2007年11月21日

No.115

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.115 2006/11/17

*お知らせ
いつもご愛読いただきありがとうございます。本メルマガは原則隔週の発
行ですが、次号は本来なら12月1日の発行ですが、都合によりこれをお休
みとさせていただき、12月15日の発行とさせていただきたいと思いま
す。年末年始は通常通り隔週で発行します。よろしくお願いいたします。


------新刊情報--------------------------------
しばらく新刊情報をまとめていませんでした。とりいそぎ、最近のめぼし
いものを。

『西洋中世の男と女』
阿部?也著、ちくま学芸文庫
ISBN:9784480091024、1,260yen

中世における男女関係やとりわけ女性の問題を論じた同書は、単行本は
1991年刊で、その後「阿部?也著作集」にも収録されましたが、ついに
文庫化です。阿部中世史は、それが扱う当該分野の、まさに基本書という
感じですね。

『図説・世界女神大全』
A. ベアリング、J. キャッシュフォード著、森雅子、藤原達也訳、原書房
ISBN:9784562041220、9784562041237、1、2巻各6080yen

後のキリスト教にも大きな影響を及ぼしているという意味で、結構重要な
のが古代の異教の神々だったりしますが、これはイシュタル、イシスから
始まって、ギリシア、ローマ、ヘブライ文化圏、キリスト教圏などに登場
する女神たちをめぐる大著です。

『血みどろの西洋史--狂気の一〇〇〇年』
池上英洋著、河出書房新社(KAWADE夢新書)
ISBN:9784309503356、756yen

「え、今どき暗黒中世史観?」と一瞬思ったのですが、どうもタイトルに
だまされてしまった感じですね。おそらくは編集者がつけたのでしょうけ
れど、本当にこういうあおりのようなタイトルはやめてほしいですねえ。
目次を見ると、中身はとても真面目そうで、中世の死生観を様々な事例を
もとに描き出しているようで、心性史的な内容といった印象です。

『中世の秘蹟』
トマス・ケイヒル著、森夏樹訳、青土社
IBSN:9784791763726、3,360yen

『聖者と学僧の島』がとても印象的だったケイヒル(以前の表記はカヒル
でした)。その後邦訳としては『ギリシア人が来た道』『ユダヤ人の贈り
物』ときて、再び中世に舞い戻った感じでしょうか。ケイヒルはもと編集
者の作家で、この歴史シリーズがまさに代表作のようですね。


------短期連載シリーズ-----------------------
アヴィセンナの影響について〜ゴアションの講義から(その6)

存在の一義性というスコトゥス(というか、後述するように、概念の明確
化は弟子筋によるものらしいですが)の考えはどこから出てきたのでしょ
うか。発端はどうやら、「存在という観念は感覚の経験から開示されるも
のだ」というアヴィセンナのテーゼのようです。スコトゥスはそれに対
し、「存在は知性の直接的かつ固有の対象だ」とし、「そうであれば、知
性は単一の知解行為でもって存在を把握できるはずで、したがってその対
象の存在の種類如何にかかわらず、同じ意味として認識できるはずだ」と
考えるのだとゴアションはまとめています(このあたりの話はエティエン
ヌ・ジルソンの解釈がベースになっています)。

あらゆるものを支配する「存在」という概念からは、それを別個の学知の
対象とするべきだという考えも当然導かれます。存在を学知の対象にする
とは、すなわち神の存在証明を行うということとイコールです。アヴィセ
ンナの場合、その学知は形而上学が担うと考えます(若干の留保つきなが
ら、トマス・アクィナスもその立場に与します)。一方でアヴェロエスな
どは、神の存在を証明するのは自然学の務めだとします。スコトゥスはと
いうと、両者の間で揺れ動くのですね。いずれにしてもスコトゥスは、存
在概念を神の理解に接近するための手段と見なすようになります。

その前提に立って、人間が存在概念を得るのは被造物を通じてであると考
えると、被造物をもとにして神の存在証明ができることになり、結果的
に、存在は創造主にも被造物にも「一義的」であるということが帰結しま
す。これが「存在の一義性」としてスコトゥスの弟子たちによって定式化
される考え方なのですが、ゴアションによると、どうやらスコトゥス本人
はその考え方にいくばくかの警戒心を寄せてはいたようです。とはいえ彼
は、神の存在証明という文脈で、「一義性」の途にこだわっていくことに
なります。対照的に、たとえばトマスは、同じく神の存在証明の文脈にお
いて、アリストテレスの自然学と形而上学から「第一動因」という概念装
置を取り出し、これを神に重ね合わせ、実質因の無限連鎖はありえないと
いう議論や、可能と必然の区別といった議論(いずれもアヴィセンナに立
脚した議論です)を拠り所にして論を進めていくのですね。両者を分かつ
のは、そのあたりの違いのようです。

