2006年04月24日

No. 79

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.79 2006/04/22

------お知らせ--------------------------------
*今号は都合により短縮版といたします。
*5月の連休中はお休みとさせていただき、次号は5月13日の発行となります。


------中世の古典語探訪「ラテン語編」------
(Based on "Apprendre le latin medieval", Picard, 1996-99)

第29回:接続法、その2

接続法について、前回は形についてコメントしましたので、今回は用法について
見ていきましょう。一般に、接続法の主要な用法には、非現実話法、要求話法、
可能話法などがあります。今回は最初の非現実話法をまとめましょう。

非現実話法とは、要するに欧米語での仮定法ないし条件法のことです。ラテン語
では、これに接続法が用いられます。「もし〜なら、〜だったのに」というやつ
ですね。si + 接続法で条件節をつくり、主節にも接続法を用います。両者は同じ
時制になるのが一般的です。

Si venias cras, laetus sim (明日君が来てくれた、僕は嬉しいだろう)
Si venires, laetus essem (君が来てくれたら、僕は嬉しいのに)
Si venisses, laetus fuissem (君が来てくれていたら、僕は嬉しかっただろう
に)

接続法現在だと、これからの可能性を表します。接続法未完了だと、現在におけ
る非現実を表します。「君は今来ていないので、僕はうれしくない」ということ
です。過去完了だと、過去において非現実だったことを表します。「君があの時
来てくれなかったので、僕は嬉しくなかった」ということですね。

また、主節だけで、「〜ならいいな」「〜だったらよかったのに」という言い方
は、utinam + 接続法とします。

Utinam dives sim !(いつかお金持ちになりたい)
Utinam dives essem !(お金もちならよかったのに)
Utinam dives fuissem !([あのとき]お金持ちだったらなあ)

これとの関連で、接続法だけの文で、意思や命令、禁止などが表現できます。
faciat(彼がそうしてくれればなあ)、ne id facias(それはやめておけ)など
です。自問自答の表現として、quid faciam(私にどうしろというのだ)なども
あります。また、dixerim(僕はそう言うだろう)のように、完了形を使えば婉
曲語法になります。


------文献講読シリーズ-----------------------
グイド・ダレッツォ『ミクロログス』その8

今回はオクターブ(ディアパソン)を扱った5章を見てみます。

# # #
Capitulum V
De diapason et cur septem tantum sint notae

Diapason autem est in qua diatessaron et diapente iunguntur; cum enim ab .
A. in .D. sit diatessaron, et ab eadem .D. in .a. acutam sit diapente, ab .A.
in alteram .a. diapason existit. Cuius vis est eandem litteram in utroque
habere latere, ut a .B. in .[sqb]., a .C. in .c., a .D. in .d. et reliqua. Sicut
enim utraque vox eadem littera notatur, ita per omnia eiusdem qualitatis
perfectissimaeque similitudinis utraque habetur et creditur.

第5章
オクターブ、およびなぜ表記は7種類なのか

ディアテサロン(四度)とディアペンテ(五度)を合わせたものをディアパソン
(オクターブ)という。AからDがディアテサロン、同じDから高いaがディアペ
ンテ、するとAから別のaまでがディアパソンということになる。特徴として、B
から#、Cからc、Dからdなどというように、いずれも同じ文字になっている。
どちらの音も同じ文字で表されるように、どちらも同じ性質をもち、完全に類似
しているように受け止められる。

Nam sicut finitis septem diebus eosdem repetimus, ut semper primum et
octavum eundem dicamus, ita primas et octavas semper voces easdem
figuramus et dicimus, quia naturali eas concordia consonare [-109-]
sentimus, ut .D. et .d. Utraque enim tono et semitonio et duobus tonis
remittitur, et item tono et semitonio et duobus tonis intenditur. Unde et in
canendo duo aut tres aut plures cantores, prout possibile fuerit, si per hanc
speciem differentibus vocibus eandem quamlibet antiphonam incipiant et
decantent, miraberis te easdem voces diversis locis, sed minime diversas
habere, eundemque cantum gravem et acutum et superacutum tamen
unice resonare, hoc modo:

