2005年06月15日

No.59

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.59 2005/06/11

------ミニ書評------------------------
『超越に貫かれた人間』(K. リーゼンフーパー著、創文社、2004)

思想史もある意味で歴史学の一部をなしているわけですが、これがやや特殊なの
は、それが思想の営為に取り組む学でもあるからです。「思想」の方に傾くか、
「史」の方に傾くかで、当然取りうるスタンスも異なってきます。後者に傾く場
合、「○○の概念は△△がもとだとされているが、実は××がもっと古い」と
いった思想の系譜を追っていく作業が主になっていきます(もちろんそれだけで
はありませんけどね)。それはそれで実に大きな知的興奮に包まれるわけです
が、その場合に警戒しなくてはならないのは、知識編重の陥穽です。極端な場
合、「○○の概念」がある思想家の中でどう位置づけられ、その思想家にとって
どういう意味をもっていたのか、なぜそういう概念が採用されなくてはならな
かったのか、といった思想の内実についての包括的な視点がおなざりになる危険
も出てくるように思います。内実への包括的な視点を得るためには、前者、つま
り「思想」に傾くしかありません。その場合の原典との対話は、いっそうの緊張
感を孕みます。というのも、それは「○○の概念」を出してきた著者を追体験し
ようと試みることであり、とりもなおさず読み手である自分にとってそれがどう
いう意味をもつのかを問うことになるからです。結局、両方の傾きのバランスを
どう取るかは大きな問題になっていきます。

そういう意味では、思想史家が記す、思想の側に大きく傾いた著書を読むのは大
きな愉しみでもあります。K. リーゼンフーパー著『超越に貫かれた人間』はま
さにそんな一冊です。神学者、中世思想史家として名高い著者が、2002年に長
崎で行ったレクチャーを再録したものということですが、副題に「宗教哲学の基
礎づけ」とあるように、哲学的営為の果てに宗教的なもの(制度としての宗教で
はなく、いわばなんらかの「超越」概念に対する畏怖と敬意の源泉ですね)にい
かに接近しえるかという問題が、実に真摯かつ実践的に論じられています。自分
自身の内面を見つめ直すための、その道案内という風でしょうか(とはいえやや
晦渋ではありますが……)。

内面の見つめ直し、と簡単に言ってしまいますが、当然一筋縄ではいきません。
その困難な作業を支えるために、先人である様々な哲学者・神学者の議論があ
り、それらを傍らに置いて参照しながら、内面の奥へと接近していこうとする…
…。なるほど、それは古来から多くの人々が存在論・認識論として行ってきた営
為です。とはいえいつの時代も、それ以前の古い時代の人々が残した文章は、そ
うした内奥への接近過程をかいま見させてくれる断片でしかありません。誰もが
各自で辿り直さなければならない……そこが哲学的営為というものの面白さなの
ですね。

同書では、まず人間の無制約性から超越的なものの認識がいかに導かれるか、次
にそれがどういう形式で構成されるか、さらにはそこから宗教的なものがどのよ
うに現れてくるか、といった問題をめぐっていきます。アウグスティヌスからハ
イデガーまで、その過程で様々な思想家が引用されて、当該問題へのそれぞれの
アプローチも言及されます。思想史は本来どのように活用されうるのか、私的で
あると同時に普遍の相をももつ問題への接近のために、思想史をどのように携え
ていけばよいのか、という実践的な課題へと思想史を開く試みでもあるかもしれ
ません。そういう探求の場において活用できること……思想が血肉化するという
のは、そういうことを言うのでしょう(なにもそれは、先人の思想を批判もなし
にそっくり受け継ぐことではありません)。知識を増やしていくことはもちろん
大事ですが、血肉化することの重要性も、また真剣に受け止める必要がありそう
です。

著者はそうした思考の実践を通じ、その上でなお未踏の哲学的問題を見いだして
います。それが末尾で示唆される「祈り」の哲学的理解(現象学的・人間学的)
です。これと並び称される対人関係の問題は、現代思想の中でいくつかのアプ
ローチが始まっているようですが、「祈り」をめぐっては、確かにまだこれと
いったアプローチは出てきていないように思えます。世界的に先行きの不透明感
や不安が蔓延する中、宗教的なものの問い直しはますます急務になってきている
ように見受けられます。「祈り」の考察も、思想史的探求ともども(それを伴う
形で)、取り組みがいのある課題になっていきそうですね。


------中世の古典語探訪「ラテン語編」------
第9回:従属接続詞(直説法を取るもの)

大学書林から新しいラテン語辞書が出たようですね。『古典ラテン語辞典』(国
原吉之助著)です。同じ体裁の『ギリシア語辞典』などと同じシリーズですね。
ギリシア語の方はやはり多少訳語に難ありという感じですが、まあそれなりに重
宝しています。さてこちらはどうでしょう?まだ内容は見ていないし、3万
6750円とお値段は張りますが、日本語で引ける辞書として研究社の『羅和辞
典』以外が出てきたというのは心強いかもしれませんね。ちなみに、この著者に
は、書店では現在入手不可のようですが『中世ラテン語入門』という著書もある
ようです。

さて、今回の文法トピックスは従属接続詞です。二つの文が接続詞でつながれて
いて、一方の文が他方の文(節といいます)の説明になっていたり、時間的に前
後していたりする場合、その接続詞は従属接続詞と呼ばれるのでした。従属接続
詞は意味的に4種類に大別されます。時間を表すもの、比較を表すもの、条件を
表すもの、原因を表すもの、の4つです。では、ごくごく基本的なところをリス
トアップしておきましょう。