当時の存在論の議論のうちでアヴィセンナをソースとしないものはなかっ
た、とゴアションは述べています。たとえば1277年のタンピエの禁令に
関わったガンのヘンリクスなども、やはりアヴィセンナを下敷きとした存
在論を展開し、スコトゥスにおとらず存在の一義性の議論を見いだしてい
るといいます。アヴィセンナの議論はその後も一種の権威として、たとえ
ば14世紀のマイスター・エックハルトなどに引用され、やがてはそれら
中世の神学者を介する形で、17世紀前半ごろまで間接的に引用されてい
くようです。

ゴアションはもう一つ、個体化の原理についてもアヴィセンナから中世の
神学者たちの議論をざっと振り返っています。次回にこれを見て、ゴア
ションの講義のまとめを終えたいと思います。
(続く)


------古典語探訪:ギリシア語編----------------
ギリシア語文法要所めぐり(その2:過去時制)

ちょっとタイトルを変えてみました。英国パブリックスクールの希作文テ
キストをもとに、要所要所をピンポイント的にめぐるツアーですが
(笑)、2回目は、過去時制についてのごく簡単な要点です。

直説法の場合、未完了形は過去の行為が継続している、ないしは反復され
ていることを表し、アオリストは単純に「それが生じた」ということを表
すのでした。例をどうぞ。「水夫たちは、到着すると町にとどまった(と
どまるのが常だった)」。

1. epei hoi nautai aphikonto emenon en te^i polei.

で、大事なポイントは、アオリストの場合、英語などの大過去に相当する
「過去の時点からさらに過去に遡る時制」を表すのにも用いられる点で
しょうね。「彼らは到着するとキャンプを張った(野営をした)」は、到
着がキャンプを張る行為に先立ちますが、ギリシア語では次のようになる
わけです(ただしこれは、あくまで行為が一度きりなされたという場合で
す)。

2. epeide^ he^lthon e^ulisanto.

もう一つ。「軍が制圧されると、都市は占領された」は次のようになりま
す。

3. epei to strateuma enike^the^ he^ polis he^irethe^.

一方、完了形は過去に完遂された行為の状態が今の時点にまで及ぶことを
表すのでした。そのため、中には完了形が意味的には現在を表すという場
合もあります。たとえば「私は立っている」(=私は自分を置いた)は、
heste^kaですし、「私は覚えている」(=私は思い出した)は
memne^naiになるのですね。

さらに分詞での例も復習しておきましょう。現在分詞は本動詞と同時に行
為が進行していることを表し、アオリスト分詞は本動詞よりも前に行為が
なされていることを表す、というのが基本で、さらに完了分詞は、過去の
行為による現在の状況を表すというものでした。「死者たちは讃えられ
る」と「彼らはマラトンで死した人々を埋葬した」を比べてみます。前者
の場合には、死した状態のままとどまっている者という感じになるので
しょうか。

4. hoi tethne^kotes timo^ntai.
5. ethapsan tous Maratho^ni apothanontos.

アクセントつきのテキストはこちらを参照してください(→http://
www.medieviste.org/blog/archives/GC_No.2.html
)。


------文献講読シリーズ-----------------------
アルベルトゥス・マグヌスの天空論・発出論を読む(その13)

第8章の2回目です。さっそく見ていきましょう。

# # #
Et in hoc quod ab alio est, triplicem habet comparationem,
scilicet ad primum intellectum, a quo est et quo sibi est esse; et
ad seipsum secundum, ‘id quod est’, ; et ad hoc quod in potentia
est secundum hoc quod ex nihil est. Antequam enim esset, in
potentia erat, quia omne quod ab alio est, factum est et in
potentia erat, antequam fieret. Intelligentia ergo prima non habet
necesse esse nisi secundum quod intelligit se a primo intellectu
esse. Secundum autem quod intelligit seipsam secundum ‘id quod
est’, occumbit in ea lumen intellectus primi, quo intelligit se a
primo intellectu esse. Et sic necesse est, quod inferior
constituatur sub ipsa. /

この「他より生じるもの」は三つの相で構成される。まずは第一の知性、
つまり存在が由来するもの、みずからの存在のよりどころによる部分があ
る。二つめは、「本質(何であるか)」から見たおのれ自身がある。三つ
めは、無から生み出された限りでの潜在態がある。実際、存在を得る以前
は潜在態だったのである。というのも、他より生じるものはすべて創られ
たものであり、存在する以前には潜在態だったからだ。したがって、第一
の知性体が必然的な存在をもつのは、みずからの存在が第一の知性に由来
すると知解する限りにおいてでしかない。しかしながら、「本質(何であ
るか)」に即してみずからを知解する限りにおいては、みずからを第一の
知性に由来すると知解するよりどころである、その第一の知性の光は減じ
てしまう。そしてそれゆえに、必然的に下位のものがおのずと構成される
のである。

