2005年08月29日

No.63

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.63 2005/08/27

------クロスオーバー-------------------------
イスラム世界の経済論

以前BBCのニュースで、イスラム銀行が英国にオープンしたという話が報じられ
た際、その銀行の最大の特徴として利子収入を取らない点が挙げられていまし
た。中沢新一『緑の資本主義』なども、そうした利子の拒絶という点に、イスラ
ム経済がもつ反資本主義的なスタンスの核心部分を見ていました。ところが最近
刊行された加藤博『イスラム世界の経済史』(NTT出版)によると、この「利子
収入を取らない」というのは、原理主義的な解釈を取る立場なのだといいます。
利子を表すリバーというアラビア語には、同時に高利の意味があり、かつてはそ
ちらの意味に取るのが普通だったという話です。コーランによるリバーの禁止
が、高利ではなく利子そのものの禁止と解釈されるのは、ごく最近のことなので
すね。

『緑の……』は確かに、資本主義批判を前面に出すあまり、ややイスラムを理想
化しすぎているきらいがありました。とはいえ、イデオロギーとしての資本主義
とは別の形で、イスラム世界が豊かな市場経済を育んできたのも事実です。する
とやはり、両者の差異がどこから生じているのかという点が気になってきます。
『イスラム世界の経済』によれば、キリスト教世界とイスラム教世界がその後大
きく異なっていくそもそものきっかけは、「利子の取得を容認し、正当化するた
めの法的手続き」の違いにあるのだといいます。カトリックは教会法とは別の規
範で正当化し、イスラムはあくまでイスラム法内部で正当化していくのだ、とい
うわけですね。このあたり、西欧との比較論など、もっと詳しく知りたいところ
です。

『イスラム世界の経済』ではまた、イスラム中世の経済論についても簡単に振り
返っています。商業が盛んになったアッバース朝(8から13世紀)以後、商人の
利潤追求を擁護する論が登場し、後の14世紀には、イブン・ハルドゥーンが体
系的な記述を残しているといいます。ハルドゥーンは文明論的な視点で、近代経
済学の先駆けともいうべき労働価値説、社会分業論を展開していたのですね。

こうしたイスラム世界の先進性は、たとえばアヴェロエス(イブン・ルシュド)
にも見られるようです。カルメラ・バフィオーニ編『アヴェロエスとアリストテ
レスの遺産』("Averroes and the Aristotelian Heritae", Guida, Napoli,
2004)所収のドミニク・ユルボワ「アヴェロエスの貨幣観」という論考では、
貨幣を考えるにあたって意識的に時間概念を導入している点が、アヴェロエスの
斬新さなのだと論じています。貨幣へのコメントは『ニコマコス倫理学』への注
解に見られるといいます。アリストテレスのテキストを越えて、貨幣には交換と
尺度の機能のほかに、将来の取引を見越した蓄えの機能があることが示される、
というわけです。

西欧では、12世紀から13世紀以降に商業が盛んになるわけですが、その過程で
教会の教えと現実との軋轢が表面化していきます。当時はまたアラブ世界との交
流も盛んになる時期ですが、アヴェロエスのような貨幣論への時間概念の導入
は、西欧ではちょっと見当たらない気がします(実際のところ貨幣論・経済論そ
のものがほとんどない感じですが、どうなのでしょうね?)。ユルボワは上の論
考で、アル・マクリージー(14〜15世紀)とニコル・オレーム(14世紀)の貨
幣観が似ている事例を引き、アラブ世界と西欧世界のそれぞれに現れた経済論
は、書物の系譜的関係というよりも、両文明圏が同じような問題に対応する中で
生じた照応ではないか、との立場を取っています。上の『イスラム世界の経済』
では、西欧中心史観がさかんに批判されていますが、西欧の内部においても、た
とえばユダヤ教での経済観はどうだったのか、といった問題があるように思えま
す。12世紀ごろにはすでに排斥を受け、金貸しになることを余儀なくされてい
くユダヤ人ですが、どのような経済観・社会観を持っていたのでしょう?経済を
めぐる中世の動向は、なんだかまだ不明なことばかりです。今後の研究に大いに
期待したいところですね。


------中世の古典語探訪「ラテン語編」------
第13回:様態を表す副詞

前回は形容詞の比較級、最上級の話でしたが、不規則形もいくつかあります。
bonus - melior - optimus、malus - pejor - pessimusなどの不規則なものはそれ
ほど多くないので、ちゃんと抑えておきたいところです。(magnus、parvus、
propinquus、multiあたりの比較級、最上級を復習しましょう)。また、劣性の
最上級(最も〜ない)は、原形にminimeをつけるのでしたね。

今日の本題は形容詞から作る「様態の副詞」についてです。副詞ですから動詞の
補語になります。作り方は、第1類形容詞なら語根に-eの語尾をつける、第2種
形容詞なら-terをつけるというのが基本です。
miser -> misere(悲惨に)
doctus -> docte(賢く)
fortis -> fortiter(果敢に)
prudens -> prudenter(慎重に)

