2005年08月08日

No.62

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.62 2005/08/06

------新刊情報--------------------------------
暑い日が続いています。こういう時は避暑地にでも行って本を読みたいところで
すね。なかなかそうもいかないのですが……。とりあえず、最近の新刊書の情報
をまとめておきましょう。

○『中世末南ネーデルランド経済の軌跡』
エリック・アールツ著、藤井美男監訳、九州大学出版会
ISBN:4873788684、1575yen

副題が「ワイン・ビールの歴史からアントウェルペン国際市場へ」となっていま
す。経済史の観点からワインやビールの変遷を見る、というのが興味深いです
ね。中世においては、かつて大衆の飲物だったワインは、ビールの一般化によっ
て高級品へと変わっていく、というのが基本的な動きでした。水が悪かったため
にそうした発酵飲料が基本的な飲物だったのですね。それぞれの飲料が、どの地
域にどれほどの生産があって、どのように流通したのかなど、面白そうな問題が
いろいろありそうです。

○『中世ヨーロッパの城の生活』
ジョゼフ&フランシス・ギース著、栗原泉訳、講談社文庫
ISBN :4061597124 、1050yen

著者らはアメリカの作家で、中世関連の著作を30年にわたり出しているそうで
す。同書はウェールズのチェプストー城を起点として、中世の生活誌を立体的に
浮かび上がらせる趣向のよう。全編にわたり多数の史料を駆使し、様々なエピ
ソードを紹介しながら生活の細部にまで踏み込もうとしていて、まさに「活写」
というに相応しい感じがします。いいですね、こういうの。

○『フランス中世の文学』
原野昇著、広島大学出版会
ISBN:4903068013、1875yen

この書籍については具体的な情報がありません。3月刊となっていますが……概
論的なものなのでしょうか?そういえば、ついでながら概論というか手引き書と
しては『西洋中世史研究入門』(佐藤・池上・高山編、名古屋大学出版会、
ISBN:4815805172)が増補改訂版になっていますね。

○『「世間」への旅』
阿部謹也著、筑摩書房
ISBN:448085780X、1785yen

最近『阿部謹也自伝』(新潮社、ISBN:4104759015)も話題になっていたご
存じ阿部氏の「世間」論。石牟礼道子や網野善彦へのオマージュなどが収録され
ているとのことです。歴史家の自伝やエッセイは実はとても面白いですよね。こ
れもぜひ見ておきたいです。

○『中世の死』
ノルベルト・オーラー著、一条麻美子訳、法政大学出版
ISBN:4588008218、4200yen

中世において人が死をどのように捉えていたか……そうした死生観を多面的に捉
えた著作のようです。割とあるテーマではありますが、どんな切り口で見せてく
れるのでしょうね。著者のオーラーは元大学教員で、後にフリーのジャーナリス
トになったというちょっと変わった経歴の持ち主なのですね。そういう意味でも
ちょっと面白そうな一冊。


------中世の古典語探訪「ラテン語編」------
第12回:形容詞の比較

第三変化名詞が出てきたら、やっぱり第三変化形容詞(いわゆる第二類形容詞)
も復習しなくてはなりませんが、長くなるのでここでは端折ってしまうことにし
ます(笑)。参考書などの活用表を見て確認してください。ただ注意事項が一つ
あります。中世ラテン語の場合、-eで終わる単数の奪格語尾は、-iになりがちだ
ということです(与格と同じになる、ということですね)。例えばvetus(古
い)の単数奪格vetereはveteriになり、「古い修道院で」なんて場合はin veteri
monasterioとなったりします。

今回の本題は比較表現の復習です。まず同等比較(同じほど〜だ)や劣等比較
(より少なく〜だ)はフレーズの形で作るのでした。代表的なものは、同等比較
ならtam doctus quam (〜と同じほど知識がある)、劣等比較ならminus
doctus quam(〜よりも知識がない)という形です。

優等比較(より〜だ)や最上級(最も〜だ)は形容詞に語尾をつけます。まず優
等比較の場合は、男性形・女性形になら-ior、中性形になら-iusをつけるのでし
た。これもまた格変化します。doctusを例に取ると、主格なら男性・女性形で
doctior、中性でdoctiusとなり、属格はどれもdoctiorisになります。第三変化に
準じるのですね。ここでルールがありました。属格の方が主格よりも音節が多い
(imparisyllabic)場合、複数属格は-umになるのでしたね。そんなわけで、複
数属格はdoctiorumとなります。

「〜よりも」を表すには、補語としてquamを後につけて同じ格の名詞を続ける
か、あるいは単純に奪格だけを続けます。「彼はペトルスよりも知識がある」は
次の2つの言い方ができます。
Doctior est quam Petrus.
Doctior est Petro.
こういう補語がない場合、形容詞の意味が単に強調される場合もあります。
Doctior est Petrus. (ペトルスはものすごく知識がある)

最上級(最も〜だ)は、男性・女性・中性形でそれぞれ-issimus、-issima、-
issimumをつけます。語末が-erで終わる形容詞の場合には、それぞれ-
errimus、-errima、-errimumとなります。doctusの最上級(男性・単数)は
doctissimus、pulcher(美しい)の最上級はpulcherrimusになります。最上級
でも補語を取る場合があり(〜の中で最も〜だ)、例えば複数属格を続けたり、
exないしdeに奪格を続けたり、interに対格を続けたりします。「司教の中で最
も知識がある」なら、次のような言い方ができます。
doctissimus episcoporrum
doctissimus ex (de) episcopis
doctissimus inter episcopos

