2007年02月12日

No. 97

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.97 2006/02/10

------新刊情報--------------------------------
このところの暖冬のせいで、なんだか早くもけだるく、「春眠暁を覚えず」とい
う感じだったりもします……(笑)。中世関連書籍も春の兆しでしょうか?

『ロマネスク美術とその周辺』
辻佐保子著、岩波書店
ISBN:9784000025898、9,240yen

著名な美術史学者による、ロマネスク美術を中心とした本格的な論考の集成とい
うことです。写本研究、説話と典礼上の図像、初期中世美術などなど、目次には
実に面白そうなテーマが列挙されています。これはぜひ覗いてみたいところで
す。

『中世における科学の基礎づけ−−その宗教的、制度的、知的背景』
エドワード・グラント著、小林剛訳、知泉書館
ISBN:9784862850027、6,300yen

米国の科学史家グラントが96年刊行したものの邦訳。グラントの邦訳には『中
世の自然学』(横山雅彦訳、みすず書房)もありましたが、これはすでに品切れ
のようです。本書は、17世紀の科学革命に中世はなんら直接的な貢献をなさな
かったというそれまでのスタンスを反省・一新し、より広い見地から、中世が果
たした貢献を見直した著作、という位置づけですね。アリストテレス主義の問題
をいろいろ扱っているようです。

そういえばこのグラント、ちょうど本国でも『自然哲学史−−古代から19世紀
まで』("A History of Natural Philosophy : From the Ancient World to the
Nineteenth Centry"
, Cambridge University Press)が出たばかりです。400
ページ足らずで、19世紀まで駆け足で自然哲学の歴史を通観するというのです
から、これはまた相当な力業かもしれません。

『中世賤民の宇宙−−ヨーロッパ原点への旅』
阿部謹也著、ちくま学芸文庫
ISBN:9784480090478、1,300yen

個人的にもとてもなつかしい一冊の文庫化。昨年秋に亡くなった中世史学の第一
人者の、代表作の一つですね。中世の死生観、時空間の変遷、職業差別の問題な
ど、いずれももとの刊行当時(1987年)は今以上にホットな問題でした。同書
は一度、『阿部謹也著作集』にも収録されましたが(99年)、今回は文庫とい
うことで、より幅広い読者を獲得しそうです。

『中世ラテン語入門・新版』
国原吉之助著、大学書林
ISBN:9784475018784、6,720yen

同じ著者による同名の著書が、かつて南江堂という出版社から出ていたのです
が、これはとっくに品切れ。で、これはおそらくその新版なのでしょう(まだ現
物を見ていないので詳細は不明ですが)。久しくそうした和書がなかっただけ
に、これはとりあえず買い、という気もします(笑)。


------文献探訪シリーズ-----------------------
「イサゴーゲー」の周辺(その5)

「類(genus)」や「種(species)は実在するのか心的なものなのかという、
普遍論争にいたる問いかけを早い時期から掲げたのは、『イサゴーゲー』の翻訳
を手がけた、ほかならぬボエティウスその人でした。ボエティウスの『イサゴー
ゲー注解』は「中世思想原典集成」5巻にも収録されていますが、ここではス
ポット的に、ポール・ヴィンセント・スペイド編『中世の普遍問題に関する5つ
のテキスト』("Five Texts on the Medieval Problem of Universals", Hackett
Publishing Company, 1994)から、ボエティウスの『イサゴーゲー第二注解』
の抜粋(英訳)を見てみます。

ボエティウスはここで、『イサゴーゲー』の序文で棚上げになっている「類」
「種」の形而上学的身分とでもいうものに、あえて問いを投げかけます。「類と
種は存在し存続するのか、それとも理解と思惟によってのみ形成されるのか」。
存在しないという立場の基本的議論はこうなります。類は複数の種に共通するも
のである以上、一つではない。しかるに実在するものは、すべてそれぞれ一つと
して実在する。したがって類は実在しない。類と種が相対的関係にある(このこ
とは前回・前々回見ました)以上、種もまた一つではないことになり、よってそ
ちらも実在しない。また、類を包摂する上位の類は無限に存在しなくてはならな
いが、それでは類は完結することがなくなってしまう。以上のことからも類は実
在しない……。