(一週間が)7日で一区切りとなり、同じものを繰り返すのと同様に、最初の音
とオクターブは常に同じ名前とするように、最初とオクターブは同じ音を表すも
のとし、同じ名前とするのである。というのも、私たちは自然に、Dとdなどが
協和的に共鳴すると感じるからだ。それぞれ、全音、半音、全音2つ下がるか、
全音、半音、全音2つ上がる。こうして、2人ないし3人、あるいは可能な場合そ
れ以上の歌い手で歌う場合、こうした音の隔たりで同じ任意のアンティフォナを
最初から最後まで歌うなら、同じ音とはいえ異なる高さなのに、まるで違いを感
じさせず、低音、高音、超高音が一つに響くことに、あなたは驚きを覚えるだろ
う。例をあげよう。

(図)(http://www.medieviste.org/blog/archives/guid031.html

Item si eandem antiphonam partim gravibus partim acutis sonis cantaveris
aut quantumlibet per hanc speciem variaveris, eadem vocum unitas
apparebit. Unde verissime poeta dixit: septem discrimina vocum, quia etsi
plures fiant, non est aliarum adiectio sed earundem renovatio et repetitio.
Hac nos de causa omnes sonos secundum Boetium et antiquos musicos
septem litteris figuravimus, cum moderni quidam nimis incaute quattuor
tantum signa posuerint, quintum et quintum videlicet sonum eodem ubique
charactere figurantes, cum indubitanter verum sit quod quidam soni a suis
quintis omnino discordent nullusque sonus cum suo quinto perfecte
concordet. Nulla enim vox cum altera praeter octavam perfecte
concordat.

同様に、あなたが同じアンティフォナを部分的に低音で、部分的に高音部で歌う
場合にも、その隔たり(オクターブ)で変化させると、同じ音の統一が得られる
のである。かくして詩人は正しく次のように述べている。「音は7つに分けられ
る」と。というのも、たとえ音はもっと多いにしても、それは別の音が付け加
わっているのではなく、同じ音を繰り返し用いているからなのだ。ゆえにわれわ
れは、ボエティウスと古来の音楽家たちにしたがい、すべての音を7つの文字で
表したのだ。当代の一部の者は、不注意にも4つの記号のみを掲げてきた。5つ
めの音については、5つめとなるごとに同じ文字を(繰り返し)用いて表してい
るが、5つめとまったく調和しない音もあること、またどの音も(5つめとは)
完全な調和にいたらないことは、疑いようのない事実である。オクターブ以外
に、完全な調和となる音はない。
# # #

ディアパソンもまたギリシア語からのもので、「隔たり」を表す「ディア」と、
「全体」を表す「パス」を組み合わせた言葉です。途中の図は、ディアパソンで
の歌の実例で、前と同様、仏訳本(Colette & Jolivet)から取ったものです。上
で言及される詩人というのは、ウェルギリウスのことです。『アエネイス』から
のものなのですね。

今回は本文でボエティウスの名前が登場しました。ボエティウスは5世紀末から
6世紀初めに活躍したローマの哲学者ですね。『哲学の慰め』などが有名です
が、代表的著書の一つに『音楽教程(De institutione musica)』があり(510
年頃に書かれたもの)、これがカロリング朝において再発見され、中世を通じて
音楽教育の参照元として使われていきます。そこでもまた、プラトン主義的な数
比的な宇宙論が取り込まれていています。余談ですが、この『音楽教程』の羅仏
対訳本が少し前に刊行されています("Traite de la musique", trad. Christian
Meyer, Brepols, 2004)。グイドも当然ながら、やはりボエティウスを下敷き
にしています。

「当代の一部の者」が4つの記号しか使っていないというのは、再び仏訳本
(Colette & Jolivet)の注によると、10世紀の終わりごろから登場していた
『音楽教本(Musica Enchiriadis)』を暗に示した一節なのだそうです。そこで
は、終止のテトラコルドを表すために4つの記号を用い、その同じ記号の上下を
逆にしたり左右対称にしたりしてその他のテトラコルドを表すという手法が用い
られています。この本の一部が、ドイツの音楽書アンソロジー(Landwehr von
Pragenau, "Schriften zur Ars Musica", Heinrichshofen, 1986)に再録されて
いるのですが、これ、かなり複雑な表記になってしまっています。

さらに余談ですが、グイドの著作集が羅伊対訳本で出ています(Guido
d'Arezzo, "Le opere", trad. Angelo Rusconi, Edizioni del Galluzzo,
2005)。今後はこちらも参照していくことにしましょう。次回は6章を見てい
きます。四度、五度、オクターブなどの説明が続きます。お楽しみに。


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投稿者 Masaki : 2006年04月24日 22:45