2007年09月27日

No. 111

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.111 2006/09/22


------短期連載シリーズ-----------------------
アヴィセンナの影響について(その2)

ゴアションは、アヴィセンナの影響を時代的に3つに区切って考えていま
す。1つめは初期の翻訳家たちの運動(12世紀)から、オーベルニュのギ
ヨームによる批判(1230年頃)まで、2つめはアリストテレスの研究を
許す教皇の勅令が出た1231年から、アルベルトゥス・マグヌスの注解が
編纂される1260年頃まで、3つめは1250年以降に顕著になっていく、ト
マス・アクィナスによるアヴィセンナ思想の囲い込みの時期です。

まず1つめですが、これはまずトレドのライムンドゥスのもとに集まった
翻訳者集団の活動(1130から1150頃まで)から始まります。このトレ
ドのサークルでは、アラブ世界の哲学書や医学書を中心に翻訳(ラテン語
訳)がなされていきます。ファラービーやガザーリー、そしてイブン・
シーナー(アヴィセンナ)などの著作が訳されています。翻訳活動自体は
13世紀前半ごろまで続きます。ゴアションによれば、アラビア語からラ
テン語への翻訳は、多少の誤りもあったとはいえ、当時利用できた手段の
少なさからすれば、実に見事なものだったといいます。

そうして訳し出された著作は、すぐに各国に伝えられていったようです。
当時の神学の最前線とも言われるシャルトル学派に受容の痕跡が見られ
る、とゴアションは言います。プラトン主義の流れをくむアウグスティヌ
スの影響が絶大だったキリスト教の神学世界では、同じ基盤(新プラトン
主義)をもつアヴィセンナ思想を受け入れる素地はすでに整っていたので
すね。こうして12世紀中頃までには、たとえばドミニクス・グンディサ
リヌスなどの『霊魂論』から始まって(アヴィセンナ思想を取り込んだ最
初の著作)、ペトルス・ヒスパニエンシス(のちの教皇ヨハネ21世)の
『魂についての書』など、アヴィセンナ思想の影響が伺える著作が書かれ
るようになっていきます。こうして徐々にその思想内容が広がっていく
と、今度はそれが危険なのではないかという嫌疑も生まれていきます。と
りわけそのアリストテレス的な部分が問題になってくるのですが、1210
年ごろの時点では、アリストテレスの『形而上学』そのものも、まだ13
章、14章が欠けていたりしたといい(1270年頃に揃うのですね)、どこ
までがアリストテレス、どこまでがアヴィセンナの考えなのか判別できな
い状態にあったようです。アリストテレスの断罪は即、アヴィセンナの断
罪を意味していたのですね。

この批判の文脈で登場するのが、13世紀前半にパリの司教をつとめた
オーベルニュのギヨームです。彼はアヴィセンナの宇宙開闢論、とりわけ
創造においていくつもの中間体が創られるという話や、月下世界が天空の
動きによって支配されているという考え方、世界が永遠であるといった議
論に激しく反発します。さらに、能動知性を初めとする知性論にも反駁を
加えます。能動知性とは、天球の運動の動因であるとともに人間の魂の実
質因でもあるような知的存在です。能動知性が分離して存在するとか、魂
における知性が機能別に分割されるといった考え方を、魂の一体性を損な
うものだとして、ギヨームは激しく反発したようです。

とはいうものの、ギヨームはその一方で、それら以外の点ではアヴィセン
ナの議論を根拠あるものと認めているようです。「存在」と「本質」を分
けるというアヴィセンナの議論を、初めて本格的にラテン・スコラ学の世
界に持ち込んだのもギヨームその人だったのですね。もちろん、たとえば
5〜6世紀のボエティウスに、すでにid quod est(実在するもの)とquo
est(実在が由来するもの = esse)を区別する議論はありましたが、ボエ
ティウスの場合にはこのesseの意味が「存在そのもの」「本質」の間で
揺らいでいて、ギヨームはそうした曖昧さを、アヴィセンナの表現でもっ
て明確化したのだといいます。ゴアションによれば、まさにギヨームに
よって、「esseは存在そのもの示し、id quod estはquidditas(何
性)、つまりは本質を指す」と規定されたのでした。これはロバート・グ
ロステストなどにも採用された用語法のようですが、一方でボエティウス
のテキストも相変わらず流通し続け、結果的にその後の四半世紀にわたっ
て用語の混乱が生じていくらしいのです。アルベルトゥス・マグヌスをへ
て、トマス・アクィナスの『命題集第一巻注解』に至って、ようやく「存
在(ente)」と「本質(essentia)」に一応の決着がつくのだとゴア
ションは述べています。
(続く)


