2005年10月24日

No.67

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.67 2005/10/22

------イベント情報---------------------------
食の秋

中世プロバーとかではないのですが、いかにも秋にふさわしい研究イベント(フ
ランス関連)が東京の日仏会館、日仏学院で行われているようです。日仏会館で
は「食とグローバリゼーション」というタイトルのもと、映画上映や講演会、シ
ンポジウムなどが行われています。ちょっとマークしていなかったのですが、
10月15日・16日には「歴史的観点から見る料理」というシンポジウムがあった
ようです。当日のプログラムを見ると、「ルネッサンス期のヨーロッパにおける
すべての食物の連鎖」(アレン・グリエコ)なんて実に面白そうな題目の講演も
あります。ルネッサンス期の文化的基盤は中世のそれといわば地続きですから、
個人的にはちょっと聴いてみたかった気がします(食物の連鎖って、なんだか存
在の連鎖あたりの話なんか絡んできたりしそうですよね……)。11月の始め
に、今度は「飲むことの様態とその世界」というシンポジウムが予定されていま
す。

このイベント、副題として「ブリア・サヴァラン生誕250周年記念」と銘打って
います。ブリア・サヴァランというのは18世紀の美食家なのだそうで、ラム酒
生地のケーキ「サヴァラン」はその人物にちなんでつけられたものだそうです
(『フランス・食の事典』、日仏料理協会編、白水社)。日仏学院のイベントの
ほうも、「飲むことと食べること」と題してこのサヴァランを記念し、講演会や
展示会のほか即売会まで予定されています。29日にはなんとあのタイユバンの
料理を再現するイベントもあるのだとか。タイユバンは有名な14世紀の料理人
ですね(本名はギヨーム・ティレル)。フランス語最古の料理書『Le
Viandier』を記した人物でもあります。今日のフランス料理の基礎(4回に分け
るサーヴィス方法など)は、このタイユバンに由来するのだといいます。再現イ
ベントのほうは、予定のメニューも掲載してあります(アーモンドのポター
ジュ、子羊のミント煮、鶉肉のチーズ詰め、ブラマンジェ、洋梨のパテ、オレン
ジのコンフィ)。

食の歴史というのも、まだまだ未知の部分が多いように思います。中世の文献
も、13世紀ごろまでは食への直接の言及というのはそれほど多くなさそうです
が、上の食物の連鎖という表現で思ったのは、当然絡んでくる自然誌・博物誌的
な問題です。このあたり、なかなか見逃せないテーマではあります。ご興味のあ
る方は以下をチェックしてみてください。

日仏会館のイベント情報:http://www.mfj.gr.jp/index-j.html
日仏学院のイベント情報:http://www.ifjtokyo.or.jp/culture/index_j.html


------中世の古典語探訪「ラテン語編」------
第17回:分詞

今回は「分詞」です。英語の「ing」形に相当するものです。ラテン語にはこれ
に現在・完了(受動)・未来の時制があるのでした。

現在分詞の作り方は基本的に-nsの語尾をつけて、amans、audiensのようにし
ます。この語尾は例によって格変化します。変化は辞書などでご確認ください。
注意が必要なのは単数の奪格で、-nteないし-ntiになります(後者は与格と一緒
ですね)。完了分詞は語根に第一変化形容詞の語尾-us、-a、-umが付いた形
で、amatusのようになります。未来分詞は語根に-urus、-ura、-urumが付きま
す。

分詞はまず形容詞のように使うことができるのでした。sequenti annoというと
「翌年」ということになります。また名詞としても使われます。audientesで
「聴衆」、circumstantesで「周囲の人々」を指したりします。また、名詞を形
容する形で付帯状況を述べることができます。例:Avarus propriae est causa
miseriae, ingerens sibi sitim avaritiae.(「強欲な者は、その欲求を自分に吹き
込むがゆえに、貧困の原因になる」)、Audiens sapiens sapientior est(「人
の話を聞くことで、賢者はいっそう賢くなる」)。

中世のラテン語では、現在分詞にsumを伴うことがあります(ウルガタ聖書以
降)。例:qui dum erat orans in cubiclo suo vocem audivit (「自室で祈りを
捧げている最中に、彼は声を聞いた」)。この点には注意が必要かもしれませ
ん。

(このコーナーは"Apprendre le latin medieval", Picard, 1996-99をベースに
しています)


------文献講読シリーズ-----------------------
プロクロス『神学提要』その14

今回は『原因論』の提題12(または13)と、それに対応しているとされる『提
要』の提題167を見てみます。例によって原文はこちらに挙げておきます。
http://www.medieviste.org/blog/archives/000619.html

