2005年11月20日

No. 69

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.69 2005/11/19

------クロスオーバー-------------------------
異教的なものをめぐる雑感

このメルマガでも4月以来プロクロスを読んでいるわけですが、新プラトン主義
の不可思議さを強く感じます。中世キリスト教世界にとっての「異教」が、その
親和的な部分を手がかりに、見事に受容され取り込まれていく様は、変な言い方
ですが実に鮮やかでもあります。この同じ心性は、より世俗的な世界にも通底し
ているのでしょう。その一つの表れは、トルバドゥールなどが歌う宮廷恋愛の文
学的伝統です。伊藤勝彦『愛の思想史』(講談社学術文庫、2005)の第三章で
は、そうした中世の理想化された恋愛の起源をめぐって考察をめぐらし、異教的
な女神崇拝の流れとして位置づけています。一つには、プラトン主義的な美への
憧憬が底流としてあると指摘されるのですが、ギリシア的な愛の原型は少年愛
(パイデラスティア)ですから、中世の恋愛感とはだいぶ異なります。そこで引
き合いに出されるのがドニ・ド・ルージュモンの説で、古代ケルトの女神崇拝や
カタリ派などのマリア崇拝がそこに影を落としている、というものです。それは
遡れば、イラン・ペルシャ・インドなどのはるか東方の宗教的な流れを汲んでい
る、ということになるわけですね。

ギリシア思想と東方の宗教思想とが相互に照応しあって、中世の女性崇拝を導い
ている(それは理想化された女性像を讃え、現実の女性を軽視するという意味で
は、多分に女性蔑視的なものを含んでいたわけですが)、というのが同書の著者
の見解ですが、どちらの思想潮流も二元論的で、しかも肉体的なものを越えたと
ころにある形而上的なものへの合一を目指すという立場ですから、キリスト教世
界には、当然ながら神秘主義という形で取り込まれていきます。同書も指摘する
ように、キリスト教は天上世界と地上世界との間に絶対的な溝があるとするわけ
ですが、一方の異教的な思想では、天上世界への合一こそが理想とされるわけで
すね。両者はこの決定的な矛盾を抱えているのですが、しかしながら神学者に
とって、このあたりの思想的融合に筋道をつけることは、一種「腕の見せ所」な
のかもしれません。たとえばアルベルトゥス・マグヌスは、天上世界(キリスト
教でいえば神ですが)との合一は人間の限られた知性ではありえないという認識
で、そうした合一の可能性を斥けているように見えます。ところがマイスター・
エックハルトになると、その合一への道をさらに微妙に進め、ぎりぎりの臨界ま
で踏み込んでいこうとします。エックハルトはそのせいで異端審問を受けるので
した。

神秘主義の流れについても、上の宮廷恋愛の流れについても、その後の中世末期
からルネサンス期、果ては近世にいたるまで、社会の中でさらにどう扱われどう
変化していくのかも気になります、もとよりこれは大きな問題ですが、今では研
究の層もかなり厚くなっていると聞きます。そうしたテーマについても、今後ぜ
ひ改めて注目してみたいところです。


------中世の古典語探訪「ラテン語編」------
第19回:形式受動動詞&奪格の用法(1)

ラテン語やギリシア語に特徴的なものに、形は受動態なのに意味は能動態とい
う、いわゆるdeponentia(異態動詞=形式受動動詞)があります。初めて文法を
習う時、このあたりはとても面白く感じますよね。第1変化から第4変化までい
ろいろありますが、いずれもよく使われる動詞が多いので、ぜひとも押さえてお
くべきところです。imitor(模倣する)、vereor(恐れる)、utor(仕える)、
patior(被る)、largior(施す)などなど。

分詞になった時には多少注意が要ります。過去分詞の場合には形は受動態で意味
は能動ですが、現在分詞、未来分詞の場合には能動態の形で意味も能動となりま
す。imitorの場合、それぞれimitatus、imitans、imitaturusとなりますが、意
味は能動です。また、中世ラテン語では、本来形式受動動詞だったものがそうで
なくなったり、普通の動詞が形式受動動詞になってたりといった変容も見られる
のですね。

さて、前回には奪格の絶対用法を取り上げましたが、ラテン語の奪格はほかにも
様々な付帯状況・補足情報を表すために用いられます。一般に用法は3種類に大
別されるようで、起点を表す本来の用法(〜から)、手段の奪格、起点以外の場
所の奪格となります。

本来の用法といわれるものはさらに細かくわかれます。一般に、奪格本来の用法
(場所、時間などの起点を示す)には、前置詞deやexを伴う場合が多いのです
ね。古典ラテン語では地名には前置詞がつかないのですが、中世ラテン語では地
名にもつきます。
- De civitate regressus est.(彼は町から戻ってきた)
- De Wormantia redeo.(私はウォルムスから帰る)

起点を表すという意味のつながりのため、比較級の補語にも使われます。また受
動態の意味上の主語を表すためにも使われます(前置詞abをとるのが普通で
す)。さらに原因や素材を表す用法もありますね。
- doctior Petro(ペトルスより博識の)
- provincia ab hoste diripitur. (その地方は敵によって荒らされた)
- aeger ex vulnere(怪我による病気)

また、本のタイトルなどでよく見かける、「〜について」という用法もありま
す。ボエティウスの『哲学の慰め』は「de consolatione philosophae」です
ね。手段の奪格、場所の奪格(起点以外を表す)は次回に(笑)。

(このコーナーは"Apprendre le latin medieval", Picard, 1996-99をベースに
しています)