------古典語探訪:ギリシア語編----------------
「ハリポ」で復習、古典ギリシア語文法(その10)

もう10回目。でも、まだ10回目という感じもしますね(笑)。では、今
回も見ていきましょう。例によって原文はこちらです(→http://
www.medieviste.org/blog/archives/A_P_No.10.html

atar de^ te^n glauka te^n megale^n kai ksanthe^n te^n para tas
thuridas petomene^n oudeteros eiden.

atarは「しかしながら」。de^は語りの継続を表す小辞で「そのとき」ぐ
らいの意味。glaukaはglauks(フクロウ)の対格。ksanthosは「黄色
の、褐色の」。para tas thuridasで「窓の向こうに」。これは次の
petomene^n(petomai(飛ぶ)の分詞)の補語になっています。ここ
までが目的語で、その次に主語(oudeteros(どちらも〜ない))、動
詞(eiden(気づく))が続いています。全体は「しかし、彼らのいずれ
も、そこで大きな褐色のフクロウが窓の外を飛んでいったのに気づかな
かった」。

ho de Doursleios orthrios to sakion labo^n te^n men te^s gunaikos
pareian ephile^se, te^s de tou paidos he^marte, tote de^ di'
orge^s apoballontos ta alphita epi to teichon.

orthriosは「朝早く」。sakion labo^nは分詞形で「小バッグを取っ
て」。te^n te^s gunaikos pareianで「妻の頬」。対格です。これを目
的語にしている動詞がphileo^(キスする)です。その次の箇所に、men
をうけてdeが来ているので、「一方では〜他方では〜」の意ですね。
te^s to paidos he^marteとあり、pareiaが省略されています。
he^marteはhamartano^(しくじる、逃す)です。toteは「そのと
き」。dia orge^sで「怒りのせいで」。 apoballo^は「投げる」で、こ
こでは分詞形。alphitaは「日々の(貧しい)食事」。粥の類を意味する
ようです。もとの英文は「シリアル」になっていますね。epi to teichon
で「壁に」。全体をつなぐと、「ダースレー氏は朝、バッグを取って妻の
頬に軽くキスしたが、息子にはし損なった。そのとき息子はかんしゃくを
起こし、シリアルを壁に投げつけていたのだ」。

hupogelasas de Akolaston, ephe^, ei chre^ma paidariou, epeita d'
oikothen ekseltho^n e^laune to autokine^ton oche^ma epi te^n
agoran.

hupogelao^は「大笑いする」。akolastosは「不品行な」。ここでは名
詞的に使っています。chre^ma paidariouで「小さい子のすること」。
epeitaは「それから」。oikothen ekseltho^nで「家を出て」。もとの形
はekserchomaiですね。e^launeのもとの形はelauno^で「運転する」。
autokine^tos oche^maで「自走式の車=自動車」。epi te^n agoranで
「広場に」。「彼は笑いながら『子どものやることは不品行だな』とい
い、それから家を出て、車を広場へと走らせた」。

連続的アクションを描写する際に動詞の分詞形が多用されているあたりが
注目点でしょうか。連続描写にはやはり欠かせない要素なのだなというこ
とがわかります。このあたりは何度でも復習したいところですね。


------文献講読シリーズ-----------------------
アルベルトゥス・マグヌスの天空論・発出論を読む(その10)

今回も原文は一続きなのですが、前回同様、便宜上の段落分けを施してい
ます。

# # #
Inferior enim non est in ubi superioris, licet superior referatur ad
ubi inferioris ut mensurans et continens. Id autem quod sub caelis
est, sicut ignis, qui ubique circummovetur in concavo caeli lunae,
consequitur ipsum secundum motum non simplicem. Consequitur
enim ipsum per generationem corporis, quod in termino natum est
esse.

