2007年12月18日

No.116

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.116 2007/12/15

------新刊情報--------------------------------
もう師走の半ばですが、年末年始に向けてちょっと刊行ラッシュな感じも
します。

『ギリシア・ローマ時代の書物』
ホルスト・ブランク著、戸叶勝也訳、朝文社
ISBN:9784886952035、6.730yen

中世史にとっても決して無縁ではない、という意味で挙げておきます。た
だ、「本書は、古代ギリシア・ローマ時代の書物と図書館をテーマにし
た、ドイツ語で書かれた最初の研究書である」との宣伝文句なのですが、
これ、原書は1992年にミュンヘンで刊行されたものなので、最初の研究
書というのはちょっと信じがたいんですけれどねえ(?)。現物を見てい
ないのでわかりませんが、書物史・図書館史学の一冊ということは間違い
ないのですけれど……。

『古代・中世の挿絵芸術−−その起源と展開』
クルト・ワイッツマン著、辻成史訳、中央公論美術出版
ISBN:9784805505526、22,050yen

古代からプレ・ロマネスク時代までのミニアチュール研究ということで
す。値段から察するに、カラー図版が充実しているのではないでしょう
か。ま、それにしても2万円を超える本なので、おいそれとは購入できま
せん……。図書館入りを待つ感じになってしまいますね。でも、ミニア
チュールと本文とがどのような関係にあったか、巻子本から冊子本になっ
てどういう変化が生じたかなどなど、かなり面白そうな内容ではありま
す。原書はプリンストン大学出版から出たもののようで、古書市場にはそ
れなりに出ていますね。

『中世の秋の画家たち』
堀越孝一著、講談社学術文庫
ISBN:9784061598546、1,260yen

『画家たちの祝祭』(小沢書店、1981)を改題したもの。15世紀のネー
デルランドでのいわゆる北方ルネサンスの画家たちを論じた一冊で、ファ
ン・アイク兄弟、ファン・デル・フース、メムリンク、ヒエロニムス・ボ
スほかが取り上げられているようですね。心性史研究の視点が織り込まれ
ているようです。

『イタリアの中世大学−−その成立と変容』
児玉善仁著、名古屋大学出版会
ISBN:9784815805760、7,980yen

ボローニャ大学(法学)とパドヴァ大学(医学)についての専門的な議論
のようです。目次を見ると、法学部の教育内容や医学部の制度の成立など
を中心に論じられています。15世紀のパドヴァ大学の社会的機能といっ
た、社会史との連関を扱った章もあり、なかなかに面白そうです。今や大
学は危機が叫ばれる時代になってしまっていますが、こういった大学成立
史は、そうした現代的な問題圏にとってもなんらかの足がかりになる場合
がありそうです。

『教皇と魔女−−宗教裁判の機密文書より』
ライナー・デッカー著、佐藤正樹ほか訳、法政大学出版局
ISBN:9784588008757、3,675yen

中世から近世にかけての魔女裁判にローマ教会がどのような立場を取って
きたかを追った興味深い一冊です。魔女裁判はよく暗黒の中世のイメージ
で引き合いに出されがちですが、実際には14世紀ごろにはそれほど極端
な迫害は行われておらず、むしろ後の16世紀半ばとかに深刻化していく
のですね。一方ではルネサンス文化が開花し、他方で宗教弾圧も激化す
る……。なにゆえにそうした両極端が生じているのかとか、そのあたりの
光と影の交錯は、社会情勢の変転なども踏まえてきっちり押さえておきた
いところです。

『中世の発見−−偉大な歴史家たちの伝記』
ノーマン・F・キャンター著、朝倉文市ほか訳、法政大学出版局
ISBN:9784588022333、7,875yen

「待ってました!」という感じの学問史です。20世紀の代表的な中世史
研究家20人のミニ評伝から構成された一冊のようです。メイトランド、
カントーロヴィチ、マルク・ブロック、クルトゥス、さらにはファンタ
ジー小説でも知られるルイスやトールキン、ハスキンズやホイジンガ、エ
ティエンヌ・ジルソンなどなど、まさに豪華絢爛といってよさそうな著名
人の名前が並びます。いいですねえ、こういうの。個人的にはちょっと最
近ジルソンをいくつか読んでいるので、そのあたりがとりわけ気になりま
す。


