2006年05月29日

No. 81

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.81 2006/05/27


------クロスオーバー--------------------------------
一次的研究と二次利用(の狭間?)

このところ、中世の経済をめぐる対照的な二冊を読みました。一つは中世の経済
思想の変遷を論じた大黒俊二『嘘と貪欲』(名古屋大学出版会、2006)、もう
一つは経済学の理論でもって中世の経済体制の成立を説明づけるアヴナー・グレ
イフ『制度と近代経済への道−−中世貿易からの教訓』(Avner Greif,
"Institutions and the Path to the Modern Economy - Lessons from Medieval
Trade", Cambridge, 2006
)です。前者はとくに思想史的な文脈で、利得行為
がどのように許容され、さらには制度化されていくかを、当時のスコラ学の文献
や教化史料(説教集など)を通じて探っていくという力作です。後者は、経済学
のとりわけゲーム理論などに依拠しながら、地中海貿易、とくに11世紀以降の
マグレブ(チュニジアなど)の貿易商、あるいは12世紀以降のジェノヴァなど
において、商業ギルドや国家などの制度がどう構築されていくのかを、経済学の
数式などを用いて定式化していくという研究書です。

いずれも中世へのアプローチとして興味深いのですが、両者には、中世の「一次
的研究」と「二次利用」という違いがあります。前者が、原史料を読み込み、そ
の作業を通じて歴史学的成果を海だそうとするものなのに対して、後者はむしろ
歴史学の成果をベースに、そこからなんらかの理論的言説を練り上げようという
作業です。いわばこれ、歴史学と歴史哲学の差に近いものです。中世史をそれ自
体として探求するプロパーな研究と、場合により近代的な概念装置などに照らし
て中世史を眺めていくものの違いですね。後者はまた、中世史を眺めることに主
眼を置くか、それとも概念装置の検証に主眼を置くかでさらに二分されていきそ
うです。

これらはそれぞれ目的とするところが違うので、一概に一方の側から他方の側を
責めても仕方ないのですけれど、前者のプロパーな側から、後者にむけて検証努
力の不備が批判されたり、事象の流用の仕方への問題が指摘されたりすることも
あります。逆に後者からも、前者の議論がたこつぼ的で、「歴史認識」が本来投
げかける(べき)諸問題へと開かれていく契機がない、といった批判が出ること
もあります。こうした双方のやりとりが、相互に切磋琢磨していくのであれば
まったく問題はないのですが、現実には互いにそっぽを向いてしまうことが意外
に多いようです(とくに、後者の作業に関わる人には、前者からすると「門外
漢」が多数含まれてしまうのも原因の一つでしょう)。

ですが、ではそういう一見相容れない部分に、橋を架けるようなことははたして
できないものなのか、ということも考えてみたくなります。中にはそういう試み
もないわけではなさそうです。形としては後者の側から前者へと接近していく感
じになるのでしょうか。たとえば思想史の場合、そうした一種の「往還」ができ
れば、もしかすると豊かな実りをもたらすかもしれないという印象があります。
今ちょうど読みかけなのですが、エマヌエレ・コッチャという人の『想像力の透
明度−−アヴェロエスとアヴェロエス主義』(Emanuele Coccia, "La
trasparenza delle imagini - Averroe e l'averroismo", Bruno Mondadori、
2005
)などは、多くの場合あくまで思想史的な位置づけとしてしか捉えられな
いアヴェロエスの思想から、歴史哲学的なコンテキストや知性をめぐる諸問題を
読み込もうとしているような一冊で、なかなかスリリングです。「アヴェロエス
思想にまだ生かす可能性の部分なんてあるの?」なんて思う向きは、これはもう
著者の術策にはまっていくしかありません(笑)。いずれ詳しいことも取り上げ
てみたいところですが、とにかく同書では、思想を歴史として死蔵させること
と、問題系として生かすことの狭間を、あらためて考えさせられます。


------中世の古典語探訪「ラテン語編」------
(Based on "Apprendre le latin medieval", Picard, 1996-99)

第31回:接続法、その4

フランスでは、教育特区の試験的試みとして、ラテン語、ギリシア語を教えると
いう中学が出てきているそうです。文化の根っ子の理解にもなるし、難しいなり
のトレーニングで学業にも好影響があるということで始まったものらしいのです
が、ちょっと注目したい試みですね。

さて、今回は接続法の4回目ということで、要求話法です。要求話法というのは
つまり、広い意味での要求を表す動詞を補足する節で使われる接続法です(その
ため、補足節の用法というふうにも言われます)。具体的には、ut + 接続法
(否定形ならne + 接続法)の形になります。
- Suadeo tibi ut venias. (僕は君に、来るよう説得する)
- Impero be venias(君に来ないよう命じる)

要求話法は前回取り上げた可能話法とオーバーラップしていく感じです。要求話
法でいう「要求」は、願いや恐れなどを表したりもするため、ときには目的のよ
うな意味合いが込められたりするからです。
- Ea mente id feci, ut populo prodessem.(僕は人の役に立つと思い、それを
行った)
- Timebam ne veniret. (僕は彼が来ないんじゃないかと思った)