反対の実在論の基本的議論はどうなるでしょうか。仮に類も種も理解によっての
み掌握されるものであるのなら、理解はすべからく理解の対象である何らかの事
物から生じるものである以上、類も種も、みな現実に存在しなくてはならない。
さもなくば空虚な理解、誤った理解となってしまう……。これに対してボエティ
ウスは、その弁証法的合一を次のように試みます。理解は対象から生じるが、そ
の対象自体が存在する必要はない。誤った理解はむしろ構成、つまり本来は結合
しないもの同士の結合(想像力による)から生じる。一方、抽象・捨象による理
解では、対象は存在しなくとも理解としては誤りではない……。

さらにボエティウスは、ストア派的な物体/非物体の議論を持ち出してきます。
物体に付随する非物体的なもの、たとえば物体の輪郭などは、存在(非物体的)
としては物体に依存する(そもそもの物体がなければ、輪郭もありえない)もの
の、心的にはそれ自体として分離して措定できる。ところで、類や種も、非物体
的なものである場合もあれば、物体的なものである場合もある。前者であれば非
物体的なものとして個別に捉えることができるし、後者の場合でも、理解におい
ては物体の性質は捨象され、「形相」であるかのように捉えられる。よって、類
や種は理解のうちにのみあるとして差し支えない……。

類と種が相対的関係にあるということで、ボエティウスはこのように、それらす
べてが心的事象なのだと結論づけます。反プラトン的、アリストテレス寄りの考
え方ということになりそうですが、ボエティウスはこの節の最後で、一種の留保
というか、周到に(?)こんなことを付け加えています。「以上の話で、両者に
決定的な判断を加えているのではない。それはより高度な哲学的議論となるだろ
うから。ここではあくまで、『イサゴーゲー』がアリストテレスの『範疇論』の
ために書かれたものを考慮して、アリストテレスの見解を採用したのだ」。こ
の、議論を開いておくというあたりが、まさにスコラの先駆的な感じを醸してい
ますね。いずれにしても、これがボエティウスによって後世にまで伝えられる
「概念主義的」議論の核心的部分です。当然ながら、こうした立場への反論も出
てくるわけですが、このボエティウスの立場については、先の『イサゴーゲー』
仏訳本の解説が少し細かく吟味していますので、次回、ひとまずそちらもまとめ
ておきましょう。
(続く)


------文献講読シリーズ-----------------------
グイド・ダレッツォ『ミクロログス』その23

今回は18章の冒頭部分です。ディアフォニアを扱った章です。ディアフォニア
というと、一般には不協和音のことを言いますが、9世紀から12世紀にかけての
音楽理論では、広くオルガヌムと同義とされていたのだそうです(Naxosライブ
ラリーの音楽中辞典を参照)。本書でも、普通の不協和音の話かと思っていると
面食らってしまいます(私もそうでした−−苦笑)。ではさっそく、実際に見て
いきましょう。

# # #
Capitulum XVIII
De Diaphonia, id est organi praecepto

Diaphonia vocum disiunctio sonat, quam nos organum vocamus, cum
disiunctae ab invicem voces et concorditer dissonant et dissonanter
concordant. Qua quidam ita utuntur, ut canenti semper quarta chorda
succedat, ut .A. ad .D. ubi si organum per acutum .a. duplices, ut sit .
A.D.a., resonabit .A. ad .D. diatessaron, ad .a. diapason; .D. vero ad
utrumque .A.a., diatessaron et diapente; .a. acutum ad graviores diapente
et diapason. Et quia hae tres species tanta se ad organum societate ac ideo
suavitate permiscent, ut superius vocum similitudines fecisse monstratae
sunt symphoniae, id est aptae vocum copulationes dicuntur, cum
symphonia et de omni cantu dicatur. Dictae autem diaphoniae hoc est
exemplum:
[figura]