------短期連載シリーズ-----------------------
アヴィセンナの影響について〜ゴアションの講義から(その7)

アヴィセンナが西欧中世にもたらした議論には、存在論のほかに個体化の
理論もあったのでした。ゴアションはその議論の歴史的展開にも、わずか
ながらですが触れています。そもそもアヴィセンナの個体化論はどういう
ものだったのでしょうか。アヴィセンナの体系では、現世的な腐敗しやす
い質料は、10ある純粋知性の最後のものによって創られるのでした。純
粋知性にとっては形相のみが個々の事物の違いをもたらし、それが「本
質」として規定されるのですが、四大元素から成る質料の世界にあって
は、それとは別の個々の事物の違いがあります。そもそも形相は、受け入
れ体制のできている質料に、能動知性(「形相付与者」)によって与えら
れるとされます。その際の「受け入れ体制」の差によって、形相によるの
ではない別種の違い、個体的差異が生じるとされるのです。

つまり、個体的差異のよりどころは質料にあることになります。「受け入
れ体制」は外部からの影響で形作られるとされます。つまり天体や地上世
界の様々な影響です。そうして質料(正確には質料のある部分)が、ある
形相を受け取れるようになると(とりわけ量の規定を得て)、能動知性に
よってそれが形相で満たされるというわけです。この意味で、個体差の原
理は限定的な質料にあるということになります。ゴアションによれば、こ
のあたりはさらにもう少し複雑な議論になっているようで、まずは「身体
性という共通の形相」によって、質料に形相受容の下地ができる(それが
「受け入れ体制」ですね)といった話も展開するということですが、とり
あえず全体は以上のようなプロセスになるようです。

質料を単に不定の潜在態としてではなく、「積極的に完成を欠いたもの」
と見なすというこの立場は、後のアルベルトゥス・マグヌスによって整理
され、さらにドゥンス・スコトゥスによって先鋭化されていくわけです
が、そこにいたる道筋にもやはり紆余曲折があったようで、ゴアションは
そのあたりについても簡単にまとめています。オーベルニュのギヨームや
ヘイルズのアレクサンダーなどは、質料が個体差をもたらすのであれば、
身体から離れた後の魂に区別がなくなってしまうではないかと反論したよ
うです。グロステストになると、「身体性という共通の形相」(下地を作
るための前・形相のようなもの)自体は認めるようになり、ロジャー・
ベーコンはそれを継承する形で、形相にも一定の役割を認めた上で、個体
差の原理は不定の度合いが低くなった質料にある、とアヴィセンナ説に大
きく傾きます。アルベルトゥス・マグヌスやトマス・アクィナスによる個
体差の理解も、そうした流れの上にあるようです。

とはいえトマスの場合には、個体化の原理を質料に認めつつも、形相が事
物の一体性をもたらすという教義を擁護し、アヴィセンナ的な「身体性の
形相」を最初は受け入れていたものの、後になって斥けるようになるとい
います。また、その形相の一体性という議論に対しても、ロバート・キル
ウォードビーやジョン・ペッカムなどが批判を繰り広げたりもするのです
ね。いずれにしても、個体化理論をめぐるアヴィセンナ思想の受容もま
た、各思想家・神学者によってかなり大きな開きがあったことが伺えま
す。逆に言えば、それはアヴィセンナ思想がなにがしかの強烈なインパク
トをもって受け止められたことの証左でもあるのかもしれません。

* * *

さて、以上、ゴアションの『アヴィセンナ哲学と中世ヨーロッパへのその
影響』の第3講をざっと眺めてきました。講義録ということで簡略化され
ている部分もありますし、1940年の講義ですからその後に修正・深化さ
れた議論なども多々あるはずですが、とりあえず今回は導入という感じで
見ておきました。最近の知見へのアップデートは追々やっていくことにし
て、ひとまずこのシリーズは終了にしたいと思います。年明けからはまた
文献探査シリーズに戻って、今度はアリストテレスの『気象論』の受容に
ついて少しだけ追ってみたいと思っています。まだめぼしい文献が揃って
いないのですが、それも順に行っていくという感じで見切り発車する予定
です。少し長めのシリーズにしたいと思っています。どうぞお楽しみに。


