2005年07月18日

No.61

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.61 2005/07/16

------クロスオーバー-------------------------
実体論と不可知のもの

最近、脳科学がいろいろな意味で注目を集めています。これも時代なのでしょ
う、勢い、思想界隈の世の趨勢も、脳科学などを含む生物学方面に移りつつある
のですね。とはいえ、「特定のパターン認識にはそれに対応する細胞が脳にある
のだ」というような実体論的な話は、時に単純化された還元主義的なアプローチ
に留まり、他の問題を顧みない口実になってしまうような危険もあるのでは、と
思えてきます。仮にそういう細胞の存在が突き止められたとしても、真の問題は
その細胞がどのような処理を行っているのか、ということなわけですが、そう
いった問題への入り口が、細胞の発見・特定によって塞がれてしまうような事態
は、今後ないとはいえません(実体論的アプローチは、時にイデオロギーや政治
的な思惑に絡め取られやすいものです)。そういった処理はその細胞にどれだけ
特化したものなのかとか、全体的メカニズムの布置においてたまたまその細胞に
処理が割り振られているだけではないのかとか、いろいろな問題が考えられそう
ですが、そうした検討が棚上げにされてしまっては困ります。

一方で、脳や認知といったテーマの場合、実体論的なアプローチ(生物学のよう
な)は、突き詰めていけばどこかで必ず不可知の部分に出くわすようにも思われ
ます。最近、フランシスコ・ヴァレラほかの『身体化された心』(田中靖夫訳、
工作舎、2001)に目を通したのですが、これなどはまさに、人が経験する「認
知」と、科学的な客観記述との大きな溝をテーマに据えています。人が体験する
「心」なり「自己」なりが、科学にとっては不可知であり続けている状況を、乗
り越えることはできるのか、という問題です。そうした溝は、西欧思想の大きな
流れを形作ってきました。例えばカントは当初、自己はあってもアクセスできな
い、という形で超越論を考えていたわけですし、現代においても、同書が示すよ
うに、ダニエル・デネットの認知主義(『解明される意識』)などは、心的機構
のプロセスをサブパーソナルのレベルに設定し、パーソナルのレベルからはアク
セスできないとしているのですね。マーヴィン・ミンスキー(『心の社会』)に
しても、認知のアーキテクチャモデルとしてエージェント概念を出してはいるも
のの、最後の最後で「自己」概念の可能性に突き当たるといいます。そうした科
学と経験の架橋不可能とも思える分離を乗り越える方法はないものか……同書が
そこでヒントにしているのは仏教思想なのですが、その前に、例えば中世的なア
ニマやモナドといった各種の概念を根っ子の部分から再検討し、再び接合しなお
すようなことはできないものでしょうか?

アヴェロエスの知性単一論(個人の知性は、唯一同じ普遍的知性の個別の顕現だ
という考え方)などは、認知プロセスの恒常性・普遍性という意味で、認知論的
な文脈で再解釈してみたらとても面白いのではないか、という気がします。プロ
ティノスのヌース論などにも同じことが言えそうです。考えてみれば、古代や中
世における思想は、絶えず不可知のものを前提に、不可知のものとの関係性から
様々な理論を紡ぎ出してきたのでした。その不可知のものとのやりとり、トラン
ザクションには、おそらく現代的な不可知のものとのやりとりに適応しうる、ヒ
ントなり原石なりがあるかもしれません。不可知のもの自体は大きく変わって来
ましたが(かつては「神」、今なら例えば脳内のトランザクション)、それらを
見据えようとする人間の営為には通底するものがあるはずです。それを汲み上げ
彫琢しなおす作業は、とりもなおさず哲学的・思想的な刷新に繋がってくかもし
れません。実体論的なものが幅を利かし、イデオロギー的に横滑りする危険性が
ある以上、これは意外に急務なのではないかという気もします。


------中世の古典語探訪「ラテン語編」------
第11回:名詞語尾、否定表現

前回取り上げた第3変化名詞が出てくると、いよいよ語尾の活用も花盛りという
感じになってきます(笑)。すると当然、語尾を見てその格(つまり名詞の機能
です)を見分けることが問題になります。ここでも要は慣れなのですが、とりあ
えずの指標を挙げておくことはできそうです。代表的な語尾の可能性は次のよう
になります。

○語尾が-as:第一変化名詞の複数対格(ecclesiasなど)、第三変化名詞の単数
主格(civitasなど)
○語尾が-us:男性名詞・中性名詞の単数主格(dominus、corpusなど)、中性
名詞の単数対格
○語尾が-os:第二変化名詞(男性)の複数対格(dominosなど)、第三変化名
詞の単数主格(custosなど)
○語尾が-e:第二変化名詞の呼格(domineなど)、第三変化名詞(中性)の単
数主格・呼格・対格(mareなど)

基本は迷ったら辞書に当たって主格・属格の形を確認せよ、というのが鉄則です
ね。それでどの変化形かの検討をつけるわけです。あるいは文脈的にどんな意味
で使われているかを想定して見分けていきます。最初は面倒ですが、それは最初
だけです。

もう一つ、否定表現も大まかにまとめておきましょう。ラテン語の否定表現は基
本的に単純です。nonを付ければ否定形になります。Episcopum non vidit(彼
は司教を見なかった)という感じですね。nonの代わりにhaudとすることもあり
ますが、これは形容詞や副詞の前、一部の動詞の前の場合が多いのですね。
haud dubio(私はまったく疑わない→すこぶる確かだ)など。

