする「新たな日常史の試み」といううたい文句
ですが、民衆史のいろいろと難しい問題をどう処理しているのか、気になります
ね。

○『西欧中世形成期の農村と都市』
森本芳樹著、岩波書店
ISBN 4-00-023651-2 11,550yen

以前、所領明細帳の詳細な分析を記した『中世農民の世界』(岩波書店)が興味
深かった著者による論集のようです。こちらにもブリュム修道院の所領明細帳の
分析や賦役労働の研究などが収録されているようですが、個人的に面白そうなの
は、第3部の中世初期市場の形成問題あたりでしょうか。経済活動の中世史はと
ても重要な分野だと改めて思います。

○『世界の体験』
フォルカー・ライヒェルト著、井本・鈴木訳、法政大学出版局
ISBN 4-588-00819-6 5,250yen

まずもってタイトルがいいですね。副題は「中世後期における旅と文化的出会
い」となっていて、旅の歴史を追いつつ、異文化の発見過程を追った一冊のよう
です。内容紹介にある、誤解や偏見がどこから生じるか、といった問題は、今の
ようなグローバル化の時代にこそ重要になってくるはず。ヨーロッパが他地域を
どのように見い出していくのかを、ぜひ振り返ってみたいところです。


------Webサイト情報-------------------------

新着のWebサイト情報。今回はフランスから。

○「中世に光を当てる--フランス図書館の至宝」
http://www.moyenageenlumiere.com/

一般向けの教育的なサイトはいろいろありますが、比較的最近のものがこれ。基
本的には図書館所蔵の図版(細密画や稀覯本など)を紹介するページで、販売し
ているDVD-ROMのオンライン版のようです。英語とドイツ語にも対応しようと
しているようですが、これはまだまだ一部分のみ。また、拡大ボタンなどを押す
と、「まだ公開していないので、後で来るかDVDを参照してください」なんて表
示されるのも玉に瑕ですが、美しい図版は見ているだけで楽しいですね。専門家
チームによるものだという解説も参考になります。


------文献講読シリーズ-----------------------
プロクロス『神学提要』その5

今回は提題7を見ていきます。提題7から13までは因果関係の話になります。例
によって原文はこちらに挙げておきます。
http://www.medieviste.org/blog/archives/000495.html

# # #
(7):導きうるものはすべて、導かれるものよりもピュシスにおいて勝ってい
る。

ものは勝っているか、劣っているか、等しいかのいずれかである。

まずは等しいとしてみよう。すると、それ(等しいもの)によって導かれるもの
は、力があり他の任意のものを導けるか、あるいはまったく生み出す力がないか
のいずれかである。だが、仮に生み出す力がないならば、それが導かれた元のも
のよりも劣ることになり、その元のものと等しくはなくなる。生み出す力がある
もの、生成する力をもつものに比べ弱い存在ということになってしまう。次に、
それが他を導けるのであるなら、まずみずからと同じものを導く場合がある。み
ずからも他に加わり、すべて相互に等しい存在となって、何も他に勝ることがな
く、導くものに常にみずから等しくなり、順次置き換わることができる。また、
異なるものを導く場合もある。その場合、それを導く元のものと等しくはなくな
る。同じ力をもつものは、等しいものを生成する。よって、そこから生じるもの
が互いに異なるのであれば、導くものはそれ以前のものに同等であって、それ以
後のものには等しくない。その場合、導かれるものは導くものに等しくなくな
る。

だが、導くものが劣ることはない。導かれるものに存在が与えられる場合、その
ことによって、それ(導かれるもの)には存在するための力が供される。それ以
後のものに十全な力を導きうるのであれば、みずからをもそのようなものにでき
るだろう。その場合、みずからをより力あるものにするだろう。力のないものが
生成力の発現を妨げることはないし、指向しないものも同様である。あらゆるも
のはピュシスにおいて善を求めるからである。よって、他をいっそう完全なもの
にできるのなら、それ以後のものの前に、みずからを完全なものにするだろう。

このように、導かれるものは導くものと等しくはないし、勝ってもいない。いか
なる場合であれ、導くものは導かれるものにピュシスで勝っている。
# # #

「導くもの」「導かれるもの」と訳出したparagon、paragomenonは、要する
に「他へ働きかける因」「他の働きかけによって生じた結果」ということでしょ
う。原因から結果へと力は減じる、というと、一見エントロピーの法則のようで
すが、実はそういうエネルギーの漸減の話ではありません。ここでいう力という
のは、それが本質として(ピュシスにおいて)持っている生成力とされますか
ら、位置エネルギーのようなものを連想すればよいでしょう。原因は結果よりも
高いポテンシャル(位置エネルギー)をもっている、ということです。原因は結
果よりも上位にあるのですね。

中世において受容されたキリスト教化したプラトン主義の考え方に、そうした位
階の概念が現れています。天球から地上の被造物にいたるまで、世界はすべて序
列をなしているとされ、天使もまた序列に位置づけられます。このあたりの話
は、ディオニュシオス・アレオパギタのものとされた(誤って)テキスト類によ
く現れています。ディオニュシオスの受容はプロクロスの受容よりも相当早くか
らなされていて、代表的な人物としてはアイルランド出身で9世紀にシャルル禿
頭王に仕えた神学者ヨハネス・スコトゥス・エウリゲナが挙げられます。

前回述べたように、プロクロスをいち早く受容したのはアルベルトゥス・マグナ
スらライン地方のドミニコ会士たちでした。前回と同じく、アラン・ド・リベラ
の著書によると、アルベルトゥスやその弟子のフライベルクのテオドリクス
(ティエリーないしデートリッヒ)の独特な考え方に、「quod est(存在するも
の)」と「quo est(存在を成立させる当のもの)」という区分があります。こ
れは個体論の文脈でボエティウスが唱えた区別がベースだと言われますが、アル
ベルトゥスの場合には、それを魂にまで適用する点が独特なのですね。人間の魂
の中に、そうした区分を設けることができる、つまり人間の魂は構成的に成立し
ている、というわけです。そう考えるのは、アルベルトゥスがアヴィセンナの
「魂とは知的実体である」という論を受け継いでいるためだ、とされますが、こ
れらはちょうど、上のparagomenon、paragonの概念に呼応しているようにも
思われます。アルベルトゥスの場合、知的実体は可能態・現実態が区別されて、
魂のquod estは可能知性、quo estは能動知性というふうに振り分けられます。
後者が前者を導くことによって魂は成立する、ということになるようです。こう
した構成的な魂の理解の上に立って、アルベルトゥスは能動知性を魂の中の神の
イメージと解釈します。それは「私たちの中の光、認識をもたらす第一原因」だ
というわけですね。プロクロスもまた、上の因の論から第一原因の論へと向かっ
ていきます。

ちょっと先走りぎみになってしまいましたが、プロクロスにおける原因・結果の
議論を、しばらくはゆっくりと見ていきたいと思います。

投稿者 Masaki : 2005年06月01日 23:27