時間を表すもの:
ut、cum、ubi、quando(〜の時)、dum(〜の間)
postquam(〜の後)、antequam(〜の前)
ut primum、ubi primum(〜するやいなや)

比較を表すもの:
ut、sicut、velut(〜のように)

条件を表すもの:
si(もし〜ならば)、nisi(もし〜でないならば)

原因を表すもの:
quod、quia、quoniam(なぜなら)、ut(〜なので)

utなどは文脈に応じて訳し分けが必要になります。また比較を表すsicutなどが
使われる場合、主節の方にsicやitaがあって、それと分かる場合もあります。例
文を挙げましょう。"sic est hoc verum, sicut saxa ista sunt aurum"「それら
の石が黄金であるというのと同じように、それは真実だ」= 「それが本当だとい
うのは、それらの石が黄金だというのと同じだ(だから嘘だろ、というこ
と)」。

(参照テキスト:"Apprendre le latin medieval", Picard, 1996-99)


------文献講読シリーズ-----------------------
プロクロス『神学提要』その6

今回は提題8を見ていきます。原文はこちら:

# # #
(8):なんであれ善に関わるもののいっさいは、最初の善に従属するのであ
り、それ(最初の善)は善以外ではありえない。

存在がすべて善に向けられるのだとしたら、最初に善が存在に対峙していること
は明らかである。善がいずれかの存在と同一であるなら、存在と善は同一とな
り、その存在は善に向けられるのではまったくなくなる。それは善として存在す
るからだ。求められるものとは、求められる際に欠けているものであり、求める
対象と異なるものは排除される。それは存在とも異なり、善とも異なるからだ。
存在は関わるものとしてあり、それ(存在)において関わられるものとしてある
のが善である。その場合の善は、それに関わるなんらかの存在の中にあり、関わ
るものだけがそこに向けられる。だがそれは、すべての存在が向けられる十全た
る善ではない。あくまで向けられる存在に共通する対象なのだ。そのなんらかの
ものの中に生ずる善のみが、関わりをもとうとするものにとっての唯一の善なの
である。

最初の善はといえば、それは善以外のなにものでもない。何か別のものが先行す
るのであれば、その善は先行されることによって減じ、十全たる善に対する個別
の善となる。先行されるものは善(十全たる)ではなく、それよりも劣ったもの
であり、みずから集合をなすことによって善は減じるのである。
# # #

今回から次回にかけて見る箇所は、善についての話です。今回つけた訳では
ちょっと明確でないかもしれませんが、個別の存在が求める善と、原初の善とは
違うのだという議論になっています。存在がおのおの見いだす善は、最初の善か
ら派生した「減じられた善」だということなのですね。ここでもまた、これまで
見てきたような超越の考え方が見いだされます。「善」の思想として有名なの
は、新プラトン主義の大御所プロティノス(3世紀)の流出論ですね。流出論と
いうのは、全存在を支配する究極の「一者」が、おのれの善性を分有させるため
にみずから溢出してあらゆる存在を段階的に作り出していく、という考え方で、
プロティノスの場合には、段階は三つ、つまり「一者」「叡知」「霊魂」とされ
ています。

前回少しだけ能動知性について触れましたが、それもこうした流出論に関係しま
す。復習しておくと、能動知性はもともと、アリストテレスのnous poie_tikos
(つくる知性:『魂について』第3巻)に後世の人々が解釈を加えることによっ
て受け継がれるようになった概念です。能動知性を神、可能知性を人間と見なす
図式ができたのは、もとはアプロディシアスのアレクサンドロス(3世紀初頭)
によるものだとされます。この図式によると、人間が生まれながらにもっている
可能性としての知性は、天空の世界から働きかける知性(能動知性)によって現
実態になるのですね。ところが前回触れたように、アルベルトゥス・マグナスと
その弟子たち(トマス・アクィナスも含まれます)は、能動知性は天空の世界に
超然としているのではなく、人間の魂の一部をなしていると考えています。

最近改訂版が出たばかりの井筒俊彦『イスラーム思想史』(中公文庫)による
と、こうした隔たりの中間に位置する興味深い思想家に、ファーラービー(10
世紀、トルコ系の思想家)がいます。ファーラービーの場合、能動知性は人間界
の質料と形相を結合させる働きをするものの、それ自体は質料とは結合しない純
粋形相であるとされているようです。天使のような存在として仮構されているわ
けですね。ファーラービーの知性論は大きな問題となったといい、後には、「能
動知性は単一だが可能知性は個々人で異なる」としたアヴィセンナや、「そもそ
も知性は一つしかない」とするアヴェロエスなどが出てくるわけですね。このあ
たりも西欧に入ってきてアルベルトゥス以後の知性論が展開していきます。

興味深いのは、前に触れたプロクロスの焼き直し本『原因について』(中世盛期
に流布し誤ってアリストテレス作とされていた作品ですが、もともとは9世紀ご
ろに『神学提要』のアラビア語訳を編纂・補足したもの)です。上のプロティノ
スの「一者」と「叡知」の間に、永遠性の次元に成立する「実有」が加えられ四
段階になっているのですね。一者はいわば完全な無なので、具体的な働きかけを
なす実体がもう一つ必要になったということなのでしょうか。ファーラービーの
場合も、能動知性にいたる前の流出の諸段階が細かく分けられているようです。
そのあたりとプロクロス思想との関連はあったのか、なかったのか……そんなこ
とも含めて、プロクロスの知性論・流出論も見ていく必要がありそうです。

とりあえず次回は引き続き提題9と10を見ていきます。お楽しみに。

投稿者 Masaki : 2005年06月15日 15:57