もちろん例外もいろいろとあります。bonus -> beneなどが代表例ですが、さら
に形容詞中性形の奪格(または対格)から作るものもあります。
facilis -> facile(容易に)
falsus -> falso(偽って)

名詞の奪格形が副詞として固定されたものもあります。
jus -> jure(合法的に)
fors -> forte(偶然に)

ほかにもいろいろな派生形として作られた副詞があります。fere(ほとんど)、
vix(やっとのことで)、praesertim(とりわけ)など、いろいろありますね。

これら様態の副詞の比較級、最上級も見ておきましょう。比較級はもとの形容詞
の中性形比較級と同じです。fortiterの比較級はfortiusになります。最上級はも
との形容詞の最上級の語尾を-eに変えます。fortiterの最上級はfortissimeとな
ります。劣等比較、同等比較、劣性の最上級の場合には、それぞれminus、
tam、minimeをつけます。minus docte(より賢くなく)、tam docte(同様
に賢く)、minime docte(まったくもって賢くなく)。

(このコーナーは"Apprendre le latin medieval", Picard, 1996-99をベースに
しています)


------文献講読シリーズ-----------------------
プロクロス『神学提要』その10

今回は提題13を見てみます。オリジナルテキストはこちらに掲げておきます。
http://www.medieviste.org/blog/archives/000575.html

# # #
(13)すべての善は、それに関与するものを一つにまとめる。一をなすあらゆ
るものは善であり、善は一と合致する。
 善が存在するすべてのものを救うのであれば(ゆえにすべてはそこに向か
う)、また、それぞれの実体を救い、まとめ上げるのが一であるのなら(一に
よってすべては救われ、個々の分散は実体を変容させてしまう)、(善が)見い
だされるかぎりにおいて、善はかかる一をもたらし、一つにまとめるのである。
 また、一が結びつきをもたらし、存在をまとめ上げるのだとすると、それぞれ
はみずからの現れにおいて完成にいたる。それによってあらゆるものが一をなす
ことは、善なのである。
 一つにまとまることがそれ自体で善をなし、善が一を作り出すのなら、単純に
善であるもの、単純に一つであるものは、存在を据えるとともに、存在に善をも
たらす。なんらかの形で善から脱落したもの、また同時に一から脱落したものに
は、そうした関与が失われている。一に関与しないものは、分断によって貫か
れ、まさにそうした形で善を欠いているのだ。
 ゆえに善性は一性にあり、一性は善性にある。善は一であり、一は最初の善な
のである。
# # #

「善」と「一」との合一を説いた箇所です。今回の箇所で内容的に一区切りつき
ます。プロクロスの『神学提要』は211の提題がありますが、内容的には大きく
14のテーマに分かれるとされ、ここまでで最初の2つのテーマ(一と多につい
て、因について)を読んでみたことになります。『神学提要』を取り上げたそも
そもの動機は、「一」から「多」がいかにもたらされるか、ということを考えよ
うということでしたが、まだまだ端緒にもついていない感じがします。でも、こ
こは焦らず読んでいきたいと思います。

『神学提要』は内容が凝縮されているために、時に言葉が足りていないような印
象も受けます。そもそもこうした抽象的な議論がなぜ神学と呼ばれるかという
と、それはプロクロスが、プラトンの著作に散見される存在論やコスモロジー
を、統一的な体系的にまとめ上げようとしているからですね。プロクロスのもう
一つの主著とも言うべき『プラトン神学』では、プラトンの『パルメニデス』の
存在論や『ティマイオス』の宇宙開闢論、『パイドロス』『国家』などの創造神
にまつわる部分などを、プロティノスのヌース論なども引き合いに出しながら、
「神学」として統一しようとしています。これもまた面白いテキストなので、今
後できれば言及していきたいと思います。

プロクロスが「神学」としてまとめる以前にも、こうしたプラトン主義の神学的
素地は、早い段階からキリスト教の教説に重なると見なされて、キリスト教世界
に取り込まれていくのでした。アウグスティヌスは『神の国』でプラトン思想の
近似性を指摘しています。また、はるか後世になりますが、12世紀のアベラー
ル(アベラルドゥス)なども、その『三位一体論』でプラトンを擁護していま
す。特に重要なのはやはり『ティマイオス』でしょうか。中世に流布したものと
してカルキディウスによる注解が有名ですが、プロクロスにも注解があります。
このあたりも折りに触れて見ていければと思います。

さて、前回予告しましたように、次回からは『神学提要』と『原因論』を併せて
読んでいくことにしましょう。さしあたりイデアや形相について論じている部分
を取り上げてみます。というわけで、次回は『原因論』の提題10、『神学提
要』の提題177を見ていきます。お楽しみに。


*本マガジンは隔週の発行です。次回は09月10日の予定です。
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http://www.medieviste.org/
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投稿者 Masaki : 2005年08月29日 11:29