(このコーナーは"Apprendre le latin medieval", Picard, 1996-99をベースに
しています)


------文献講読シリーズ-----------------------
プロクロス『神学提要』その9

今回は提題12を見てみましょう。例によってギリシア語の原文は次のURLに掲
載しておきます。
http://www.medieviste.org/blog/archives/000560.html

# # #
(12) すべての存在の源および第一の原因は善である。
 仮に一つの因からすべてが生じるのであるなら、その因は善であるか、もしく
は善に勝るものであると言わねばならない。だが、もしそれが善に勝るものであ
るなら、あらかじめ何かがあって、そこから存在するものと存在するもののピュ
シスが生じているのだろうか、あるいはそうではないのだろうか?もしそうでな
いなら、それは不条理となろう。それでは因の序列に位置づけることはできない
だろうし、原因からは必ずやなんらかの結果が生じなくてはならないのだし、第
一原因とは異なった形のものが生じなくてはならないからだ−−第一原因はすべ
ての拠り所であり、個々の存在をもたらす根拠をなしているのだから。もし諸存
在がその因に関与し、同じく善にも関与するのであれば、それら諸存在には善性
に勝る何かがあることになる。やはり第一原因に由来している何かだ。おそら
く、善に勝るもの、善を越えるものは、後に生じる二次的な存在に、善に劣った
何かをもたらすことはない。それに、善性よりも優れた何がありうるというのだ
ろう?というのも、その「勝るもの」とは、より大きな善に関係するものなのだ
と言えるからだ。その勝るものを、善ではないとは言えないのであれば、すべて
は善に対して二次的なもの、ということになる。

 もしあらゆる存在が善へと向かうのであれば、どうして善より以前に何らかの
因がありうるだろう?また、もし善に向かうのなら、なにゆえにまず善に向かう
のだろう?もし向かわないのであれば、なぜそこから由来するものが、あらゆる
ものの因へと向かわないのだろう?
 もしあらゆる存在が由来する当の場所が善であるならば、あらゆるものの起源
および第一原因は善であることになる。
# # #

第一原因は善である、という話ですが、翻ってすべての存在はその第一原因を指
向しているのだということも強調されています。「向かう」と訳したephie_mi
は、「目指す」「欲する」という意味ですね。前にちょっと触れた「欠落」がも
たらす指向性を再び思い起こしておきましょう。また「関与」と訳した
metousiaは、「参加」「共有」といった意味合いです。関与するものと関与さ
れるものとの関係は、例えば部分と全体、結果と原因、species(類)とgenus
(種)といった関係にあると考えられます。その意味で、関与するもの・される
ものは同一ではないと取れます。

この「関与」(ラテン語ではparticipare)について、13世紀のドミニコ会士、
フライブルクのディートリッヒ(テオドリクス)の『存在と本質』("esse et
essentia")という小論に、端的にまとめた箇所がありますので紹介しておきま
しょう。ディートリヒのこの書は、esse(存在)とessentia(本質)の区別を
めぐる議論で、一種の記号論的な話が展開する興味深いテキストです。存在と本
質の合一は神においてしかありえないという議論への反論として、彼はこんなこ
とを述べます。「関与する、という意味は三種類ある。一つは、外部からもたら
された何かを保持しているという意味だ。すると『すべての被造物はおのれの存
在を、純粋な存在(神)に与っている』という場合、存在ばかりか本質にも同様
に関わっていることになるので、両者の区別はなくなる。二つめは、事物の本質
が何かを受け取り、それによって何かを構成するという意味だ。この意味に取る
と、それでは被造物は存在には関わらないことになってしまう。三つめは、全体
に対する部分をなすという意味だ。被造物の存在は制限・制約を受けており、
ちょうど第一原因が全体だとすれば部分に縮約(contractus)される。だがこの
場合も、存在の縮約は事物の本質によって生じるのであり、存在と本質は区別さ
れない」。「存在と本質」という部分を省くと、この箇所、「関与」という語句
の注解として読めますね。

ディートリッヒはこの箇所で、前から取り上げている『原因の書』(『神学提
要』を再編した書で、アラビア語版から訳されて13世紀に流布しました。トマ
ス・アクィナスなども参照しています)の提題20に言及しているのですが、ど
うも版が違うのか、手元にある『原因の書』テキストの提題20には該当箇所が
見当たりませんでした。13世紀ごろの「引用」は記憶に頼っている場合が多い
ので、あるいは間違えているのかもしれません。いずれにしても、13世紀の思
想をたどる上で、『原因の書』は避けて通れない重要なテキストですね。それで
ちょっと思ったのですが、『原因の書』と『神学提要』の対応部分と比較してみ
るのも面白いかもしれません。次回の提題13で、一応内容的な切れ目になりま
すので、その後は年内一杯くらい、少し両者の比較をしてみたいと思います。さ
わりだけではありますが、どうぞお楽しみに。

投稿者 Masaki : 2005年08月08日 21:20