2007年03月12日

No. 99

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.99 2006/03/10

*今号は出先からの送信のため、やや短縮版です。

------文献探訪シリーズ-----------------------
「イサゴーゲー」の周辺(その7)

『アベラールとエロイーズ』でお馴染み(?)のアベラール(ペトルス・アベラ
ルドゥス:1079-1142)は、神学者としてもとても重要な人物ですね。『イサ
ゴーゲー』の仏訳本は「sic et non」のシリーズの一冊として刊行されています
が、この「sic et non」(然りと否)という方法論を一躍有名にしたのは、ほか
ならぬアベラールです。その中庸的・弁証法的なスタンスは三位一体論などにま
で及び、そのために異端的な危険思想扱いもされました。ある意味、知的な自由
人という感じでしょうか。そのアベラールによる「イサゴーゲー」の注解です
が、1102年から1104年頃に書かれたとされる初期の著作に3種類あるといいま
すが、ここでは最も名の知られた"Logica ingredientibus(入門論理学)"とい
う著書の一部を取り上げます("Readings in Medieval Philosophy"という英訳ア
ンソロジーがなかなか簡明な訳になっているので、そちらを参照しています)。

アベラールが掲げるテーマを一言でいうと、「種」「類」などの「普遍概念」と
されるものの特質を、抽象化の作用から考えるということです。そのため注解
も、ポルピュリオスのテクストの逐語解というよりも、それに触発された議論の
展開という形になっているようです。アベラールはまず、アリストテレスによる
「普遍概念」の定義、つまり「多くの言葉の述語となりうるもの」という定義を
取り上げ、それが事物の名前として機能することを確認します。次に「ではそれ
はどういう名前なのか」という問題を掲げ、こうして知覚から知解へのプロセス
を問うていきます。

アベラールは、知覚も知解も魂の働きであるとした上で、魂が外部の事物の似姿
を心的に作り上げることが基本なのだといい、したがって知覚される事物、知解
される事物は、外在する当の事物とイコールではない、と述べています(言語学
でいう聴覚映像を思い出しますね)。心がみずから作り上げた像または構築物に
知性が差し向かうことを、アベラールは知解と考えています。

「普遍概念」と「個別概念」はどう違ってくるのかというと、「普遍概念」は事
物に共通する概念(common conception)なのだと説明されます。アベラール
はプリスキアヌスやポルピュリオス、ボエティウスなどを引き合いに出しながら
そのあたりを論じていきます。とりわけ、ボエティウスの指摘によるとされる、
プラトンとアリストテレスの違いが重要です。アリストテレスが共通概念を「多
くの語の述語になれる」と定義するのに対して、プラトンはそれを「多くの事物
に共通する共通の類似」と定義している、というのですね。アリストテレスが普
遍概念をあくまで知覚したものの中に見いだしているのに対し、プラトンは普遍
概念の実在を共通特性として想定し、知覚したものはその実在の証拠だと見てい
るというわけです。

アベラールは、外在する当の事物とそれらを知る行為(知解)との間に、「名
前」の意味作用を考えなくてはならない、としています。つまり、両者をつなぐ
第三の項を加えて、三項関係で考えようというのです。語が一般的な事物・事象
(たとえば「人間」「四角」「高さ」などなど)を指し示せるのは、そうした語
を立てるだけの共通の事由が実際に見いだされるからなのか、それとも純粋に共
通概念としてあるからなのか、という問いに対し、アベラールは、その両方で
あっていけない理由はないとしつつ、前者の「共通の事由」を事物の本性
(nature)に関わるものと解するなら、その前者の説ほうが優勢になるだろう
と述べています。普遍概念(を表す語)は、事物に内在する「共通の」本性を指
すものだということで、実在論的な考え方に比較上の軍配を上げているのです
ね。そしてその事物の共通本性を取り出すことが、魂の機能としての抽象化だと
いう次第です。

「普遍概念を表す語が、事物の本性にないものを表しているときにのみ、その語
は指示対象のない、空疎な語となる」。「事物に内在する本性を、それが分離し
て存在するわけではないにせよ、分離的に理解することが理解なのだ」。このよ
うに、アベラールの「実在論」は、事物に内在する本質を知的な働きが取り出す
という意味での実在論であり、いわば実在論・唯名論の中庸を貫く立場を取って
います。これがアベラールの「普遍概念」論の外枠あるいは大筋ですが、この中
庸思想から逆に、当時の普遍論争の一端がほの見えてきたりはしないでしょう
か?そのあたりもふくめて、より俯瞰的にまとめることはできないでしょうか?
(続く)
(*都合により、次号の文献探訪シリーズは1回お休みします)。


------文献講読シリーズ-----------------------
グイド・ダレッツォ『ミクロログス』その25

さて、今回は18章の残りです。一気に見ていくことにしましょう。

# # #
Item cum occursus fit tono diutinus fit tenor finis, ut ei et partim
subsequatur et partim concinatur; cum vero ditono diutior, ut saepe per
intermissam vocem dum vel parva sit subsecutio, etiam toni non desit
occursio. Quod quia tunc fit cum harmonia finitur deutero; si cantus non
speratur ultra ad tritum descendere, utile tunc erit proto vim organi
occupare, subsequentibus subsequi, finique per tonum decenter occurrere.
Item cum plus diatessaron seiungi non liceat, opus est, cum plus se
cantor intenderit, subsecutor ascendat, ut videlicet .C. sequatur .F., et .D.
.G., et .E. .a. et reliqua.