今回はいささか短いですが、これだけです(笑)。あとは取り上げるのは間接話
法ぐらいかなと考えています。それを押さえたら、この復習の旅は一応完了とい
うことにしましょう。あと数回ですが、どうぞおつき合いください。


------文献講読シリーズ-----------------------
グイド・ダレッツォ『ミクロログス』その9

今回は6章を見ていきます。協和音のまとめの章ですね。

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Capitulum VI
Item de divisionibus et interpretatione earum

Ut autem de divisione monochordi in paucis multa perstringam, semper
diapason duobus ad finem passibus currit, diapente tribus, diatessaron
quattuor, tonus vero novem, quae quanto passibus numerosiores tanto
spatio breviores. Alias vero divisiones praeter has quattuor invenire non
poteris.
Diapason autem interpretatur de omnibus, sive quod omnes habeat voces,
sive quia antiquitus citharae octo per eam fiebant chordis. In hac specie
gravior vox duo habet spatia, acuta unum, ut .A. et .a.
Diapente dicitur de quinque; sunt enim in eius spatio voces quinque, ut a .D.
in .a. Sed gravis eius vox tria habet spatia, acuta duo.
Diatessaron sonat de quattuor, nam et quattuor habet voces, et gravior
eius vox quattuor habet spatia, acuta vero tria, ut a .D. in .G.

第6章
分割とその意味について

モノコードの分割について諸点を手短にまとめるなら、ディアパソンは(モノ
コードの)末尾まで2分割、ディアペンテは3分割、ディアテサロンは4分割、ト
ヌスは9分割となる。分割数が増えると、その分、間隔は短くなる。この4つ以
外に、分割する方法は見いだせない。
ディアパソンは「全体」の意味である。すべての音を包摂するから、あるいは古
代のキタラが8つの弦でそれを表していたからだ。この場合、Aとaのように、低
い音は(2分割したうちの)2つ分、高い音には1つ分が対応する。
ディアペンテは「5度」という意味である。というのも、Dからaまでのように、
音5つ分の間隔となるからだ。ただし、低い音は(3分割したうちの)3つ分、高
い音は2つ分となる。
ディアテサロンは「4度」である。4つの音の分の間隔だからであり、DからGま
でのように、低い音は(4分割したうちの)4つ分、高音は3つ分である。

Has tres species symphonias, id est suaves vocum copulationes memineris
esse vocatas, quia in diapason diversae voces unum sonant. Diapente vero
et diatessaron diaphoniae id est organi iura possident, et voces utcumque
similes reddunt.
Tonus autem ab intonando, id est sonando, nomen accepit qui maiori voci
novem, minori vero octo passus constituit. Semitonium autem et ditonus et
semiditonus, etsi voces ad canendum coniungunt, divisionem tamen nullam
recipiunt.

これら3種類の分割が、心地よい音の結合を意味する「協和」と呼ばれていたこ
とを思い出してほしい。ディアパソンでは、異なる音が一つに響くからだ。ディ
アペンテとディアテサロンは、「不協和」つまりオルガヌムの法則を宿し、それ
ぞれに応じて類似の音をもたらす。
トヌスは「叫び立てる」、つまり「響く」という言葉に由来しており、低い音で
(9分割したうちの)9つ分、高い音で8つ分となる。セミトヌス(半音)、
ディトヌス(長3度)、セミディトヌス(短3度)は、歌に音を添えるものの、
分割はなされない。
# # # #

今回の箇所はまとめの章ですので、あまりコメントすることはありません
(笑)。協和・不協和と訳したsymphoniaとdiaphoniaですが、厳密にはオク
ターブが真の協和で、5度、4度には不協和の法則(jus)があるというのが興味
深いですね。

前回言及した当時の音楽書『音楽教本(Musica Enchiriadis)』などに比べる
と、アルファベットを使うグイドの音価対応方式の記述はかなり合理的なものに
なってはいます。ですが当時の音楽は、例えばカデンツァの装飾音などが新たに
出てきたり、伝統的な旋律がバスの地位に追いやられ、上の声部が新たに加えら
れたり、メリスマ(歌詞の1音節に複数の音を当てること)が登場したりと、い
ろいろ斬新な変化があり、グイドの表記法も、そうした時代の変化にあっては不
十分なものだったようです。結局、音の結合を表記するネウマ譜にはかなわない
のですね。ところがネウマ譜にも、厳密な音の高さが示されないという欠点があ
り(アルファベット表記ならそれは可能なのですが)、こうして両者の利点を取
り込む形で、さらなる記譜法の探求が続いていくようです(以上は、M.T.R.
Barenzzani 'Guido d'Arezzo fra tradizione e innovazione' in "Guido
d'Arezzo monaco pomposiano", Leo S. OLscheki Editore, 2000
より)。その
あたりの話も、ちょっと見ていきたいところです。

次回は7章を見ていきます。いよいよテトラコルドの分類の話です。お楽しみ
に。


*本マガジンは隔週の発行です。次回は6月10日の予定です。

投稿者 Masaki : 2006年05月29日 08:12