Et haec est secunda substantia, quae vel anima dicitur vel id quod
in caelis est loco animae. Secundum autem quod intelligit se ex
nihilo esse et in potentia fuisse, necesse est, quod incipiat gradus
substantiae, quae in potentia est. Et hoc est materia sub prima
forma, quae est materia corporis caelestis, quae vocatur mobile
primum. Materia enim illa potentia divisibilis est. Et dum illustratur
forma illa quae loco anima est, statim extenditur per motum, qui
quodammodo ubique est, et ad apprehendendum lumen
intelligentiae figuram et motum accipit circuli sive corporis
sphaerici. /

それは二次的な実体であり、魂と呼ばれたりもするし、天空にある魂の座
と言われたりもする。しかしながら、(その実体が)みずからを無から生
じたものと知解し、かつては潜在態だったことを知解する限りにおいて、
必然的に、潜在態における実体の等級が成立することになる。これはまた
第一の形相のもとに置かれる質料でもあり、天体の質料をなし、これが第
一の可動体と呼ばれる。なんとなれば、その質料はその潜在態において切
り分けられうるものだからだ。魂の座にあるその形相が照らし出されると
き、それはすぐさま、多少なりとも遍在的な運動を通じて広がり、知性体
の光による把握に向けて、円形の、あるいは球体の形象と運動を受け取る
のである。

Intelligentia ergo, quae inter factas substantias primas est,
secundum quod intelligit se a primo intellectu esse, in lumine primi
intellectus est et ipsum lumen et sic intelligentia est. Secundum
autem quod intelligit se secundum ‘id quod est’, lumen suum
extendit ad aliud quoddam esse et sic extenditur in animam vel id
quod loco animae est. Secundum autem quod intelligit se ex nihilo
esse et in potentia, ad esse materiale descendit, et sic fit id quod
primum mobile est sub forma corporeitatis.

ゆえに、創られた実体のうちで第一のものである知性体は、みずからを第
一の知性に由来すると知解する限りにおいて、第一の知性の光の中にあ
り、みずからも光をなすのである。(他の)知性体も同様だ。しかしなが
ら、「本質(何であるか)」に即してみずからを知解する限りにおいて、
その光は他の任意の存在へと広がっていく。かくして魂へ、あるいは魂の
座にあるものへと広がっていく。しかしながら、みずからが無から生じ、
潜在態としてあると知解する限りにおいて、それは物質的な存在へと下っ
ていく。かくして第一の可動体であるものは、物体的な形相のもとに置か
れるのである。
# # #

第8章はまとめの章に相応しい感じで話が展開していきますね。まとめる
と、第一の知性(前回は原初の知性と訳出しましたが、primus
intellectusです)はまさに神の知性で、それは創造されたものではなく、
知解を通じて創造する側にあり、そこから生じる第一の知性体
(intelligentia primaで、やや紛らわしい訳語になってしまいまっていま
すが、創られたうちの第一のものということです)は、第一の知性の光を
分有しつつも、創られたという本質をもつために第一の知性に対しては下
位の存在であり、また「無から創られた潜在態」だという意味では、現実
化のために形相を受け取らなくてはならない質料という意味で、物質的な
ものの側に置かれるのだということになります。すでにして知性体が下位
の層をなしていくことが見て取れます。

アルベルトゥスのこの書は『原因論』の一種の注解なわけですが、この知
性と知性体の区別、『原因論』ではprima intelligentiaとsecunda
intelligentiaというふうに記されていたものに相当しそうです(第94
節)。同書ではさらに、intelligentiae quae sunt propinquae (ab
uno)、intelligentia quae sunt longinquioresという言い方もしてい
て、知性が一者に近いか遠いかいくつもあること(段階になっているこ
と)が伺えます。ここに、アヴィセンナなどの知性の分類(それは基本的
に魂の機能分類ですが)が重なっていくる糸口があることになります。余
談ですが、イェルク・ミュラーという研究者がまとめているのですが、ア
ルベルトゥスの知性分類も執筆時期によって変化するようで、1242年ご
ろの『人間について』では主にアヴェロエスをもとに比較的簡便な3分類
(能動知性・質料知性・思弁知性)を行っているのに対し、1259年の
『知性と知解対象について』になると、より精緻な6分類(とりあえず割
愛しますが)へと進んでいくといいます。この精緻化の過程には、アル
ファラービーの影響などもあるのだとか。ここで読んでいる『原因および
第一原因からの世界の発出について』は、さらにそれより後の1264〜67
年ごろの書だとされていますから、さらに考え方が深化・変化している可
能性もありそうですけれど、それはまた別の話ですね。


*本マガジンは隔週の発行ですが、次号は12月15日の予定です。

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投稿者 Masaki : 2007年11月21日 23:35