 また、音の収斂がトヌスでなされる場合、終音部の保持を長くし、部分的には
伴奏がつき部分的にはユニゾンになるようにする。ディトヌス(長3度)でなさ
れる場合にはさらに長くし、大抵は間に音を入れて、伴奏部分は短いながら、や
はりトヌスで収斂させるようにする。デウテルス(第二旋法)で曲が終わるとき
にこういう状況が起きる。主旋律が高い音からトリトゥスに下降することが期待
されない場合、代わりにプロトゥスを用いてオルガヌムとするのがよい。続く音
に随伴し、トヌスでもって適切に収斂させて終えるようにする。
 また、ディアテサロンから離れることができなくなった場合、主旋律がさらに
高い音になったなら、伴奏もまた上昇させ、FにCが、GにDが、aにEがなどと随
伴するようにする。

Denique praeter .[sqb]. quadratam singulis vocibus diatessaron subest,
unde in quibus distinctionibus illa fuerit, .G. vim organi possidebit. Quod
cum fit, si aut cantus ad .F. descendat, aut in .G. distinctionem faciat, ad .
G. et .a. congruis locis .F. subsequitur; si in .G. vero cantus non terminet, .F.
cum cantu vim organi admittit.
Cum vero .b. mollis versatur in cantu, .F. organalis erit. Cum ergo tritus
adeo diaphoniae obtineat principatum ut aptissimum supra caeteros
obtineat locum, videmus eum a Gregorio non immerito plus caeteris
vocibus adamatum. Ei enim multa melorum principia et plurimas
repercussiones dedit, ut saepe si de eius cantu triti .F. et .C. subtrahas,
prope medietatem tulisse videaris.
Diaphoniae praecepta donata sunt, quae si exemplis probes, perfecte
cognosces.

 さらに、各音には4度下の音を置くことができるが、#は除く。どこかのフ
レーズで#が使われる場合、Gがオルガヌムになるようにする。その際、主旋律
がFへと下降するかあるいはGでフレーズを終えるのであれば、Gおよびaに対し
て、適宜Fが随伴となるようにする。主旋律がGで終わらない場合、Fはオルガヌ
ムとしては許容されない。
 主旋律でbモルが使われる場合、Fをオルガヌムとする。トリトゥスはディア
フォニーにおいて主要な地位を占めており、ほかに比べて最も適切なものとされ
ている。したがって、グレゴリウスがほかの音にもましてそれを好んだのはもっ
ともである。そのため、それは多くの歌の始まりに使われ、最大級の響きをもた
らしてきた。トリトゥスの歌からFやCを省いてしまうと、ほとんど半分はなく
なってしまうほどである。
 ディアフォニーの規則は以上である。実例を見ればその理解も完全なものにな
るだろう。
# # #

今回も19章に挙げられている実例を参照しておきたいと思います。まず、フ
レージングの終わりをトヌスで伴奏するという1段落目の例は、たとえば譜面4
(前回を参照)や6が挙げられます(http://www.medieviste.org/blog/
archives/19-4.html
)。2段落目の主旋律の上昇に合わせる例は譜面2などです
ね。3段落目の#に対するG、あるいはGやaに対するFの使用例は、譜面10と11
を見てください(http://www.medieviste.org/archives/19-10.html
http://www.medieviste.org/archives/19-11.html)。

4段落目でいうrepercussioは、連打音的な音のことを言うようです(伊語訳
注)。また、仏訳の注によれば、トリトゥスはグイドにとってとても重要で、譜
面上でCとFのところに線を入れるようにしたのはグイドの考案だとされていま
す。また11世紀初頭から、北部・東部地域では、EとGを半音上げたFとCにそれ
ぞれ変える傾向があったのだとか。さらに最近の研究で明らかになったことだと
して、ローマ地方ではトリトゥスが支配的な旋法だったという話も紹介されてい
ます。このあたりの専門的な話は詳しくはわかりませんが、いずれにしても、ト
リトゥスはグレゴリオ聖歌全般のメインの旋法となっているのですね。

19章はほとんど譜面だけ(これまでに挙げた11枚)ですので、前回も言いまし
たように、ここでは訳出は省きます。というわけで、次回は20章、いよいよこ
の音楽教程の最後の章に入ります。お楽しみに。


*本マガジンは隔週の発行です。次回は3月24日の予定です(いよいよ100号で
す)。

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投稿者 Masaki : 2007年03月12日 23:53