否定文や否定語の集まりを肯定文や肯定語の集まりに繋げる場合、nequeないし
necを用います。Mox palatium intravit nec episcopum vidit(彼はすぐに宮殿
に入っていったものの、司教は見なかった)。et ...nonということなのですが、
これは古典語では間違いとされますし、中世ラテンでもあまり多くは見られない
といいます。また、et ... nunquam(そして……決してない)やet ... nusquam
(そして……どこにもない)も、nec ... unquam、nec ... usquamの形になるの
でした。例文:Mox palatium intravit nec usquam episcopum vidit (彼はすぐ
に宮殿に入っていったものの、司教はどこにも見当たらなかった)

慣用句としては、例えばnec ... necまたはneque ... nequeで「〜も〜もない」
があります。例文:Nec episcopum nec cancellarium vidit(彼は司教も書記も
見なかった). それからnon solum ... sed etiam(〜だけでなく〜も)も頻出し
ます。non solumの部分は、non tantumとかnon modoという場合もあります
し、sed etiamの部分もverum etになったりします。さらにnecだけで「〜もな
い」という意味になることもあります。Nec ego(僕もそうじゃない)など。こ
のあたりも、迷ったら辞書で確認しながら読んでいけば問題はないはずですね。

(このコーナーは"Apprendre le latin medieval", Picard, 1996-99をベースに
しています)


------文献講読シリーズ-----------------------
プロクロス『神学提要』その8

今回は提題11を見てみましょう。すべてが一つの原因に帰着する、ということ
を論理的に示そうという箇所です。例によって原文は、http://
www.medieviste.org/blog/archives/000539.htmlをどうぞ。

# # #
(11)すべての存在は、一つの原因、最初の原因から生じる。
 存在には原因がないか、原因は円環をなしてすべてを閉じるか、あるいは無限
に遡り、他の原因には他の原因があり、何も確たる原因に根ざさなくなるか、の
いずれかであるとしよう。
 だが、仮に存在に原因がないなら、1番目や2番目という序列はなく、完成す
るものも完成されるものもなく、秩序をなすものも秩序づけられるものもなく、
知るものも知られるものも、生み出すものも生み出されるものもないことにな
る。また存在そのものも認識できなくなってしまう。原因を知ることは認識の働
きであり、認識すると私たちが言う場合、それは存在の原因を知ることなのだ。

 原因が円環をなすのであれば、それは始まりでも終わりでもあり、より強くも
ありより弱くもあることになってしまう。というのも、導くものは導かれる結果
より性質において勝っているからだ。原因に結びついた部分とそこから生じた部
分を、より多いか少ないかによって区別することはできなくなってしまう。ま
た、すべての中間物が原因に勝り、その部分はより大きく、より大きな原因をな
すことになってしまう。

 原因が無限に加えられ、永遠に別の原因の前に別の原因が置かれるのであれ
ば、これまた認識はありえないことになってしまう。無限は知り得ないものだか
らだ。原因を知ることも、その連続を認識することもありえない。
 このように、存在に原因がなくてはならず、原因が原因をもたらすものから区
別されなくてはならず、無限へと遡及してはならないとするなら、存在には最初
の原因があることになる。最初の根からそれぞれの個が生じるように、である。
それ(最初の原因)に近い存在もあれば、より遠く離れた存在もある。原初は一
つであることが示されるのだから、すべての多なるものは「一」に続く二番目を
なしていることになる。
# # #

存在と原因の関係として考えられる3つの仮説はいずれも論理的矛盾にいたるの
で、それ以外、つまり原初の原因は一つだという説しか取れない、というわけで
す。存在することが実体論的には証明できなかったり、証明しにくい場合に用い
られるこうした論法は、否定神学をはじめとして、スコラ哲学でもよく見られる
論法ですね。もとはこうした「一者」の存在証明などに用いられていたわけです
が、近代から現代においても、この論法は広く息づいていて、西欧の思想史的な
流れを支える一端になっているように思えます。例えば大陸系の意味論(言語学
の)などには、否定命題で囲まれたものとして意味を考えるという伝統があり、
そうした流れを汲んでいるように見えます。

上の「クロスオーバー」のコーナーに記した話にも関連しますが、プロティノス
などはより実体論的な傾向を宿している印象があります(とはいえ、きわめて思
弁的な議論ですけれど)。前にもちょっと触れましたが、プロティノスの体系の
場合、一者が直接に多をもたらすのではなく、一者の下に「ヌース」(知性)が
あって、多をなす根拠はそのヌースにあるのでした。例えば『ヌース、イデー、
存在について』(エンネアデス5巻より)では、ヌースは存在するものの形をも
たらすものとして示されています。職人の技巧が素材を形成するのと同じよう
に、知性もまた形相(魂)と質料(肉体)とを結びつけ、形を成します(10節
から12節)。知性は自己完結していて(その外部を考える必要がない)、おの
れ自身をも認識しますが(21節)、一方で知性はまたイデアをもなすといい、
物質世界を織りなしてもいくのです。知性と対にされる感覚が描く世界は一つで
あるのに対し、知性が織りなす世界は多になるとされています(49節)。

このあたり、なんだか一種のプロセス論の端緒を読んでいるような気分にさせら
れ、大変興味深いものがあります。一方、ここで読んでいるプロクロスの体系は
というと……おっと、これはまた長い話になるかもしれないので、今後追ってま
とめていきましょう。とりあえず次回は続いて提題12を見ていきます。お楽し
みに。

投稿者 Masaki : 2005年07月18日 23:14