------古典語探訪:ギリシア語編----------------
ギリシア語文法要所めぐり(その3:中動態・受動態)
(North&Hillard, "Greek Prose Composition"より)

今回はちょっと短縮版です。ごく簡単にですが中動態・受動態を取り上げ
ます。能動・受動はともかく、中動というのはちょっと馴染みの薄い概念
ですね。でもこれ、基本的には再帰的な意味を表すもの、という感じの理
解で問題なさそうです。「自分のために〜する」とか「自分のために〜し
てもらう」とか。能動態+再帰代名詞とほぼ同じ感じ、と押さえておけば
よさそうです。

例を見てみます。まずは「私は教える」と「私は息子に学ばせる(息子を
教えてもらう)」。

1. didasko^.
2. didaskomai ton huion.

「彼らは争いをとめた」と「彼らは争いをやめた(自分らのために争いを
終りにした)」

3. epausan ton polemon.
4. epausanto tou polemou.

もとが自動詞でも中動態は問題なく作られます。「私は立ち止まる」は
pauo^.とpauomai.(自分を止める)の二様に表現できるのですね。

一方、受動態で重要なのは、意味上の行為者を表す場合にはhupo+属格
とするのに対し、手段や原因を表す場合には与格とすることですね。「橋
は敵によって破壊された」と「橋は嵐のせいで破壊された」はこうなりま
す。

5. he^ gephura eluthe^ hupo to^n polemion.
6. he^ gephura to^i cheimo^ni eluthe^.

(気息・アクセント記号付きの例文はこちらをどうぞ→http://
www.medieviste.org/blog/archives/GC_No.3.html
)。


------文献講読シリーズ-----------------------
アルベルトゥス・マグヌスの天空論・発出論を読む(その14)

前回に続く箇所です。早速見ていきましょう。

# # #
Exemplum huius est in arte. Si enim ars comparetur ad lumen
intellectus, a quo et ipsa ars constituta est, sic proprie lumen
intellectuale est. Si autem consideretur ars in seipsa, secundum
quod forma quaedam est, sic constitutiva est eius quod imago
eius est. Si vero consideretur, prout facta est et in potentia et non
in actu, requirit id quod potentialiter formam suam suscipere
potest, quia formam suam hoc modo constituere non potest per
se existentem. Sed constituit eam in eo quod fundat eam et
terminat.

その一例は技芸に見られる。というのも、技芸を知的な光に例えるな
らーーその技芸自体も知的な光によって成り立っているのだがーー、技芸
に固有な意味もまた知的な光となるからだ。しかしながら、技芸をそれ自
体で考える、つまりそれがどのような形相であるかを考えるならば、それ
がいかなる像を取るのかがその性質をなすことになる。現実態としてでは
なく潜在態として作られたものと考えるなら、その形相を潜在的に受け取
れるものが必要となる。というのも、そのような形では、形相をみずから
存在するように成立させることはできないからだ。むしろ形相の礎をな
し、それを決定づけるものにおいて、それは成立するのである。

Sic ergo habemus constitutionem primae intelligentiae, quae
vocatur intelligentia primi ordinis. habemus etiam constitutionem
proximi motoris primi orbis, quem quidam vocant animam caeli
primi. Et secundum quod intelligit se in potentia esse, habemus
constitutionem primi orbis sive primi caeli.