# # #
『神学提要』提題167

(167) すべての知性は自分自身について知解する。ただし、第一の知性は自分
自身についてのみ知解し、そこでは知性とその対象は数の上で一つとなる。それ
に続くそれぞれの知性は、自分自身と先行するものについて知解する。そこでの
知性の対象は、あるがままのそれ自身であるとともに、それが生じたもとであ
る。
 あらゆる知性は、自分自身を、あるいは自分の上位のものを、または自分に続
くものを知解する。
 だが、後に続くものを知解する場合、知性的存在は下位のものに向かう。だが
その知性は、向かった先の対象をみずからは認識できない。というのもその場
合、知性は対象の内部にではなく外部にあるからだ。知性は、対象の刻印、つま
り対象によって内に生じたものしか認識できない。知性は自分が保持するもの、
受け取ったものを知るが、保持していないもの、受け取っていないものは知りえ
ない。
 上位のものを知解する場合、しかも自分自身の認識によって知解する場合、知
性は同時に自分自身をも知解する。上位のもののみ認識する場合には、知性的存
在は自分自身を認識できない。先行するもの全体を認識する場合、先行するもの
が原因をなしていることや、何の原因になっているのかも認識することになる。
それを認識できない場合、存在によってそれが導いたものも、それが導くもの、
導かないものも認識できない。先行するものが支え、原因となっているものを認
識すると、そこから、自分自身を支えるものも認識される。先行するものを認識
すれば、すべからく自分自身もまた認識されるのである。
 知解の対象になるなんらかの知性がある場合、その知性は自分自身を知るとと
もに、知解可能なものを知解の対象として、しかもおのれに一致するものとして
知る。後続するそれぞれの知性は、自分の中にある知解可能なものと、自分に先
行するものとを知解する。このように、知解可能なものは知性の中にあり、知性
は知解可能なものの中にあるのである。とはいえ、知性は知解可能なものに一致
するか、また自分の中にある「知解するもの」に一致するが、先行する知性とは
一致しない。絶対的な知解の対象と、知解するものの中にある知解の対象とは別
物なのだ。

『原因論』提題12(13):109節から114節

109 すべての知性は自分自身の本質を理解する。
110 知解するものと知解されるものとは同じだからだ。したがって知性とは知
解するもの、知解されるものであり、かくして疑いなく、自分自身の本質を目に
するのだ。
111 また知性は、自分自身の本質を目にする際、知性によって自身の本質を理
解するのだということも知る。
112 また知性は、自分自身の本質を知る際、下位にある残りの事物も知る。な
ぜならそれらの事物は、知性から生じたものだからだ。
113 とはいえ、それらが知性の中にあるのは、知解可能な形でである。した
がって知性と知解される事物とは一つである。
114 それはつまり、知解される事物と知性とが一つであり、知性は自分自身の
存在を知り、よって疑いなく、自分自身の本質を知る際には残りの事物をも知
り、残りの事物を知る際には本質をも知る、ということだ。というのも、残りの
事物を知るという場合、それらまで知るのは、それらが知解されるものであるか
らにほかならない。したがって、前述したように、知性は自分自身の本質を知る
と同時に、知解される事物をも知るのである。
# # #

今回の箇所は、知性の自己認識・自己同一性について論述されています。例に
よって、『提要』が細かく下位のものや上位ものについて考察しているのに対
し、『原因論』では「下位にある残りの事物」でひとくくりにしているほか、
『提要』が「自分自身(heauton)」を知解するとしているのに対し、『原因
論』では「自分自身の本質(essentiam suam)」を知解するとしています。
『原因論』の場合、どこか意味を明確にしようという意思が働いているように思
えます。一つにはテクストが翻訳を経ている(ギリシア語からアラビア語へ、さ
らにアラビア語からラテン語へ)ことによって、意味の明示指向が強まったと推
測できます。ですがそれだけにとどまりません。前回も少し触れたように、そこ
には体系的なシフトも絡んできていそうです。そもそも、多神教的な言及が散見
されるプロクロスに対して、『原因論』はあくあ一神教の観点から、余分な部分
を削除しているということも言えると思います。このこともまた、丁寧に追って
みたら面白そうですね。

さらに、前回紹介したダンコーナ・コスタの議論では、とりわけ重要な論点とし
て、第一原因と「純粋な」存在を同一視している点が『原因論』の大きな特徴だ
としています(プロクロスでは、第一原因の下に「実有(onto_s on」は来てい
るのでした)。さらにその存在は、永遠にも先立つものだとされているといい、
この点は、もう一つのソースではないかとされるプロティノスの『エンネアデ
ス』アラビア語版にも見当たらないといいます。ダンコーナ・コスタはここで、
意外なソースを出してきます。偽ディオニュシオス・アレオパギタの『神名論』
第5章です。そこでは神が「実有」に重ね合わされ、すべての事物の存在は『永
遠以前の存在から(ex tou proaio_no_s ontos)派生する」とされています。
『原因論』が、プロクロス、プロティノス、偽ディオニュシオス・アレオパギタ
が交差する場所になっているのですね。いや〜、新プラトン主義の広範な世界の
一端が浮かび上がってくるようで、とても興味深いです。そういうことを念頭に
テキストを改めて眺めると、抽象的でわかりにくいものが、なんだか色めきたっ
て見えてくるから不思議です(笑)。

さて、次回から今度は『原因論』の提題25から28をさらってみようと思いま
す。この箇所はちょうど『提要』の提題45〜48に対応する箇所で(ちょっと順
番は違うのですが)、実体について論じた箇所です。また、『原因論』の中世へ
の影響といった話も、少しだけでも触れていきたいと思っています。


*本マガジンは隔週の発行です。次回は11月05日の予定です。

投稿者 Masaki : 2005年10月24日 08:51