第18章
ディアフォニア、すなわちオルガヌムの規則

 ディアフォニアとは、音が対立することをいう。互いに背く音が、調和が取れ
た形で異な響きを奏でたり、異質な形で共鳴したりする場合、私たちはその音の
対立を「オルガヌム」と呼ぶ。たとえばそれを、AとDのように、主旋律との間
が4度の開きで鳴るように用いたりする。そのオルガヌムを高音aでもって二重
化し、A D aのようにすることもでき、その場合、AからDはディアテサロン(4
度)、Aからaまではディアパソン(オクターブ)となる。DからAまで、および
aまでは、それぞれディアテサロン(4度)とディアペンテ(5度)となる。高音
のaから低い音(AとD)へはそれぞれディアペンテ、ディアパソンとなる。これ
ら3種の音は連なってオルガヌムを形成し、甘美に混ざり合う。先に示した音の
類似性がそうだったように、これがいわゆるシンフォニア、すなわち、音の適切
な組合せと称されるものである。シンフォニアはあらゆる歌について述べること
ができる。ではディアフォニアといわれるものの例を示そう。
(図)http://www.medieviste.org/blog/archives/guido12.html

Potes et cantum cum organo et organum quantum libuerit duplicare per
diapason; ubicumque enim eius concordia fuerit, dicta symphoniarum
aptatio non cessabit.
Cum itaque iam satis vocum patefacta sit duplicatio, gravem a canente
succentum, more quo nos utimur, explicemus. Superior nempe diaphoniae
modus durus est, noster vero mollis, ad quem semitonium et diapente non
admittimus, tonum vero et ditonum et semiditonum cum diatessaron
recipimus, sed semiditonus in his infimatum, diatessaron vero obtinet
principatum. His itaque quattuor concordiis diaphonia cantum subsequitur.

 主旋律にオルガヌムがあり、そのオルガヌムが許容するのであれば、その主旋
律をディアパソン(オクターブ)で二重化することができる。それらが調和する
限りにおいて、いわゆるシンフォニアの適切さは失われない。
 音の二重化については充分に示したので、私たちが用いる方法に即して、歌に
随伴する低い声部について説明しよう。上に述べたディアフォニアは「固い」も
のだが、私たちが用いるのは「柔らかい」ものだ。私たちの場合、セミトノス
(半音)とディアペンテ(5度)は用いず、トノス(2度)やディトノス(長3
度)、セミディトノス(短3度)とディアテサロン(4度)を認めている。ただ
しセミディトノスは最下位におき、ディアテサロンを最上位とする。この4つの
関係で、ディアフォニアが歌に随伴するようにする。
# # #

このように、ここでのディアフォニアは、主旋律に付される対旋律のことを言っ
ています。別の音が鳴るということが、ディアフォニアの原義なのですね。オル
ガヌムというのは、いわゆる多声楽曲のことで、すでにある主旋律(厳密ではあ
りませんが、ここではcanensをそう訳出しています)と対旋律から成る楽曲で
すね。伊語訳の序文では、この段落最初の定義部分の訳というか解釈について
長々と論じていますが(concorditer dissonant et dissonanter concordantと
いうあたりの厳密な意味についてです)、ここではあえて字義的に訳出しておき
ました。最初の段落では、4度、5度、8度の協和音のみで声部が構成されている
伝統的なものが取り上げられています。例として上げられた3声のオルガヌム
は、9世紀の理論書『ムシカ・エンキリアディス(音楽提要)』に言及されてい
るといいます(仏語訳の注)。

それに対して3段落目では、「私たち」の方法論というのが出てきます。「固
い」ものと「柔らかい」ものという形で二つの種類のオルガヌムが対置されてい
ます。一つは上の伝統的な4度、5度、8度のもの、もう一つは4度を基準にしな
がら場合によっては3度を許容するもの(ただしそれは最下位、つまりあまり勧
められないということのようですが)というわけですね。この章に続く19章
に、実例の図(楽譜)がいくつか紹介されているのですが、それにこの「新し
い」オルガヌムの実例が見られます(たとえばこちら→http://
www.medieviste.org/blog/archives/guido13.html)。2度や3度は長いこと不
協和ということで嫌われてきたものでしたが(3度を多用するイギリス風ディス
カントゥスが入ってくるのはもう少し後だったはずです)、そちらを受け入れ、
むしろ5度を使わないというのは、とても興味深い点だと思います。時代的な変
化ということなのでしょうか。グイドの時代の「新しさ」は、あるいはこんなと
ころにも感じられるのかもしれません。

次回は18章の続きです。オルガヌムのいろいろな面について論じられていま
す。


*本マガジンは隔週の発行です。次回は2月24日の予定です。

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(C) Medieviste.org(M.Shimazaki)
http://www.medieviste.org/
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投稿者 Masaki : 2007年02月12日 21:11