------文献講読シリーズ-----------------------
プロクロス『神学提要』その16

今回は『神学提要』の提題46と、それに対応する『原因論』の提題26(187〜
190節)を見てみましょう。例によって原文はこちらに掲げておきます。
http://www.medieviste.org/blog/archives/000642.html

# # # #
『神学提要』:
(46)自立するものはすべて、朽ちらないものである。
 もし朽ちるのであれば、それはみずからを放棄することであり、おのれ自身を
欠くことになる。だが、それはありえない。なぜならそれは一なる存在であり、
原因であるとともにそこから生じた結果でもあるからだ。朽ちゆくものはすべ
て、みずからの原因から隔たることによって朽ちるのである。まとめあげ保つも
のがある限りにおいて、それぞれはまとまり、保持されるのだ。自立するものは
原因を放棄することはないし、みずからを放棄することもない。なぜなら原因は
おのれ自身にあるからだ。かくして、自立するものはすべて朽ちることがないの
である。

『原因論』:
187 自立する実体はすべて、退廃に堕することはない。
188 自立するものも退廃に堕することがありうると言う向きには、こう述べよ
う。仮に自立するものが退廃に堕することがありうるとするならば、おのれの本
質が分離し、それでいて、おのれの本質を欠いたままおのれの本質によって立つ
ことによって存続しうる、ということになる。これでは不都合であり、そもそも
ありえない。というのも、それは一をなし単体であって構成されたものではない
がゆえに、みずから原因であると同時に結果でもあるからだ。だが退廃に堕する
すべてのものは、おのれの原因から分離するせいで堕するのである。一方、みず
からの原因に依存し、それを保持し維持するものは、滅ぶことも破壊されること
もない。そのようなものであるなら、おのれの本質に依って立つ実体の原因は決
して離れることがない。というのも、(その原因は)おのれの本質から分離する
ことはできないからだ。それゆえ、原因それ自体はみずからの形成の中にあるこ
とになる。
189 それがおのれの原因をなすのは、あくまでおのれの原因に対するおのれの
関係ゆえである。そしてその関係とは、その形成のことである。それゆえ、たえ
ずおのれの原因に関係し、みずからがその関係の原因でもある以上、われわれが
述べた「それは朽ちることも破壊されることもない」という形で、それはおのれ
の原因そのものをなしているのである。というのも、少し前に述べたように、そ
れは原因であると同時に結果でもあるからだ。
190 したがって、自立するすべての実体は破壊されることも腐敗することもな
いことが、論証されるのである。
# # # #

自立する、というのはみずからに依って立つという意味です。自立するものと
は、他の原因によらないものということで、多神教的な『神学提要』においてな
ら、神(々)のこと、そこから生じる実有(=存在)などをひっくるめたもの、
などと解釈できるわけですが、『原因論』はイスラム教世界を経由してラテン・
キリスト世界に入ってきたわけで、当然、一神教的なフィルタがかかっていま
す。この箇所では実体という言葉をもってきて、そうした多神教的な解釈、ある
いは階層論的な解釈をうまく避けているように思われます。自立するもの、では
なく自立する実体と言い換えることで、そんなものは一つしかないということ
を、言外に込めているのではないでしょうか。確かに「すべて」という言葉が使
われてはいますが、暗にそれが唯一神以外にないことを示しているというふうに
読めます。

さらに、実体という言葉を使ってしまったために、「みずからの原因から隔た
る」という部分も、おのれの本質からの分離、というふうに言い換えなくてはな
らなくなった感じですね。なんだかここには、言い換えでもって意味を方向づけ
ることが、さらに別の箇所にまで影響していくという、いわば解釈の連鎖的な運
動が働いている気がします。まさに注解という行為の力学を目撃しているかのよ
うです。

話のついでですが、例えば「誤訳」なども、解釈の方向性を決めてしまう要因に
なりえます(その意味では、訳出というのは責任重大な営為ですね)。プロクロ
スのラテン語訳にそうした「誤訳」が入り込み、それが解釈に影響を与えている
という事例が、マイスター・エックハルトの『ラテン語著作集第1巻』(邦訳も
最近出ていますが、ここで言っているのはフランスで刊行されたもの(CERF,
1984)です )の解説部分(p.188)に紹介されています。それによるとエック
ハルトは、「あれ」や「これ」といった個別の存在は、それらが派生した「存在
そのもの」へと一部を返すのだ、というようなことを言っているのだとか。とこ
ろが実はこの部分、『神学提要』の提題34のラテン語訳が、「その原理に掛か
るのである(ane_rte_tai)」という一文を「その原理に帰るのである
(recurrit)」と訳したために生じた解釈のズレなのだそうです。エックハルト
は、その訳語にそって解釈を練り上げ、本質的な存在と現存在の関係という議論
を深めていきます。なかなか興味深い話ですね。誤読・誤解が時にいっそう精緻
な議論を生んでいくという見事な事例です。考えてみると、誤読・誤解が議論の
もとになっているという事態は、私たちも結構遭遇していることです。そもそ
も、ある種の誤読というのは思想的営為そのものの根幹に組み込まれている、な
どとも言われます。となると、それが正当化されるかどうかはどこに掛かってく
るのでしょうね?そこから展開される議論がどれだけ生産的かという点でしょう
か?うーん、悩ましい問題です(笑)。

さて次回は、『原因論』の27節と、『神学提要』の対応箇所である提題48を見
ていきます。また、いよいよ大詰めですので、中世におけるプロクロスの受容、
『原因論』の受容という問題についても大まかなアウトラインをおさらいしてい
きたいと思います。


*本マガジンは隔週の発行です。次回は12月03日の予定です。

投稿者 Masaki : 2005年11月20日 15:37