Et secundum motum magis difformem consequitur ipsum aer.
Propter quod in aere motus sunt multi. Elementum autem aquae in
mari non consequitur ipsum secundum circulationem perfectam.
Propter quod mare in fluxu semicirculum lunae sequitur
ascendentem. In terra autem, ubi virtus motoris deficit, deficit et
motus. Et ideo quieta est.

Id autem per quod quodlibet mobile virtutem primi motoris
consequitur, non determinat, utrum sit anima vel natura. Hoc
tamen constat, quod est lumen vel bonitas procedens a motore
primo diversimode participatum a quodlibet mobilium ita quod
etiam motus animalium, qui processivi dicuuntur, in quibuslibet
membris eorum ad semicirculum sunt. Et propter hoc membra ad
motum pertinentia in ipsis componuntur ex pyxidibus et vertebris.

下位のものは上位のものがある場所にはない。つまり上位のものが下位の
ものの場所に対して関連づけられるのは、後者の尺度ならびに包摂物とし
てなのである。しかるに、天空のもとにあるもの、たとえば火など、いた
るところで月の支配する天の穹窿の中を周回するものは、単一ではない運
動にもとづいて生じる。すなわちコルプスの生成によって生じるのであ
り、最終的に存在が生まれるのである。

また、空気はより形の定まらない運動にもとづいて生じる。そのため、空
気においては運動は多様となる。しかるに海に見られる水の元素は、そも
そも完全な円周にもとづいて生じるのではない。そのため、海の潮の流れ
は、月の半円の増加に従うのである。しかるに土においては、運動の力が
欠けているため、運動も生じない。そのため動くことがないのである。

任意の可動体が第一動因の力に伴って生ずる拠り所となるもの、それが魂
なのか自然なのかは決定づけられない。しかしながら次のことは確実であ
る。つまり、第一動因から様々な形で生ずる光ないし善には、なにがしか
の可動体が参与しており、それゆえ、進行性と言われる動物の運動も、任
意の肢体においては半円を描くのである。そのために、運動に関わる肢体
は、おのずと容器と節から構成されるのである。
# # #

四元素の運動について述べていますが、とても簡素に(省略的に)記され
ているので、ちょっとつなぎが不明瞭な感じもします。こういう時には、
たとえ参照関係で直接結びついていなくても、別の著者の議論などを見る
ことでヒントが得られる場合もあります。もちろん、かえって混乱する場
合も少なくないのですが(笑)。たとえば逍遙学派におけるアリストテレ
スの初期注解者の一人、アフロディシアスのアレクサンドロスなどを見る
と(『気象論注解』)、天体はそもそも火でできており、火は(層をなす
諸天(天球)に沿って)周回するといったことが記されています。また、
地上世界にあっては、火そのものが単独でコルプスを形成することはな
い、といった話も出てきます。コルプスの形成には多の元素との結びつき
が欠かせないわけですね。アフロディシアスのアレクサンドロスはアルベ
ルトゥスの直接のソースではないようですが、少なくともアヴィセンナや
アヴェロエスのソースにはなっているので、間接的には流れ込んでいると
言ってよいかもしれません。

天体というのは純粋な形での火だとされ(神に近いところにあると考えら
れたので)、それは完全であるがゆえに円運動をするとされるのですが、
一方の月下世界はというと、天空の層のヒエラルキーでは一番低いところ
にあるせいで、当然ながらあらゆる事物は不純物の形でしか存在しえず、
火もまたコルプスの形でしか存在せず、完全な円運動にはならない、とい
うのが伝統的な考え方のようです。完全なものから生まれたものは運動も
完全なのに対し、不完全なもの(月下世界)から生まれたものは運動も不
完全でしかない、ということになります。月下世界の四元素も、やはり運
動によってヒエラルキー化されている感じですね。

最後のほうに出てくる「肢体の関節の動きが半円を描く」という話も面白
いですね。円が完全性を表すとすると、半円は不完全なものということに
なるようですが、実際ここでは、地上世界の制約によって動物の肢体の動
きも不完全さを表している、というように読めます。関節を構成する容器
と節の話はこの後も続くのですが、それは次回に見ていきましょう。


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投稿者 Masaki : 2007年09月27日 12:07