したがって、私たちはこのように第一の知性の性質を有しており、それを
第一層の知性と呼んでいるのである。私たちはまた、第一の円軌道の動因
に近い性質を有しており、それをある人々は第一天の魂と呼んでいる。み
ずからを潜在態と知るという意味において、私たちは第一の円起動の、あ
るいは第一天の性質を有するのである。

Cum autem lumen intellectus primi principii fluat in primam
intelligentiam et exuberet, constat, quod exuberatio luminis iterum
refertur ad primum. Et dum sic intelligit se, per eandem rationem
constituit intelligentiam secundi ordini. Haec etiam intelligit se
secundum ‘id quod est’ et sic constituit motorem proximum.
Intelligit etiam se, secundum quod in potentia est, et sic constituit
mobile secundum, quod est secundum caelum. Intelligere enim se
in activo intellectu est lumen intellecutale emittere ad rei
constitutionem. Et sic habetur secunda intelligentia et secundus
motor et secundum mobile. Et dum illa intelligentia iterum intelligit
se esse a primo intellectu, necesse est, quod intelligat se in lumen
exuberante. Et hoc modo constituetur intelligentia tertii ordinis.
Intelligit etiam se secundum ‘id quod est’ et sic constituetr motor
tertii mobilis. Intelligit etiam se, secundum quod in potentia est, et
sic constituetur tertium mobile sive tertium caelum.

しかしながら、第一原理の知的な光が第一の知性に流れ込み、そこから溢
れるとき、溢れる光はひるがえって第一のものを指す。そしてみずからを
知る限りにおいて、その同じ道理によって第二層の知性を成立させる。さ
らにそれは「本質(何であるか)」に即してみずからを知り、かくして最
も近接的な動因を成立させる。またそれは、潜在態としてのみずからを知
り、かくして第二の可動体、すなわち第二天を成立させる。というのも、
現実態の知性においてみずからを知るということは、事物の成立に向けて
知的な光を発することにほかならないからだ。かくして第二の知性、第二
の動因、第二の可動体をもつことになる。またその知性は、再びみずから
を第一の知性によるものと知る限りにおいて、必然的にみずからを溢れ出
る光として知ることになる。そのようにして第三層の知性が成立する。そ
れはまた「本質(何であるか)」に即してみずからを知り、かくして第三
の可動体の動因が成立する。それはまたみずからを潜勢態として知り、か
くして第三の可動体、または第三天が成立する。
# # #

前回のところで、「他より生じるもの」(つまりは第一知性から生じる知
性体)は、三つの仕方で自己認識するという話がなされていました。その
三つとは、(1)みずからが他から生じていること、(2)みずからが本質をも
つこと、(3)みずからが潜在態としてあることです。この自己認識の結
果、その知性体は、(1)自分が由来するもの力に与り、(2)他を動かす動因
として自己を成立させ、(3)現実態をなそうとする、ということになり
ます。で、そうして現実態としてできる知性体もまた、やはり自己認識を
することによって同じようなプロセスを反復し、さらに下位の知性体を構
成することになる、というあたりの話が今回の箇所での主旨です。そのよ
うにして知性体は層をなしていく、というわけですね。この知性の層とい
う話、もとはアヴィセンナなどに見られるものですが、アルベルトゥスな
どによってキリスト教思想圏にもきっちりと取り込まれているのがわかり
ます。

この知性的営為の一例としてars(技術・工芸)が取り上げられているの
も興味深い点です。なるほど、アルベルトゥスは当時の一種の科学だった
錬金術などにも通じていたとされますし、このコスモゴニーないしコスモ
ロジー的な考え方とそうした技巧についてのヴィションは思想的に一続き
であったということが、この一節からも伺えます。また、そうした技巧を
用いるのが人間の知性である以上、人間の知性もまた、大きな隔たりをも
ちながらも神的な知性に与っているという考え方も確認できます。アルベ
ルトゥスは「能動知性」を魂から分離したものとは見ずに、魂の機能とし
て内在すると考えていたとされますが、このあたりの分与の考え方は上の
知性の層の話と密接に関係していそうです。

また、思いっきり余談ですが(笑)、知性が一種の「差異と反復」を通し
て層を、世界を作り上げていくという思想、存在と認識のダイナミズムに
関する思想は、なにも中世思想だけで終わってはいなさそうで、そうした
思想伝統は、はるか後世にまで受け継がれていくようです。たとえば20
世紀のドゥルーズ思想なども、その残響を響かせている感じがします。
まったくもって西欧(というか地中海世界)の思想史は奥深いですね。


*本マガジンは隔週の発行です。次号は12月29日の予定です。

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投稿者 Masaki : 2007年12月18日 01:23